2015年10月30日掲載の「真のお母様の『無原罪性』-『血統転換、私は母胎からなのです』の意味について」の補足説明④
お母様の御言「真の母となる人は韓氏でなければならない」について~「この決定論的な発言に対しては疑問を感じる」という批判への応答~

(文責:教会成長研究院)

 

(1)「予定論」に照合させて理解すべき御言

 サンクチュアリ教会側に立つある人は、次のような批判をします。

 2016年2月24日、真のお母様は、「宇宙の母になるかたは韓氏でなければならないので、(神様は)そう準備したのです」と語っておられる。この発言は、第一の崔先吉女史、第二の金明煕女史は、最初から失敗すべくして失敗し、現在の真のお母様だけが「真の母」となるように、神様によって予定されていたという主張のように聞こえる。このような決定論的主張は人間の責任分担を無視しており、そこに疑問を感じざるを得ない。

 サンクチュアリ教会側に立つ人は、以上のような疑義を提起します。しかし、真のお母様の御言は正しい内容であり、原理的に間違っているわけではありません。
 結論から述べると、これは「予定論」の問題であり、『原理講論』の「予定論」に基づいて考えるなら、上述のような疑問は解決されるのです。

 すでに、補足説明④の「神の摂理に現れた『独生子』『独生女』の復帰過程」で論じましたが、「独生女」(独り娘)の復帰過程は、「独生子」(独り子)の復帰過程と同様であると言えます。

 すなわち、アダムは、生まれたときから“神の血統”をもった「独生子」です。また、エバも同じく、生まれたときから“神の血統”をもつ「独生女」です。途中から「独生子」「独生女」になったわけではありません。また、個性完成した時に、初めて「独生子」「独生女」になるというのでもありません。
 
 真のお父様が、「独り子(独生子)とは、アダムのことです。堕落したので、独り子がいなくなり、独り娘がいなくなったというのです」(『真の父母經』35ページ)と語っておられるように、アダムとエバは生まれたとき、すでに「独生子」「独生女」であったのですが、堕落したために「独生子」「独生女」ではなくなったのです。その場合、彼らが堕落してしまったことは、神様の予定だったのではなく、どこまでもアダムとエバ自身の責任にかかっていた問題であり、彼らの責任分担の不履行によるものです。

 第2アダムであるイエス様の場合も、イエス様は生まれながらにして「独生子」です。イエス様の場合は、堕落したわけではなく、2000年のキリスト教史において、イエス様が「独生子」でなくなったわけではありませんでした。

 しかし、イエス様は、地上で生きておられるとき、神様に予定された「新婦」(独生女)がおられたにもかかわらず、探して立てられず、地上で「真の父母」になる使命を完成できませんでした。
 それゆえ、十字架と復活後、聖霊降臨によって「霊的真の母」を立てられ、そこで初めて「霊的真の父母」の位置にだけ立たれたのです。

 イエス様が地上で果たせなかったその使命を代わりに果たすため、第3アダムとして再臨主が来られました。再臨主も、アダムやイエス様と同様に、生まれた時から「独生子」です。決して、途中から「独生子」となられたのではありませんし、個性完成した時に初めて「独生子」になられたのでもありません。再臨主の場合、イエス様と違って地上で「新婦」(独生女)を探して立てられ、唯一の人類の「真の父母」となられました。

 そしてイエス様は、その「真の父母」から祝福を受け、子女の立場に立つことで、今では「独生子」(長男)ではなくなっています。以上のこれらの内容は、神様の「予定論」の問題になるのです。
 「独生子」とは、原罪がない、神様の人間始祖としての「長男」です。したがって、「独生子」は唯一の存在でなければなりません。第3アダムであられる再臨主が、その使命を完全に果たされ、人間始祖の立場としてのアダム(長男)が現れるなら、それ以外の人物(イエス様)は、たとえ生まれたときから「独生子」であったとしても、その「独生子」の位置を外れて、唯一の「独生子」の位置は、勝利したかたである再臨主にだけ移行するようになります。

 これと同様のことが、「独生女」においても言えます。
 すなわち、「独生女」とは、第1の方も、第2の方も、そして、真のお母様も生まれたときから、「独生子」の相対となることができる「独生女」です。これは、神様の「予定論」の問題になります。ところが、第1の方も、第2の方も、「真の母」となるべき使命をもたれたその立場から離れ、使命を挫折されたとき、「独生女」の位置から外れるのです。
 かつ、完全に勝利された「真の母」(独生女)が現れることで、それ以外の女性は、たとえ堕落していなくても(独生子のイエス様の場合と同様に)、「独生女」(神様の長女)の立場ではなくなるのです。しかも、第1の方も、第2の方も、勝利された「真の父」(文先生)「真の母」(韓夫人)から“祝福”を受けて、その子女の立場になることで、今は「独生女」は真のお母様お一人だけになっているのです。

 

(2)「独生子」の復帰過程と「ノアの3度の鳩の摂理」との照合

 まず、「独生子」の場合、前述したように、第1アダムは「独生子」として生まれましたが、堕落することで「独生子」ではなくなりました。
 そして、第2アダムのイエス様は、十字架によって地上で「真の父母」になることができなかったため、その使命を代わりに果たすために第3アダムである再臨主が来られ、その第3アダムが霊肉共に勝利され、人類の「真の父母」となられることで、イエス様は「独生子」(神様の長男、人間始祖の立場)の位置から外れたのです。そこには、予定論の問題がかかわっているのです。

 これらの上述した「独生子」の摂理内容について、神様は「ノアの箱舟と洪水審判の摂理」の3次の鳩の役事を通じて、前もって教えてくださっているのですが、そのことによって、第1アダムが堕落すること、第2アダムが十字架で死ぬこと、および、第3アダムに至って勝利することが、初めから“決定論的”に予定されていたことになるでしょうか?

 『原理講論』で説かれているように、神様の復帰摂理には、常に人間の責任分担が加わることによって展開されていくのであり、第1アダムが堕落することが初めから予定されていたのではありません。また、第2アダムのイエス様の十字架が、初めから予定されていたわけでもありません。そして、第3アダムである再臨主のときに至って勝利することが、初めから決定論的に予定されていたのでもありません。それらの摂理は、人間の責任分担がそこに加わって展開されるようになっているのです。

 にもかかわらず、神様ご自身は、「ノアの箱舟と洪水審判の摂理」の3次の鳩の役事を通じて、それらの摂理的内容を、まるで決定論的に教えてくださっておられるのです

 また、以下の内容は、『原理講論』で論じられている内容です。
 ローマ人への手紙9章11~13節には、ヤコブとエサウについて、「まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に仰せられたのである。『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである」と記されています。

 この聖句に対して、『原理講論』は、「神が胎中のときからヤコブは愛し、エサウは憎んで、更に長子エサウは、次子ヤコブに仕えるであろうと言われた。エサウとヤコブは腹中にあって、いまだ善とも悪とも、いかなる行動の結果も現すことができなかったにもかかわらず、神はエサウを憎み、ヤコブを愛したという理由はどこにあるのだろうか。これは復帰摂理路程のプログラムを合わせるためであった(249ページ)と論じています。プログラムを合わせるためと述べて、まるで人間の責任分担を無視したかのような決定論的な記述です。
 しかし、そのことをもって、この『原理講論』の決定論的表現、および神様が生まれる以前に「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」「兄は弟に仕えるであろう」などと語った言葉が、原理的に間違った内容であると言えるでしょうか?

 真のお母様が語られた、「宇宙の母になる方は韓氏でなければならないので、(神様が)そう準備したのです」という御言は、これらと同様の「予定論」の問題であると言えるものです。
 サンクチュアリ教会側に立つ人の批判は、上述してきたような、神様の「予定論」の問題を踏まえないまま、一方的に批判しているものに過ぎません。
 常に、神様の復帰摂理には、人間の責任分担がかかわって進展していくものであって、決定論ではありません。
 したがって、「第一のお母様、第二のお母様は失敗すべくして失敗し」ということはありませんし、さらには、「真のお母様のみが真の母となるように最初から予定されていた」ということでもありません。
 
 しかし、“全知”であられる神様は、ローマ人への手紙に「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(8章29~30節)と記されているように、「独生女」に対しても、あらかじめ人物を定められ、そして、召され、義とし、栄光を与えられ、唯一の方を長女(独生女)とされたということになるのです。

 それゆえ、真のお母様が語られた「宇宙の母になる方は韓氏でなければならないので、(神様が)そう準備したのです」という内容は、あらゆる可能性を知っておられる神様の予定により、ちょうど神様が「ノアの箱舟と洪水審判の摂理」において3次の鳩の役事を通じて教えてくださっておられることと同様に、そのように予定されていたと論じることができる内容なのです。
 これは、『原理講論』が論じている「予定論」の問題を総合的に把握するなら、矛盾なく理解していくことができるものです。