第三章 改革者を装った『100ヶ条の提題』者の正体


はじめに

霊的集団「氏族協会」の岡本言説『100ヶ条の提題』(09年3月24日初版)は、かつて出回った怪文書『95+13ヶ条の提題』の焼き直しに過ぎません。その問題提起は100か条もあるのではなく、次の三つに要約されます。

①教祖批判(岡本氏は、文鮮明師を、第4アダムを証しする洗礼ヨハネ的使命者とする)。

②統一原理(『原理講論』)批判。

③祝福結婚および祝福家庭の実体批判です。

これらは、反対牧師や日本共産党による反統一教会統一戦線の「戦略」そのものです。

反対牧師が統一教会を攻撃するのは、『講論』が十字架の救いの限界を主張するからです。共産党が攻撃するのは、『講論』が「勝共理論」の根源であるからです。

彼らの戦略目的は敵を殲滅(せんめつ)させることです。ゆえに反対牧師の言う「統一協会信者を救え」とは、論戦によって「統一教会の信者を消滅させよ」ということです。岡本氏らの「救おう」も婉曲(えんきょく)的ですが同じです。

統一教会がこれらの論敵を自然屈伏させるには、思想戦に勝利し、神の存在(「原理本体論」)を教え、神の心情(真の愛)を伝えることです。

 

 

一、「万能の鍵」(『御言』以外の判断基準と解釈基準)

 

(一)真理は、誰が解明するのか?

思想戦を勝利するには、まず相手のものの見方、考え方を知ることです。

『100ヶ条の提題』は、統一教会に対して次のように高言します。

「文鮮明師の御言の研究を重ね、御言を解明するための『鍵』を見つけ出したのです。その鍵を持って御言を拝読すれば、いかなる御言も明確にその意味を理解することができます。その結果、原理講論に不足していた真理の全貌を発見し、誤った箇所の修正に成功しました。そしてついに、神の黄金の杖に導かれ、『原理本論』に辿り着いたのです」(『100ヶ条の提題』9頁)

堕落して御言を失ったのはアダムです。したがって、御言を復帰するのはアダム(メシヤ)の責任分担であって、他の人間の責任分担ではありません。メシヤ以外に「完全な真理」(「最終真理」)を解くことはできません。このことはキリスト教徒ならば誰でも知っていることです。キリスト以外の人物が「天国へ導く鍵」(真理)を解明したという主張を信じたりしません。

『天聖経』『平和神経』『祝福家庭と理想天国』などを読めば分かるように、原理の「定義」や「解説」は、御言自体がしています。復帰された天使長的人物がするのではありません。

では、岡本氏がたびたび引用する次の御言は、どのように理解すればいいのでしょうか。

「今後、先生の教えがさらに綿密詳細になり、より分析、整理されて、直接的、字義的に表されてくる時、そこまで実体的に真理を知ることのできるあなた方は、何と大いなる時に、黄金のごとく貴重なる時に生きているあなた方でありましょうか」(『95+13ヶ条の提題』59頁)

上述の御言の解釈は、次の2つに分かれます。①「実体的に真理を知る」のは、文脈どおり、「今後、先生の教え」が綿密詳細に「直接的、字義的」に表されてくる時という意味、②「今後、先生の教え」が、だれかによって綿密詳細に整理、分析される時という意味。この2つのうち、いずれかという問題です。

岡本氏らは後者を主張し、「堕落人間自身の手」(岡本編「成約原理解説」1巻17頁)によって「文鮮明先生の御言集が整理分析されて初めて知り得る」(『95+13ヶ条の提題』59頁)と解釈します。しかし、正しいのは前者です。

 

(二)「比喩や暗号」を解く「万能の鍵」?

「御言を解明するための『鍵』を見つけ出した」と高言する岡本氏は、何を言いたいのでしょうか。それは「文先生の御言は直接表現」として「あからさま」にすべてを語っておられるのではなく(『95+13ヶ条の提題』89頁)、「暗示、比喩、表示、合図で教えた」(同)と言われる部分があり、この比喩で語られた部分を解くのに「鍵」が必要というのです。この鍵とは、御言に向かう時に、訓読者がすでに持っていなければならない「先行的理解」のことで、この鍵を持って御言を拝読すれば「いかなる御言も、明確にその意味を理解することができる」と言いたいのです。つまり、この鍵は「万能の鍵」であって、御言以外に持っていなくてはならない「解釈原理」だというのです。結局、岡本氏は、文先生の「御言が絶対基準である」(『95+13ヶ条の提題』57頁)と言いながらも、御言以外に「鍵」が必要であるとし、「新たな真理を解釈する基準」を設けているのです。そして、御言の解釈権を独占するのです。

岡本氏は「御言の中にある原理」から見てとか、「『御言』全体の総合的判断」から見てと、常に御言以外に自己の解釈原理や判断基準を持っています。この主観的な解釈原理や判断基準を絶対とするのです。

岡本氏は、絶対的な御言の権威を利用しながら、御言以外に「万能の鍵」(?)という「解釈原理」を新たに設けて、それによって、キリスト教徒、韓国語、境界線、還故郷、船、橋、ヘリコプターなどの文先生の言葉は、隠された意味をもつ「比喩や暗号」であると注解し、それを「鋳型の心象」として信徒の心に植えつけて誘導し、支配するのです。

 

(三)「全く異質な原罪観」(キスで血統が連結するのか?)

岡本氏らは、統一教会の幹部や信徒はこの「万能の鍵」(解釈原理)を持たないので、「再臨主の教える原理が全く分かっていない」(『100ヶ条の提題』8頁)と断言します。

ところで、「御言の中にある原理」を発見したという岡本言説の原理とは、如何なるものでしょうか。それは、レバレンド・ムーンが「原理の本」といわれる『講論』の原理ではなく、彼の手による自称「成約原理」(成約原理解説)のことです。その原罪観は『講論』の原罪概念ではありません。既存神学の「性質原罪論」(自己中心)と同じです。彼らは、この原罪観による「先行的理解」のフィルターを通して御言を見ており、御言が語り出す前に、結論を先読みしているのです。そして、『講論』と「御言」に相違点があると主張するのです。なぜ文先生が性質(自己中心)を「堕落の動機」とし、原罪と言われないのかを知るべきです。

 

(四)御言に「注釈を付加」

岡本言説は、次のように御言に「注」をつけます。

「先生が教えた御言と先生の原理以外には、どんな話にも従ってはならないのです」という御言に、次のように「注釈」をつけ、「先生が教えた御言と先生の(注:御言の中にある)原理以外には……」(『100ヶ条の提題』181頁)としています。

言うまでもなく「先生の原理」とは『講論』のことですが、加えた「注釈」はそれを否定し、『講論』に替えて岡本言説の「成約原理」なるものを密輸入しようとしています。

文先生(真のお父様)は、「日本の修士、博士、いくら博士といっても、文総裁のみ言に『注』をつけることはできません。説明できません」(「ファミリー」09年5月号20頁)と語っておられます。ところが岡本氏は、「注釈」を加えるのは「読み手の理解を助けるため」(『100ヶ条の提題』16頁)と、非を認めず言い訳をします。真理の判断は「御言が絶対的な基準である」と言う人が、御言を自分の見解に一致させるため、意図的に「注」を挿入するのは悪質です。

 

 

二、自称「第四アダム」(偽メシヤ)を迎える基台は「狸の泥舟」

 

(一)メシヤ(第四アダム)が来ている?

岡本言説による『100ヶ条の提題』は、単刀直入に言って、何を言いたいのでしょうか。それを手っ取り早く知る方法は、書籍の最後のページから読むことです。彼らは、結論として次のように述べます。

「第4イスラエル選民としての祝福家庭が、救世主『メシヤ』を迎えなければなりません。メシヤを迎えるためには、ホームチャーチ基台を祝福家庭が組織し、御旨を中心とした心情復帰の八段階路程を一歩一歩上がって行く必要があります。そして、長成期完成級で、『メシヤのための基台』を完成させて、『第4アダム』を迎えるようになるのです」(『100ヶ条の提題』456頁)、「地上に、『メシヤ』が既に来られています。今は何処におられるのか、お名前は何とお呼びするのか、まだ分かりません」(同457頁)、「私たち『祝福家庭』、『祝福二世』たちは、これから『メシヤ』を迎える準備を整えなければなりません」(同457頁)

以上のように、彼らは、文先生とは別の「第4アダム」(メシヤ)がすでに来ていると主張するのです。

 

(二)岡本言説は、文先生の「真の父母」としての勝利を認めず

では、岡本氏らは、文先生以外にメシヤが来ておられると言うなら、文先生はだれであると言うのでしょうか。

岡本言説は、「文鮮明師の路程は、準備された第二イスラエルであるキリスト教の失敗により、メシヤとしての使命を果たすことができず、2000年前のイエス様と同じように、新しい第三イスラエル選民圏を構築していくための中心人物として復帰天使長の立場で歩まれたのです」(『100ヶ条の提題』435頁)と言うのです。

確かに、文先生には、キリスト教の不信によって洗礼ヨハネの代理使命者として歩まれた一時期がありました。しかし、1960年、勝利されてメシヤの立場に立っておられます。ところが、岡本氏らはその勝利を認めず、洗礼ヨハネの使命者のままにします。

岡本氏らは、初めは文先生を真のお父様と呼びながら、最後は文先生への絶対信仰を棄てて、「第4アダム」がメシヤであると、態度を豹変させるのです。これが本音です。

 

(三)「還故郷と家庭協会運動」(岡本式解説と定義)

岡本氏は、還故郷について「還故郷とは自分たち祝福家庭が集まって、家庭的、氏族的基台を組んで、メシヤ(アダム)を迎え、『サタン的家庭』から『神の家庭』へと転換して行く運動のこと」(『100ヶ条の提題』335頁)と自己流に定義します。

また氏族についても、「文鮮明師の御言で指摘された『氏族』とは、『祝福家庭』同士が連携し、『メシヤのための基台』としての氏族基盤を造ること」(同315頁)と解説します。しかし文先生は「自分の親、自分の兄弟」「自分の親族圏を早く収拾していくのです」(『訪韓修練会御言集』248~249頁)と語っておられます。

上述のように岡本言説は、親族の救いを頭から否定しており、「氏族基盤は『家庭教会』が12以上連結されて『氏族教会』を作る」「ですから、家庭『協会』運動である」(『100ヶ条の提題』315頁)と述べ、「伝道ではなく、基台作りなのです」(同307頁)と言い切ります(万人救済の放棄)。

「天国の門」に関して、文先生は「真の愛で完成した真の家庭のキーでこそ、初めて開かれる門です」(『平和神経』294頁)と語っておられますが、岡本言説は「『家庭協会』から天国開門が始まります」(『100ヶ条の提題』311頁)と言います。

御言に「先生の家庭を中心として結合された祝福家庭は、一つの新しい氏族です」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』1060頁)とあるように、天国開門は「メシヤの家庭」を抜きにして始まるのではないのです。

また、文先生は「新しく神様による血統圏を受け継いだ子女になれるようにするのが、統一教会です」(同)、アメリカの3年半の闘争期(1973年4月1日~1976年9月)を通じて「世界史的な統一教会の勝利の土台が霊肉を中心として整えられるようになりました」(『祝福家庭と理想天国Ⅱ』730頁)と語っておられます。第三イスラエル(統一教会)は、神様の血統圏である霊肉の救済です。文先生とは別の「第4アダム」を主張する岡本言説とは大きく相違しています。

 

 

三、御言から乖離する岡本言説

 

(一)「祝福家庭の位置は長成期完成級の上」

岡本氏らは、「祝福は第三イスラエルへの入籍の儀式」、統一教会は「メシヤを迎えるための準備の基台であり、救済以前の位置です」(『100ヶ条の提題』355頁)と述べ、統一教会の祝福は「条件的祝福」で、形式的な儀式に過ぎないと断言します。しかし文先生は、祝福は「単純な結婚儀式ではない」と、実質的救済について次のように語っておられます。

「私が主導してきた祝福運動は、単純な結婚儀式ではなく、原罪を清算し、本然の真なる血統によって天に接ぎ木する神聖な行事なのです」(「ファミリー」07年11月号17頁)。

また、縦的8段階における祝福家庭の位置についても、文先生は「その祝福というのは、死亡圏内にあるものではありません。祝福は蕩減圏内で、死亡線以下で受けるものではありません。それは、エデンの園での堕落しなかった範囲です。これが祝福です」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』795頁)、「堕落は長成期完成基準以下であり、祝福は長成期完成基準以上です。それゆえ、祝福はサタンと関係がありません」(同)と語られます。ただし「3人の霊の子がいなければ……その基準は、そのまま堕落圏内にある」「3人の霊の子女がいなければ祝福できないということは、理論的であり、原則的である」(『祝福家庭と理想天国Ⅱ』923頁)と述べておられます。

以上のように、真の父母様によって「祝福された祝福家庭の位置」は「長成期完成基準以上」にあります。しかし、岡本言説は、「条件祝福家庭は、長成期の完成級の『位置』を祝福されたのであって、人の実体が祝福されたのではない。人は無原理圏にとどまったままであり、サタンの支配下にいる」(岡本編「成約原理解説」1巻94頁)と断言します。このように岡本言説の結論は、御言から乖離(かいり)しています。

 

(二)祝福は「サタン圏を完全に越えるもの」

縦的8段階について、文先生は次のように語っておられます。

「今の時代は蘇生、長成の段階を越え、完成の段階に進む時代なのです。縦からなる何千年の歴史を一遍に横的に越えていく時代なのです。すなわち、六千年の歴史を全部、一遍に越えていく時代なのです。ですから、サタンの侵犯圏内を脱しなければならないのです。それでは、祝福というのは何でしょうか。今までの歴史的なサタン圏を完全に越えるものです」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』739頁)

また、岡本言説では、無原理圏に存在する祝福家庭が基台をつくって「心情復帰の8段階路程を一歩一歩上がって行く」と言いますが、文先生は「アダムとエバが長成期完成級で堕落したために、長成期完成級の位置までは、家庭が行く路程ではなく個人が行かなければならない路程なのです」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』962頁)と述べています。

①長成期完成級の位置までは個人路程です。イスラエル選民は行義によって「僕圏」(他宗教も同じ)、キリスト教徒は信義によって「養子圏」(『祝福家庭』40頁)にいます。岡本言説は基台をつくって上がると言いますが、三位基台をつくって上がったのではありません。

②死亡線(長成期完成級)をいかに越えていくかという難題は、真の父母様の祝福で原罪を清算し、越えて行くのです。岡本言説の言う「第4アダム」ではありません。

③岡本言説では、祝福家庭3組でつくるのが「アダム家庭」(8人家族)であり、この基台で「死亡線」を越えると主張します。しかし、死亡線を越えるアダム家庭の8人家族とは3名の信仰の子女です(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』1006頁)。その「8人家族」の典型は、真の父母様の聖婚式(小羊の婚姻)と三弟子(3名の信仰の子女)の祝福という人類史上初めて死亡線を越えた形態(基台)のことです。

以上のごとく、改革者を装った『100ヶ条の提題』者の岡本氏は、御言に「注釈」を挿入して曲解し、御言の権威を利用(悪用?)しながら、御言以外に「解釈原理」を設け、「鋳型の心象」(比喩や暗号)を信徒の心に植えつけて支配し、「第4アダム」(操り人形)なる人物を立てて“偽メシヤ王国”をつくろうとしているのです。これが彼の野望であり、正体です。

ところが、岡本氏に屈した祝福家庭は、彼らが境界線を上がれると期待する「偽メシヤ」(第4アダム)の乗る船が、「狸の泥舟」であることに気づいていません。

 

 

四、死亡線を越え、いかにして完成基準に上がるのか

 

岡本達典氏の自称「成約原理」は、『講論』のように組織神学的に論じられたものではありません。『講論』を借用した“食わせ物”であり、御言を曲解したものに過ぎません。「創造原理」をゆがめ、特に「堕落論」批判に集中し、さらには、恣意的、独自的な救済観と摂理観をつくりあげています。

『100ヶ条の提題』(『95+13ヶ条の提題』)に見られるように、御言と原理を知っている者のみが成し得る「堕落論」批判を軽視することはできません。

 

(一)「成長期間の秩序的三段階」の争点

1 成長の「三段階」について

『講論』は、すべての被造物が完成するにあたって、「その成長期間は、蘇生期、長成期、完成期の秩序的三段階を通じてのみ完成するようになる」(77頁)と述べています。

文先生(真の父母様)も「原理主管圏内には、三段階の成長期間がありますが、その期間は完成期間まで21年……成長期間は三段階であり、一段階は7年に該当します」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』954頁)と述べています。御言と『講論』は一致しています。ところが、岡本氏は次のように主張します。

「『講論』は、成長期間を7×7×7=21としている。それで21才で完成するというが、長成期完成級で堕落したならば、それは14才でなければならないはず。ところが、御言では16才で堕落したと語られているので、堕落が長成期完成級ではなく、完成期でなされたことになってしまう」(参考:岡本編「成約摂理解説」2巻92頁)

彼はこのように述べ、御言と『講論』は矛盾しているのではないかと指摘します。そして、成長の「一段階は6年」であって、6×6×6=18才で完成すると主張し、『講論』の「成長期間の秩序的三段階」の概念を変更します。また、個性完成基準を「第一祝福を完成し結婚する位置は、長成期完成級を上がり立った位置、完成期蘇生級である」(同93頁)と定義し直すのです。

岡本言説は、成長期間を6×6×6=18に修正しますが、その御言の根拠として、「6数に6数と6数を加えた数は18です。これは、サタン数6数を完全に制圧するという意味です」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』1076頁)を挙げます。しかし、この御言は「1800家庭祝福の意義」について説明しているものであって、成長期間の「三段階」を修正する根拠となるものではありません。

 

2 「成長の個人差」について

文先生は、人間の成長には個人差があり、それは「21年を中心にプラス・マイナス3年」(『誤りを正す』27~28頁)であり、この思春期(18才から24才まで)の7年間は、「一生に二度とない愛の花が咲く時期です」(同)と語っておられます。成長の個人差を考えると、アダムとエバが長成期完成級(16才)で堕落したという御言と、『講論』の「一段階は7年」の間に矛盾はありません。

 

3 「原理の道」と「復帰の道」の相違

堕落しなかったなら、本来、アダムは一人で「完成期完成級まで行くことができました」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』957頁)。

しかし、文先生は「復帰の道」について次のように語っておられます。

「復帰の道は、一人で行くことのできる道ではありません。必ず祝福という関門を通して、堕落前のアダムとエバの立場である長成期完成級の基準を克服しなければなりません。そうなれば、完成期に上がることができるというのです。そこから祝福を受けた家庭は、7年という期間が必ず必要です。蘇生、長成、完成期間をそれぞれ7段階としてみれば21年になるので、完成基準を立てるためには、7年という期間が必要だというのです。ですから、統一教会に入れば、必ず7年路程を通過しなければなりません」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』944頁)

このように「原理の道」と「復帰の道」は相違します。堕落した「長成期完成級の基準を克服」するのは祝福結婚です。しかし完成するには、まだ完成期の「7年路程」が残っているのです。

結局、岡本言説の欠点は、「原理の道」と、堕落人間が歩む「復帰の道」の相違を認識していないところにあります。さらには、「完成期蘇生級で個人完成する」などという、原理にはない“異質な言説”を説く点にあります(自己流に修正)。

文先生は、「先生の御言以外は、絶対に信じてはいけません。あなたたちの言葉を付け加えることを最も嫌うのです。原理もそのままです。先生と神様が祝福して印(いん)を押した文章を修正できますか」(『神様の祖国 解産完成』106頁)と警告しておられます。「原理もそのまま」とある「原理」とは、文脈から見て『講論』のことです。

 

(二)完成期7年は「家庭路程」

岡本言説は、「『条件的祝福』基準で、夫婦生活をしてもよいのでしょうか?」(『100ヶ条の提題』60頁)、「祝福家庭が個人完成しないまま、夫婦生活をはじめたことは原理的に問題です」(同61頁)と批判します。

岡本氏らは、御言を10年以上も研究して来たと自称しているにもかかわらず、彼らがよく引用する『祝福家庭と理想天国』の中で、文先生(真のお父様)自身がその問いに次のように答えておられることを知らないのでしょうか。

「皆さんは祝福を受けましたが、息子・娘がなぜ必要ですか。長成期完成級から完成期完成級までの7年期間は、皆さんの息子・娘を立てておかなくては上がっていけないというのです。……堕落した父母の立場ではなく、堕落しなかった父母の立場に立ち、堕落しなかった息子・娘を生んで完成期完成級まで上がっていかなければなりません」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』956~957頁)。

「アダムとエバが堕落圏内から長成期完成級を越えたことが父母復帰です。堕落によってサタン主管圏に落ちましたが、堕落前の立場に立ったというのです。堕落するとき夫婦同士堕落したので、復帰された夫婦と同じなのです。ここからこの復帰された夫婦が父母の立場に上がっていこうとすれば、息子を仲立ちにしなければなりません。自分一人では上がって行けないのです」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』958頁)

「直系の子女であるアダムとエバが愛を失ってしまいました。アダムとエバ二人が失ってしまったので、二人が愛を中心として生みながら復帰しなければならないのです。統一教会の祝福は、この立場に二人を立て、子女を繁殖しながら上がっていくのです。これが祝福なのです。完成圏は直系の子女の名で上がっていく圏です」(同)

以上のように、文先生は「夫婦生活をしてもよいのでしょうか?」という問いに対して答えておられます。上述の御言は、なぜ完成期7年は家庭路程なのかに関して示唆に富んだ御言です。また、完成圏は「直系の子女の名」で上がっていく圏であって、第4アダムではありません。

 

(三)文先生を通して「完成基準に上がる道」

「真の父母は蘇生、長成、完成(期)基準以上に、完成基準を通過して下りてきているのです。解放圏を経て、神様をお連れして、堕落圏の長成(期)完成(級)基準まで下りてきて、先生が接ぎ木してやるのだから、先生を通して完成基準に上がる道ができるのです。梯子が作ってあるのです。……真の父母と一体となっていけば、無難にその峠は通過します。真の父母を離れた場合には、行く道がありません。原理的にそうなっているのです。分かりましたか?」(『訪韓修練会御言集』74頁)

上述の「梯子」が比喩であるのか、そうでないのかは、文脈からみて誰でも判断することができます。その他、還故郷、韓国語、船、魚、トンネルなども同じです。岡本氏の自称「万能の鍵」(恣意的注釈)は「原理を歪めて誤った道に誘う」ので危険です。

また岡本氏は、40才を超え、完成した文先生(真の父母)は、間接主管圏に「降りて来られない」「干渉できない」と述べ、その代わりの人物として「第4アダム」を登場させるのですが、文先生(真の父母)は「堕落圏の長成(期)完成(級)基準まで」自由に下りてきておられます。

 

(四)「長子権復帰」について

メシヤを迎え、死亡線(長成期完成級)を越えて原罪を清算し、「完成期」の実子圏に上がる「8人家族」(アダム家庭)の典型は、真の父母様の聖婚式と三弟子(3名の信仰の子女)の祝福の形態です。私たち祝福家庭の行く道は、その真の父母様の勝利圏である「8人家族」の形態を相続することによって、長子権を復帰し、「完成期」の実子圏を通過していくのです。長子権を復帰して祝福されれば、次に、父母権復帰と王権復帰を勝利して、神様の直接主管圏に至ります。

ちなみに、レーニン(AD1870~1924)は、長子権について次のように述べています。

「マルクス主義は……すべての勤労被搾取者の教師となり、指導者となり、首領となる能力をもつ前衛――を教育する。これに反して、今日支配的な日和見主義は、労働者党を大衆から切り離された高給労働者の代表者に育てあげている。つまり、資本主義のもとでかなりよい『地位につき』、アジ豆のあつもの〔注1〕とひきかえに自分の長子権を売り渡す、すなわち、ブルジョアジーに反対する人民の革命的指導者としての役割を放棄する代表者を育てあげているのである」(レーニン著『国家と革命』国民文庫、38頁)

〔注1〕アジ豆のあつもの――ささいな物質的利益のために行動する場合にもちいられる言葉。旧約聖書のイサクの長子エサウが、パンと「アジ豆のあつもの」のために弟ヤコブに長子権をゆずった故事から出ている。(同書の事項訳注、181頁)

これは、国家的次元で、サタンが「長子権(指導権)を放棄するな」とレーニンの口を通して公言し、神側に対して対決姿勢を整えようとしているところの文言です。

 

 

二、「初愛の結合」の御言は、「堕落論に対する総攻撃」を一刀両断

 

(一)「神の血統」と「サタンの血統」について

岡本言説は、いかにして「神の血統」に連結するかについて、次のように述べます。

「横的な男女の関係が血統を決定するのでなく、縦的な父子の性相的な心の関係が血統を決定すると語られている。神様ご自身が無形なる心情的な親でいらっしゃるので、無形な神様の血統は無形なる心情を中心として連結されざるを得ない」(『95+13ヶ条の提題』75頁)

このように、岡本言説は「心情の関係」だけを説き、「性関係」を抜きにして血統を論じているので、これならば一見して「誤りである」と分かる人も多いでしょう。しかし、次のように説明されるとどうでしょうか?

 

1 「神の血統への連結」について

岡本言説は、「神を中心として心と体が統一されたときに、神の血統と垂直に連結される」(岡本編「成約摂理解説」2巻100頁)、「神の血統は第一祝福を完成したときに連結される」(同)、「神の血統は、神の心情(真の愛)と直結することである」(同101頁)などと定義します。

このような言説に惑わされないために、まず押さえておくべきことは、堕落人間は「罪」のゆえに、接ぎ木(血統転換)なしに「神様と心情一体化すること」(真の愛と直結すること)、すなわち神人合一するのは不可能であるという点です。

岡本言説では、「正しい『血統』の概念は、『心情の要素』としての内的で『精神的』なものです。心情的な血統は、心と心が通じ合い結ばれることによってのみ連結されるのです」(『100ヶ条の提題』251頁)と述べますが、そこには堕落人間に対する罪認識が欠落しており、接ぎ木(血統転換)なしに神人合一(心と心が通じ合い)が可能であると妄信しているのです。そして、愚鈍にもこの見解から堕落論を総攻撃するのです。

ちなみに、彼らが「罪を認識している」と語ったとしても、岡本言説のいう原罪とは、『講論』の概念(淫行)ではなく、神様に罪の責任を転化させてしまう「性質原罪論」(自己中心)です。また、原罪を清算するメシヤは、真の父母様(文先生ご夫妻)ではなく、「第4アダム」を持ち出してくるのです。

 

2 キスして血統が連結するのでしょうか?

岡本言説が主張する「心情の関係が血統を決定する」という見解の誤りを、文先生の御言によって検証してみましょう。

文先生は、「サタンの血統は、どの部分から連結されたのでしょうか。キスを通じてですか。愛を通じてです。それがどこですか。その起点がどこですか。生殖器です。神様の視点から見るとき、この生殖器が恐ろしい器官だというのです。それを知らなければなりません」(『天聖経』宇宙の根本、1858頁)と語っています。

サタンの血統にいかにして連結したのかに関して、この御言に「愛を通じて」とあるように、生殖器を抜きに、個人的次元で、心情(愛)の関係のみで連結したのではないことが分かります。

また、神の血統の連結は、「愛を通じて」「神様の愛と人間の愛が一つとなるところ」でなされます。すなわち、それは本然の結婚による男女の凸と凹が一つとなる点です。サタンの利己的愛と人間の愛が一つとなるところも同じです。

御言は、生理学(生物学)と無関係な心の中の主観的見解ではなく、具体的、存在論的な見解です。

 

(二)「生物学的な血縁関係」について

岡本氏らは、「生物学的な精子や卵子を持たない『神』や『サタン』と、どのようにして“生物学的な血縁関係”になれるのか?」(第二十二弾、反論―33、『100ヶ条の提題』150頁)と述べ、疑義を呈しますが、この論難は「神様の愛と人間の愛がどこで一つとなるのですか」という問いに応答することで決着します。

では、「神の血統」や「サタンの血統」にいかに連結するかについて、さらに検討して見ましょう。

 

1 アダムとエバは「実体をもった神様」

「神様は二性性相になっているでしょう?結婚式をすればどのようになるのかといえば、神様の女性性相はエバに入っていき、男性性相はアダムに入っていって一つになるのです。別の言い方をすれば、アダムとエバは実体をもった神様の体であるということを知らなければなりません。そのようになれば、神様は、アダムとエバの内的な二性性相に入っていかれて愛で一つになるのです。そのようになれば、そこから神様の血統を受けるようになります」(『天聖経』宇宙の根本、1819頁)

この御言にあるように、「神様は、アダムとエバの内的な二性性相に入っていかれて愛で一つになる」のであり、個人的次元で、心の関係で「神様の血統を受ける」のではないと明確に述べておられます。

 

「アダムとエバが完成して神様の祝福の下で結婚し、初愛を結ぶその場は、すなわち神様が実体の新婦を迎える場なのです。アダムとエバの夫婦の愛の理想が横的に結実するその場に、神様の絶対愛の理想が縦的に臨在、同参なさることによって、神様の真の愛と人間の真の愛が一点から縦横の基点を中心として出発し、一点で結実完成するようになるのです」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』28頁)

このように、アダムとエバの結婚による「初愛の結合」は、「神様の愛」(縦的な愛)と本然の「夫婦の愛」(横的な愛)とが一つとなる場です。では、その一点(定着地)とはどこでしょうか。

文先生は、神様に対して「神様と真の父母の愛の定着地がどこですか?」(「ファミリー」06年3月号26頁)と真剣に尋ね求められました。神様の答えは、「真の愛の道は、直短距離を通る」(同27頁)でした。それによってすべてを悟られたのです。

それで、文先生は「男性と女性が90度で一つとなるところはどこだといいましたか。生殖器です」(『天聖経』宇宙の根本、1809頁)と簡潔明瞭に答えておられるのです。

神様の愛と真の父母の愛が一つとなる「定着地」(生殖器)から、神様の血統がスタートするのです(生物学的な血縁関係の形成)。

文先生(真の父母様)は、長い間、真理を探究し、答えが自分の中にあったのを知って唖然としたと語っておられます。「神様の血統」に連結する問題は、それほど難解であったのです。

 

2 神様には、性相的に「精子や卵子、生殖器もある」

岡本氏らは、「生物学的な精子や卵子を持たない『神』や『サタン』」であると憶測していますが、神様には精子や卵子、そして生殖器も血統も、性相的に「ある」のです。

だからこそ、人間や天使などの存在者には、それぞれの創造目的に従って、形象的・象徴的に形状化して現われてくるのです。

 

3 「正午定着」的な人生

神様の「縦的な愛」と真の父母(アダムとエバ)の「横的な愛」が、一点(生殖器)によって、90度で一つとなるのです。そこから神様の血統がスタートします。

したがって、祝福結婚(血統転換)をし、影のない「正午定着」的な人生を営む人の“夫婦の愛”にのみ、神様は臨在されるのだと言えます。

 

4 「初愛の結合」について

完成基準(神の直接主管圏)に立った「初愛の結合」は、四大心情(子女の心情、兄弟姉妹の心情、夫婦の心情、父母の心情)が完成していく定着地となります(「一点で結実完成する」)。完成したアダムとエバの結婚式は、神様ご自身の結婚式です。

また、文先生は「四大心情の完成の定着地は、夫婦を中心として愛が一体となる位置です。夫婦の愛が一体となる時、アダムとエバも完成されるのですが、神様まで完成されるのです」(『天聖経』真の家庭と家庭盟誓、2569頁)と語っておられます。

結婚式において、神様の創造性と主管権が賦与されます(『祝福家庭と地上天国Ⅰ』923頁)。神様が、絶対・唯一・不変・永遠なる存在であるために、「初愛の結合」によって完成した人間も、絶対・唯一・不変・永遠なる存在となります。

 

5 生殖器は愛と生命と血統の「本宮」

文先生は、生殖器は愛と生命と血統の「本宮」であるとして、次のように述べておられます。

「女も男も愛の本宮をもっているのです。……夫婦が一体になる所が愛の本宮です。男女の生命が一体になる本宮です。そこ(本宮)において血統がつながるのです。それ以外は血統がつながりません。……その本場(本宮)が、堕落のために悪魔の本場となり、本宮が地獄の悪魔の本宮になってしまいました。天国と神様の本宮になるべきものが、神様の愛の本宮、神様の生命の本宮、神様の血統の本宮になるべきものが、悪魔の三大基地になってしまったのです」(『誤りを正す』115頁)

以上は、「神の血統」や「サタンの血統」にいかに連結するのか、という問いに対する文先生の御言による応答です。「愛の器官」(神様の血統の本宮)を抜きにして、性関係以外のものによって血統は連結しないということです。

ちなみに、血統転換はキリスト教の聖餐式に対応する「聖酒式」によるものであって、反対派が批判する「血分け」(メシヤ的人物と不倫関係を結ぶこと)ではありません。

 

 

三、負け犬の遠吠え、堕落論批判(非科学的妄想)に応答する

 

(一)岡本言説による次の問いや批判に対し、「御言」自体が応答している

 

1 「生物学的な血液を持たない神やサタンの血統の本質を、“生物学的”なものとする森氏の原理観の根拠はいったい何処にあるのでしょうか?」(第九弾、「祝福二世相談室」の反論―19)

神様の愛と人間の愛が一つとなるところは生殖器です。そこから神の血統がスタートします。しかしながら、神様の「性相的な血統」を、生物学的なものと言っているのではありません。血統に関して、御言では「精子と卵子が一つとなったところに、愛によって根が生まれて発生したのが、皆さんの子女です」(「ファミリー」07年3月号7頁)とあり、生物学的に表現されています。これは、あくまでも神様の性相的血統が、形状的血統として現われているのです。

 

2 「“無形”かつ“心情的存在”である『神』と、一体いかなる方法で、『生物学的につながる』ことができると、森氏は主張するつもりなのでしょうか」(第九弾、反論―19)

この問いは、すでに「御言」が答えています。「真の愛の道は、直短距離を通る」です。

 

3 御言が示す「『神の血統』や『サタンの血統』という概念は、決して森氏の言うような『生物学的な次元』のものではなく、『心情的な血統』である」(第二十二弾、反論―33)

このような生理学(「生物学的な次元」)と対応しない妄想は、岡本言説の独断的な見解であって、決して「御言」の定義ではありません。

「神の血統」および「サタンの血統」とは、性相と形状が一つとなった血統であって、生理学(生物学)と矛盾していません。

 

(二)「堕落の動機と経路」(いかにサタンの血統に連結したのか)

岡本氏らは、横的な男女の淫行によってしてはサタンの血統に連結しないと述べ、『救済論の問題点』の見解を次のように繰り返します。

「サタンとエバが淫行を結べば、確かにエバは『サタンの妻』と呼ばれる関係になりますが、決してサタンと『血縁関係』にはなりません」(第二十二弾、反論―33)。

そして、「堕落の経緯は、全て“愛の流れ”という『心情的観点』から見たとき、はじめて『血統問題』の存在を理解することができるのです」(同)といった独自の持論に固執します。

しかしながら、文先生は「堕落の責任は、サタンを中心として、エバから始まり、アダムに移りました。すなわち、偽りの生命の種を受けたエバの立場からすれば、神様に代わってサタンが父の位置でエバと(一体となって)、アダムを生んだ立場となり、堕落が成されました。こうしてエバは、天使長とアダムを各々父と息子のような立場に立てて堕落した」(『誤りを正す』166頁)と語っておられます。

これは、いかにしてアダムがサタンの息子となり、サタンの血統に連結したのかを説明しておられる御言です。父子関係は縦的愛であって、血統がつながります。堕落の結果、サタンが“偽りの父”となり、アダムはその“偽りの息子”となって、そこに父子関係を生じさせ、サタンの血統が連結されたのです。まさに、サタンは“偽りの父”となったというのです。

“愛の流れ”だけでなく、そこには性的関係があるのです。愛の関係を結べば、「愛は所有権を決定する」(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』440頁)のです。ところが、岡本言説では、性関係(淫行)を隠蔽しようとします。これでは、「サタン弁護論」であるといわれても仕方がありません。

「サタンは嘘つき、自分の罪を隠します。また巧妙に原理を歪めて誤った道に誘います」(『100ヶ条の提題』350頁)という彼らの言葉は、まさしく岡本言説(自称「成約原理」)の本音に他ならず、彼らの正体を言い当てています。

― 以上 ―