(注:神山氏側の発言内容は「茶色」で、真の父母様の御言、及びすでに発表した公式見解は「青色」で表示)
(序)神山氏の「反論」に対するコメント
今まで、教会側は、真のお父様の御言に基づいて、神山威氏が語った講演内容のどこが問題であるのかについて、一つひとつその根拠を示しながら、神山氏の講演内容、及び御言解釈の誤りを指摘してきました。
例えば、真のお父様が「全て成した」と語っておられるにもかかわらず、神山氏はその御言を不信し、「お父様が全てを成したというなら何を成したというのか。……真の家庭がどこにあるの?……ない! ない!」(神山威氏の講演文)と語っています。これは、お父様の御言に対してだけでなく、お父様ご自身および真のご家庭に対する不信です。
また、真のお母様は、天一国経典『天聖經』と八大教材・教本『天聖經』を明確に区別しておられ、お父様の御言を誰よりも重んじておられますが、神山氏は、御言を改竄したと批判しています。そこで教会側は、「真のお母様が編纂された天一国経典は、八大教材・教本『天聖経』と同様に、真のお父様の御言(「文鮮明先生御言選集」)を主題別に編纂したものであり、真のお父様の御言そのものです」と丁寧に応答しました。ところが、神山氏は、天一国経典『天聖經』のどの部分が御言の改竄であるのか、その根拠を示さず、御言を改竄していると批判します。
さらに、真のお父様は、真のお母様と「最終一体」を成され、「完成、完結、完了の基準で、全体、全般、全権、全能の時代を奉献宣布」しておられるにもかかわらず、神山氏はそれを信じずに、訓読会で真のお母様がトイレに行かれたことなどをもって、「お父様は、お母様が来るのを待っている時間……本当に寂しそうでした」と主観的判断を語り、お母様はお父様と一体化していないと述べるなどし、不信感を露わにします。このように、真のお父様が公式に宣布された御言を不信しているにもかかわらず、神山氏は、八大教材・教本『天聖經』を守れと述べるなどしており、その言動は〝矛盾に満ちている〟と言わざるをえません。
このような神山氏の言動や御言に対する姿勢からも、神山氏は「UCI」(いわゆる「郭グループ」)と歩調を合わせて、八大教材・教本『天聖經』を語りつつ、真のお母様を批判しようとしていることは明らかです。
このように、神山氏の講演内容の問題点の一つひとつを丁寧に指摘しながら、その誤りについて述べているにもかかわらず、神山氏は、2015年2月18日にアップした「教会の『声明文』と『第三弾』に対する反論と提案(その3)」の序文で、「教会側は誠実に答えようとせず、揚げ足取りのような『反論』に終始しているため、『泥仕合』のようになってきました」と述べています。
教会側は、神山氏の講演内容の誤りをきちんと論証し、御言の根拠を示しながらそれに答えているにもかかわらず、それに反論もしないで、「『泥仕合』のようになってきました」と述べるのは、あまりにも無責任と言わざるをえません。そもそも〝事の発端〟は教会側が神山氏サイドの質問に対して期限内にメールで回答を送ったにもかかわらず、神山氏側がそのメールの確認を怠り(注:教会からの回答が「ジャンクメール」に入っていたという)、インターネット上で〝公開質問状〟として一方的に公開し、言い掛かり的不毛な論争を仕掛けてきたのは、神山氏サイドなのです。分が悪くなって「泥仕合」だと言い、白旗を掲げて対話から逃げようとするつもりでしょうか?
ところで、教会側は【第3弾】の反論で、「真のお母様は、『基元節』を期して、名称を統一教会から世界平和統一家庭連合に変更され、『これからは家庭教会になる。全ての宗教団体が超宗教的に家庭を中心として家庭連合と一つにならなければならない』(『トゥデイズ・ワールドジャパン』天一国元年天暦2〈2013年4月号〉46ページ)と語られました。真のお母様は、真のお父様が遺されたご意向を受け、『世界平和統一家庭連合』の名称にされましたが、この一点を見ても、真のお母様は真のお父様と完全に一致しておられます」と述べたうえで、「真の父母様は摂理の『完成、完結、完了』を宣布され、全てを成し遂げておられます。しかしながら、統一教会はまだその『使命』を果たす過程にあります」、それゆえに「宗教(統一教会)の使命を早く終わらせなければなりません」と述べました。
それに対して、神山氏は、その文言を正確に述べず、2月12日にアップした「『歴代会長団及び有志代表による声明文』に対する反論、及び『第三弾、神山威氏の講演内容の誤り、及び御言解釈の誤り』に対する反論(その2)」のなかで、「(日本本部は)まだまだ『統一教会』が必要だと主張しています」「あくまでも日本は『統一教会』が必要だと主張しています」と繰り返し述べています。
教会本部は、神山氏が述べている「『統一教会』が必要だと主張している」という内容など語っておりません。事実に反する主張はやめるべきです。教会本部は、真のお母様が「世界平和統一家庭連合」の名称にされたように、そのご意向に従って名称変更できるよう取り組んでおります。
しかしながら、勝手に名称変更ができない理由についても、「宗教法人の名称変更には法的手順があり、法律を無視して、自分で勝手に『名称変更』をすればいいというわけにはいきません。コンプライアンスの遵守が極めて重要であるのは、言うまでもないことです」と説明していました。
ここまで懇切丁寧に回答していたにもかかわらず、神山氏は「お父様は、日本の統一教会のように、あくまでも『自分の宗教に固執するものは滅びる』と言われています」と勝手に断罪し、最後の項目では「お父様を無視しないで下さい」と掲示し、教会本部が名称変更できていないことを非難しています。
教会本部は、統一教会の名称に固執していませんし、真のお父様を無視などしておりません。元会長ともあろう神山氏が、宗教法人の名称変更に〝法的手続きが必要である〟ことを知らないはずはなく、もしそのようなことを知らないで教会本部を批判しているとするならば、最低限、統一教会の会長として持つべきであった見識も持ち得ておらず、それゆえに、教会本部を批判しているのではないかと憐憫の情を禁じ得ません。
次に、「ボート会議」について、神山氏は2月18日に新たな反論文をアップし、そのなかで、「2010年7月2日、顕進様から古田社長に、シアトルに来るようにとの指示があり、私も古田社長から一緒に来てほしいと頼まれたため同行しました。その場で顕進様が言われたことは、『3000名の社員を持つアメリカのトルーワールド・グループの社長なら、もっとアメリカにいて仕事に専念しなさい』ということでした。ところが古田社長は、『自分は病気がちだし、日本にも責任を持たなければならない』と主張しました。それに対し、顕進様は、『そのような(あっちの花こっちの花と飛び回る蝶)バタフライのようではいけない、どちらかを選びなさい』と言われた」等々、弁明をしています。
この神山氏の弁明を聞いていると、どこまでも〝顯進様を中心として動いている〟のであって、真のお父様のご意向を中心としていないことを感じます。
上記の弁明の後、神山氏は、古田社長の後任として「急遽八代副社長を社長に任命した」とありますが、この人事異動について、「真のお父様の承認は得ておられるのですか」と反対に聞きたくなります。
それにしても、以前の反論では、「ボート会議」が複数の参加者によって行われたことを否定されたのに驚きを禁じ得ませんでしたが、今回の反論では、さらにお父様が語られた御言の内容を否定するにとどまらず、ボートから降りたとき「神山氏は、『自分は目から鱗(うろこ)が落ちた。お父様は、顯進様のことをあきらめておられることが分かった』」と語ったことについても否定しており、その場に居合わせた人や神山氏からボート会議の話を聞いた人は、この神山氏の事実をねじ曲げる態度に一様に驚いています。
それにしても、神山氏の弁明に対して〝不可解〟に感じることがあります。「私以外にお父様の近くにいた人はいません」という状況だったと言っているにもかかわらず、「耳元で話されたので誰もすぐ近くで聞いていた私も知らないことが多くあります。たとえば、お父様は『顕進は今、先生の直下にいない』とは言われましたが、『顕進は先生と同じ方向に向いていない』という言葉は聞いた覚えがありません。さらに、『汝矣島(裁判)のことはお前が考えなくても良い』とは言われましたが、『顕進のことはお前が考えなくても良い』とは聞いていません」と述べている点です。二人きりであるはずなのに、「顯進は…云々」「…お前が考えなくても良い」という御言が漏れ伝わっているのはなぜなのでしょうか? 「ボート会議」の場に神山氏以外、他に2人の日本人がいたことは事実なのですから、これ以上、真実を曲げることはできません。
ところで、神山氏は、教会側が「2011年 2月 4日の『愛勝日記念式』でも、真のお父様は神山氏に対して直接、警告の御言を語られています」と述べたことに対し、今回の反論では、「また性(しょう)懲(こ)りもなく、『真のお父様は、式典参加者の全体の前で神山氏に対して直接、警告のみ言を語られています』と主張しています。そこでは私は、お父様の指示に従って、『私の話を聞くのではなく、お父様の話を聞きましょう。』と述べたのです」と反論したうえで、「お父様から『たたかれる』のは、蕩減のためであり、恩恵です」と述べて、全く反省していません。
真のお父様は、ただ単に神山氏を叩かれたのではなく、日本人に対し「神山の話を聞いてはいけない」と警告しておられました。今となっては、真のお父様はこの時すでに、神山氏が現在のような状況になることを予見され、「神山の話を聞いてはいけない」と語っておられたものと考えざるをえません。
(1)〝男性〟の性稟も〝女性〟の性稟も、ともに神様に由来します
さて、前回、教会側が発表した【第3弾】の反論(公式見解)で、「神山氏は2014年9月26日の福岡・久留米の講演会で、男性が有する性染色体XYと、女性が有する性染色体XXを引き合いに出し、男性の有するY染色体だけが神様に由来するものであり、Xはそうではないかのように論じ、まるで女性は『神の血統』をもっていないかのように語っています。このような主張は、『女性蔑視』であり、非科学的珍論と言えるものであり、その誤りについては、追って【第4弾】の別の項目で指摘いたします」と述べておきました。
初めに、この問題に関する神山氏の講演内容の誤りを指摘しようと思います。
神山威氏は、2014年9月26日、福岡・久留米で語った講演を7本の映像に小分けしてブログにアップしています。その7番目の映像「お母様は真の愛と真の血統を持っていません」のなかで、神山氏は、性染色体のうちのY染色体だけが神様に由来するものであり、X染色体はそうではないかのように論じています。
7本目の映像の5分47秒から8分38秒までの約3分弱の「神山氏の講演内容」をディクテーションすると、以下のようになります。
「お父様は男だから、その染色体DNAはXとYなんだよ。お母様はXとXだよ。2人が結ばれると、どうなるの? 男の子が生まれたらXYの染色体を持っている。(その男の子が)お嫁さんを迎えて結婚して、男の子が生まれるとXYの染色体を持っており、女の子だったらXXだよ。では、さらに男の子が生まれ、お嫁さんをもらって結婚して男の子が生まれるとXYの染色体もって生まれます。女の子だったらXXです。すると、このYという染色体はどこから来たのよ?(会場の声:「Yはお父さん」)そうでしょう! Yはお父さんだよ。じゃ、お父さんのこの染色体(Y)は、どこから来たの?(「お父さん」)その上のお父さんです。男の子のYは、お父さん(それは)メシヤだね。では、このYという染色体はどこから来たの?(根源をたどると)神様だ。だから、神様は『父』というんだよ。
これ(Y)は男から来る。男だから『父子の関係』です。だから『宇宙の根本は父子だ』という結論をお父様は出しました。(Yを)ずっとたどってみると、そこ(神)に行っちゃうんだよ。
だから、さっき御言を読んだなかで、こんな御言があったじゃないですか。『お母様は真の愛と真の血統を持っていません』。これは、お父様の『真の父母と重生』という御言ですが、『真のお母様は真の愛と真の血統を持っていません。向こうのほうです』と。
ということは(お母様は)お父様によって再創造されて、そして(Yをもつ)お子様たちが生まれて、そのお子様たちが神様の真の血統をもっているというんです」(以上、要約)
神山氏の説明を聞いていると、女性は「神様の血統」をもっていないかのような主張となっています。この〝女性蔑視〟とも言える珍論に対し、「では、Xはどこから来たのですか? 神様とは関係ないのですか?」と突っ込みたくなります。
『原理講論』に、「神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体」(46ページ)とあるように、男性の性稟も、女性の性稟も、ともに神様に由来するものです。Yの性染色体のみが神様に由来するものであり、Xの性染色体はそうでないかのように論じる神山氏の言説は、女性差別であり、原理的にも誤りです。
神山氏は、男性だけが持つ性染色体のYを持ち出すことで、まるで男の子女様だけが真のお父様の遺伝子を相続し、女の子女様は真のお父様の遺伝子を相続していないかのように論じ、かつYの染色体をもつ男性だけが、神様に由来するかのように述べています。
キリスト教神学は、「男は、神のかたちであり栄光である」(Ⅰコリント11・7)と強調し、聖霊も〝男性〟であると信じていますが、神山氏は、このキリスト教神学の立場にたって物事をみているかのようです。
ところで、神山氏が語っている〝性染色体〟は、人間がもっている染色体23対の内の1対にすぎません。Yの性染色体以外の父親の遺伝子は、女の子にも受け継がれています。
したがって、女の子女様も、真のお父様の遺伝子をしっかりと受け継いでおられるのであって、それは常識中の常識です。
〝性〟を決定する男性のY染色体のみに着目すれば、当然ながら、男性しかY染色体はもたないために、女性は、まるで父親の遺伝子を受け継いでいないかのように〝勘違い〟してしまう人も、まれにいるようです。神山氏がYとXの性染色体を持ち出して、男性だけが父親の血統を受け継いでいるかのように述べている言説は、遺伝に関する無知が生み出した〝非科学的珍論〟に過ぎません。
神山氏は、とんでもない勘違いから、神様の中にも〝女性の性稟〟があることを忘れて、Yの性染色体だけが神様に由来するものであり、だからこそ神は「父」であると断言し、それゆえ、真のお父様が「宇宙の根本は父子だ」と語られたのだと確信しているようです。
しかし、すでに【第2弾】の反論でも述べたように、「ここで明確にしておかなければならないのは、父子関係とは『父と息子』の関係に限らず、『父と娘』の関係も父子関係であるという点です。……神様は『本陽性(男性)』としてのみおられるのではなく、『本陰性(女性)』でもあられます。神様には、女性の性稟が〝ない〟のではなく、〝ある〟という点を理解」しておかなければなりません。
ところで、「血統」について論じるとき、真のお父様は『平和神經』で「生命と愛が合わさって創造されるものが血統です」(28ページ)、「血統は、父母が子女だけに与え得る特権中の特権です」(39ページ)と語っておられるように、血統は、男・女による両性の「生命」を抜きにして生じることはありません。
それは、「生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです」(同、28ページ)とあるとおりです。
真のお父様は、男性と女性の両性の〝生命〟がかかわって血統が生じることについて、次のように語っておられます。
「生命を見ましたか? 生命に触ってみましたか? 生命体は見えるけど、生命は分かりません。触ってみることはできません。血統もそうです。血統は夫婦が愛するその密室、奥の部屋で結ばれるのです。そして、精子と卵子が出合って生命体として結合するとき、血統が連結されるのです」(「ファミリー」1995年3月号、22ページ)
「皆さんが父母から受け継いだ命は、父の精子と母の卵子を受け継いだところから出発したのです。その卵子と精子が一つとなったところに、愛によって根が生まれて発生したのが、皆さんの子女です」(「ファミリー」2007年3月号、7ページ)
このように、真のお父様は、父母から子女への生命の連結、すなわち「血統」に対して、それは、愛を中心として精子と卵子が一つとなることから出発したと、生理学的に述べておられます。
ただし、精子と卵子の生理学的次元の指摘だけでなく、さらに深く考察され、「愛によって根が生まれて発生した」と〝愛〟を強調しておられます。
神様の血統に連結するか、サタンの血統に連結するかという問題は、この〝愛〟を認識しなければなりません。血統は、愛と生命によって生じるその〝実り〟なのです。
また、真のお父様は、血統と遺伝法則について、次のように述べておられます。
「千代万代後孫が罪人になる善悪の実とは何でしょうか。これは血統的関係です。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝の法則によって永遠に続くのです。そうであり得るのは愛の問題だけです。誤った愛が堕落の原因です」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』435ページ)
このように、「血統」と生理学的な「遺伝法則」は、一体不可分です。血統は、教会側の【第3弾】の反論でも述べたように、真のお父様の上述の御言で分かるように、「血統の連結には、当然のことながら、男性(精子)だけでなく、そこに女性(卵子)も関与していることについて、明確に言及しておられ」るのです。
そして、真のお父様が「エデンの園のアダムは、神様の独り子です。エバは、神様の独り娘です」(159-195、1968.05.10)と語っておられるように、「本然のエバ(女性)は神様の『独り娘』であり、神様の血統をもっているということを知らなければなりません」。
神山氏が主張するように、女性は神様の〝血統〟をもっていないのではなく、もっているのです。
(2)悪意ある御言引用:「お母様は真の愛と真の血統を持っていません」について
前述したように、神山氏は、男の子女様のみが真のお父様の遺伝子を受け継ぎ、女の子女様はそうではないかのように論を展開するなかにおいて、「お母様は真の愛と真の血統を持っていません」という御言を引用しています。
一部のみを抜粋する御言引用によって、いかにも、真のお母様は「神様の血統をもっておられない」かのように印象付けようとしています。しかし、これは実に悪意に満ちた御言引用の仕方であると言わざるをえません。
ところで、神山氏は2014年9月、日本で講演した際に「今日の訓読のみ言」と題する64ページからなる資料を配布しましたが、その4ページ目で、この御言が「1993年12月20日、真の父母と重生」からの引用であることを明記していました。
ところが、それから約4か月後の1月21日に公開した「公開質問状4」では、「天聖経、祝福家庭」からの引用と変えており、引用元(典拠)が誤っています。
誤った記載となることで(注:意図的か、不注意なのかは不明)、八大教材・教本『天聖經』をいくら読んでも、そこに収録されていないため、この御言がどのような文脈で語られているものか、読者にとって確認することができなくなっています。
この御言は、以前の表記に「真の父母と重生」のタイトルがあることから分かるように、真のお父様が16万訪韓セミナーで「血統転換」について語られた御言の一節です。
これは、1994年11月3日に、光言社から出版された『訪韓修練会御言集』に収録されている御言です。以下、少し長文になりますが、重要ですので引用いたします。(注:神山氏の引用部分を太字ゴシックで表記)
「過って生まれたのだから、蕩減は反対の方向へ行くのです。生まれるのも反対の方向にこういうふうに生んできたので……『逆に帰れーっ』と。そういうふうに再び生んだものが、地上天国です。分かりましたか?(はい)。そういうふうにして、真の母の腹を通過して再び生まれてくるのです。
これに、入ってくる時は左のほうから入ってくるのです。分かりましたか? なぜ左のほうから入るかというと、お母様が左のほうだからです。入ってきてお母様の腹の中に入ったとしても、その入った子供とお母様の根っこは何かというと、渋柿の根っこから切って取り返してきたものです。分かりますか? それが天の家庭に入るには、手続きをしないといけないのです。何の手続きかというと、愛の手続きです。だから、真のお母様の腹の中に入っていても、それは真のお父様の真の愛と真の血統にはまだつながっていないのです。お母様は真の愛と真の血統を持っていません。向こうのほうなのです。それは、新婦の立場で、新郎を迎えて一つとなるということです。分かりましたか? 分かりましたか?(はい)。
全世界がここに入ってきて、それからどうなるかというと、真の父母の夫婦関係によって、はらんだ子供、その者を、真のお父様の真の愛を中心に、真の子供の種を持ったお父様が愛の関係を結ぶことを、実感したあとに生まれたと同じようになるのです。そのような期間を通過しながら、お母様の腹の中に入った子供たちが、真の父の子供の種が真っ赤だったとするならば、愛の関係を繰り返すことによって、色が染められていって、ピンクからだんだん深まっていくのです。ピンクからでもそうなったとすれば、真の父母の愛と真の子供の種と接ぎ木したという、つないだということになるのです。……分かりましたか? そういうふうに一つとなった状況をもって、それはずーっとこれを回って、母の腹の中を通して、先生の体を通して、再びお母様の腹を通していくのです。右のほうを通してです。……再び生むことになるのだから、サタンの血統とは全然関係がないのです。別個の天的本来の真の父母から出発した子女の立場に立つのだから、天上、地上天国に、お母様と真の父母によって、入ることができるのです」(『訪韓修練会御言集』185~187ページ、注:アンダーラインは筆者による)
アンダーラインを引いた部分で、真のお父様が「愛の手続き」、「新婦の立場で、新郎を迎えて一つとなる」、「真の父母の夫婦関係によって、はらんだ子供……愛の関係を結ぶことを、実感したあとに生まれたと同じようになる」、「母の腹の中を通して、先生の体を通して、再びお母様の腹を通していく」、それゆえ、祝福家庭は「サタンの血統とは全然関係がない」と語っておられます。
すなわち、真のお父様と「新婦の立場で、新郎を迎えて一つ」となられた真のお母様は、〝根〟が違うのであって、神様の「独り娘」であられ、神様の血統をもっておられます。その真の母の腹を通過して、父の骨髄の種の位置まで遡行し、再び母の腹を通じて生まれてこなければならないのが私たちです。
この内容は、神山氏が自身の主張の根拠として重視する『御旨と世界』(注:現在は『祝福家庭と理想天国(Ⅱ)』)に収録されている、次の御言と同じ主旨のものです。
「今までのクリスチャンは、イエス様を主様といい……心情的に一体となりたいという心をもつ。……だからキリスト教は、イエス様のすべての骨髄の中にまで入ったという、慕い焦がれる愛情に触れ合う、そういう生活圏を体血する、たった一つの教えだ。イエス様を、慕う新郎として迎えた教えである。……一つはその骨肉に入る子供の源となるとともに、母の胎中を通過したという条件の基台をも得ようというのが、新婦という立場である。……だからクリスチャンはみな、イエス様の体中の子女の立場にもとがえらなければならない。
今、このような信仰をしているクリスチャンは何人いるか。……骨肉の中に帰れ。
……では、イエス様の骨肉の中にまで潜りたいという信仰をもっている信者は何人ぐらいいるか。イエス様の骨肉に入るといっても、肉体は入れないよ。心情しかない。愛しかないんだよ。だから愛以外には因縁を結ぶ何ものもない。真理でもなければ正義でもない。生命がある前に愛がある。父母の愛によって生まれてくる。愛なくして、それを結ぶ方法がないというんだね。その愛があれば、それは完全に可能である」(『祝福家庭と理想天国(Ⅱ)』72~74ページ、注:アンダーラインは筆者による)
「完成したアダムの体中の種の立場に帰っていくのです。……すなわち、我々はみんな、堕落しない人間である父親から出発しなければならないということです。つまり、堕落しない独身のアダムの体から出発した種が、母親の胎内に身ごもられねばならないのであります。……もちろん、既に肉身をもって生まれ、成長してしまった我々は、文字どおりに、完成したアダムの体中の種の立場に返ることはできません。
ですから、我々は、真の父母、および、その父母から生まれられた真の子女と一体化することによって、再び生まれるための条件を立てていくわけであります。カインとして、完全にアベルに屈服することによって、両者とも復帰されるという原理があるので、この原理により、我々カインの立場にあるものは、アベルであるところの真の父母、真の罪なき子女と一体化しなければならないのであります。彼らと一体化することにより、我々は復帰された子女として、同じ恵みを受けることができるのであります。
それゆえに、真の罪なき子女が、真の父母を通してお生まれになるとき、我々は、食物やその他、同じ成分のものを分かち受けるための条件を立てなければならないのであります。このようにして、我々は真の子女の立場に参与する路程を通過していかねばならないのであります。……皆さんは、誰を通じて真の子女と一体化し、新たに生まれたる子女となる条件を立てるのですか? 父親だけでは十分ではありません。真の父母を通じなければならないのです」(『祝福家庭と理想天国(Ⅱ)』140~141ページ、注:アンダーラインは筆者による)
このように、生まれ変わる(重生)には、父だけでは十分でなく、その父と「新婦の立場で、新郎を迎えて一つ」となられた〝真の母の胎〟を通じなければ重生できません。
それゆえ、真のお父様は「真の父母と重生」の御言で、「母の腹の中を通して、先生の体を通して、再びお母様の腹を通していくのです。右のほうを通してです。……再び生むことになるのだから、サタンの血統とは全然関係がない」と語っておられるのです。
ところが、神山氏は、「この血統転換は、真のオリーブの木である真のお父様(男性)によってのみなされます」(神山氏「公開質問状4」)と語り、血統転換において、真の母を排除しています。
『原理講論』には、「父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない」(264~265ページ)と明記されています。
すなわち、血統転換には、真のお父様(男性)だけでなく、真のお母様がいなければならないことは、血統転換における基本中の基本です。それを「血統転換は……真のお父様(男性)によってのみなされます」と述べていることに対して驚きを禁じえません。
真のお父様は、「真の父母様が許諾された聖酒式を通して血統転換をし」(『平和神經』40ページ)と語っておられます。このように聖酒式は〝血統転換〟ですが、その聖酒が、なぜ復帰された天使長の金榮輝先生から真のお母様に渡され、そして真のお父様に渡され、それから祝福を受ける女性を経て、男性へと渡されているのか、どうやら神山氏はその意味が分かっていないようです。
ブログにアップした神山氏の第6番目の映像「そんなことを言っちゃいけません」を視聴すると分かるように、神山氏は〝接ぎ木〟の概念に囚われ過ぎるあまりに、「聖酒」が渡される順番のうち、真のお父様から祝福を受ける女性、そして男性に渡されることだけをもって「血統転換」を説明しようとしています。
これでは、最初に〝結論ありき〟で、自分が考えている結論を導き出すために御言を利用していると言わざるを得ません。この点については、【第5弾】の反論で、より詳しく論じようと思います。
以上、神山氏が述べる「お母様は真の愛と真の血統をもっていません」という御言引用は、その前後を削除した意図的な表現であって、「真の母」を通じなければ重生(血統転換)できないという〝重要ポイント〟を全く理解していない、あるいは、重生(血統転換)の〝全体像〟を見ていない、驚くべき引用の仕方です。
(3)真のお母様は、神に選ばれた〝血統〟を通じて生まれてこられました
ところで、神山氏に同調していたブログには、真のお母様が2014年7月1日に語られた御言が取り上げられており、その御言の記載内容をめぐって、さまざまな人々が憶測を飛び交わせてきました。
また、神山氏も「公開質問状1」「同、4」で、真のお母様が「『血統転換』、私は胎中にいる時からそうなのです」と語られたのだと述べています。
そして、2月4日、最初に述べたブログでは、真のお母様が「胎中にいるときから無原罪だった」(独生女神学論)と語っておられるかのような説明となっています。
そこで、現時点において、真のお母様が語られた御言がどのようなものであったかについて、それを正確に把握しておくことから始めなければならないでしょう。
神山氏に同調してきたブログは、「胎中にいるときから無原罪だった」(独生女神学論)と語られたかのような説明をしていますが、その言葉よりは、まだ、神山氏が「公開質問状1」「同、4」で述べた「『血統転換』、私は胎中にいる時からそうなのです」のほうが、真のお母様が語られた御言に、より近い表現と言えます。
ところが、2月18日に神山氏がアップした反論では、「私は生まれた時から血統転換されている」となっており、不正確な表現に変わっています。
これらは、正確なものではありません。真のお母様の御言を日本語に直訳すると、「血統転換、私は母胎からなのです」になります。
真のお母様は、前述したブログにある「胎中にいるときから無原罪だった」とは語っておられません。原罪があるとか、無原罪であるとかについて、ここでは触れておられないにもかかわらず、多くの人が語っていないことを、そこに付加して、いろいろ論評していますが、語っていないことを勝手に付け足して論じることは問題です。
今まで〝不正確〟な言葉でもって考えてきましたが、現時点においては、真のお母様が語られた御言を、厳密に直訳した「血統転換、私は母胎からなのです」という内容をどのように考えることができるのかについて、以下、述べてみようと思います。
真のお父様が、「誰もがお母様になることができるのではありません」(『真の御父母様の生涯路程⑩』75ページ、以下『生涯路程⑩』)、あるいは「お母様になる人は、血統的にどのような過程を経なければならないでしょうか。お母様を選ぶにおいては、すべての条件が合わなければなりません。それは簡単ではありません。前後で合わなければならず、左右で合わなければならず、上下で合わなければなりません。……条件が合わなければなりません。その第一の条件は、どのような血筋に生まれついたかということです。サタン世界から讒訴され得る血統の因縁をもって生まれたのか、そうでなければそれを乗り越えることができる血統的内縁をもって生まれたのかということが重要です」(同、22ページ)と語っておられるように、真のお母様になられる女性は、神様に予定されて生まれてこられた女性でなければならないのは、間違いありません。つまり、選ばれた〝血統〟を通じて生まれてこられたということです。
すなわち、そこには「予定論」の問題が大きくかかわってきます。
『原理講論』に説明があるように、神様の予定は、①選民の一人(血統)、②善なる功績の多い先祖の子孫、③み旨を成就する天稟を先天的にもつ、④後天的な条件が具備、⑤天が必要とする時機と場所に適合、という内容となります(246~247ページ)。
①「選民の一人(血統)」について
まず第一に、真のお母様の家系はクリスチャンであり、しかも、趙元模おばあさん、洪順愛・大母様は聖主教、そして腹中教と、熱心に再臨主を待ち望む教派に属していました。また、真のお母様まで三代続いた一人娘の家系です。真のお父様は、次のように語っておられます。
「お母様になられる背後においては、三代が連結されなければなりません。本来は一人息子、一人娘にならなければなりません。アダムも一人息子でしょう? イエス様もひとり子ではありませんか。再臨主も、神様のみ旨から見れば一人息子と同じです。一人息子のみ旨を立てていくからには、長女である一人娘がいなければなりません。それゆえに復帰摂理において、男性と女性が相対的な立場で一つになって連結され、この世のサタン世界を越えて天国に行かなければなりません」(『生涯路程⑩』23ページ)
「お母様(韓鶴子夫人)のお母さんになる大母様は、一生を信仰一筋に生活してこられた方です。その中で、特に私たちが記憶すべきことは、新しい摂理歴史において、再臨主が人として来られるということを宣布して新しい教団をつくる、そのすべての役事に最初から参加したということです。……聖主教の金聖道おばあさんが一代目であり、二番目である腹中教の許孝彬の系統を受け継ぎ、おばあさん(大母様)が信仰の主流の伝統を受け継がれたのです。そのようにして、来られる再臨主を迎えるための先発として来られた方でもあります。そのようにしながらお母様を生んで三代目のエバ的役事をなしたのですが、お母様の時代に来て実を結ぶことができる、そのようなみ旨を暗々裏に知って準備してきたおばあさんだと言うことができます。……三代が再臨主を迎えるための準備をしました。……お母様のお母さんは、主を迎えるために精誠を尽くすことにおいては韓国の代表です。主が人として来られるといって、腹中教から従ってきた者たちなのです」(『生涯路程⑩』36~38ページ)
これらの御言にあるように、真のお母様は、「三代が準備をした」神が立てた選民の血統のなかで、特に「母親の主を迎える精誠を尽くした家門」のなかで準備されて、そこから生まれて来られました。
②「善なる功績の多い先祖の子孫」について
また、真のお母様は、善なる功績の多い先祖の子孫として生まれて来られました。真のお父様は、次のように語っておられます。
「お母様の先祖はどこですか。平安南道でしょう。平安南道の韓氏ですが、韓氏の先祖はどこにいますか。お母様の実家の第一先祖はどこですか。清州です。……清州は本当に良いと思います。清州は、その名前が『清い』という字に『州』という字でしょう? 清い州です。清い水の中をのぞいてみれば、川ならば川、海ならば海の底まですべて透けて見え、魚がいれば泳いでいるのも見え、黒い砂も白い砂もすべて見えるのです。
女性を誇ることができる家門があるとすれば、文先生の奥様の韓氏以上に誇ることができる家門がどこにありますか」(『生涯路程⑩』16~17ページ)
また、真のお母様は、中国の使臣が通る「撻川橋」を建設したことで有名な趙漢俊という功労を立てた人物の子孫として生まれています。この橋の建設に際しては、次のようなエピソードが残されています。
「趙漢俊が物を蓄え、(撻川江に)石橋を架け始めた。……5年余りかかり、丁亥1607年に工事を終え、趙氏は死んだ。その日からおかしな気運が天に起こり、4日目の夜空中から『趙漢俊は弥勒様となって再びこの世にお生まれになる』という声が聞こえた。翌朝、その声の聞こえてきた所を訪ねてみると、なんと大きな弥勒様が大山の南方にそびえるようにして立っていた……」(『聖地定州』62ページ)
また、真のお父様は、次のようにも語っておられます。
「エバがアダムを通して造られたように、お母様は、全く分からないところから出てこなければなりません。親戚が多くてはいけません。三代があとについてきてはいけないのです。普通であってはいけないのです。まさしく今のお母様がそのようなお母様です。お兄さんもいない上に父親もなく、独りです。母子二人しかいません。み旨のために、幼い時も支援を受けずに独りで生きた一人娘です」(『生涯路程⑩』23ページ)
「お母様のお母さんは、許孝彬に篤実に従っていた人でした。お母様のお母さんは、お母様が四歳の時にその集団に連れていったのですが、許孝彬の母親がお母様を祝福したのです。……先生が1960年にお母様と出会った時、先生はそのような事実を知りました。神様によって準備されてきたすべてのことが1960年に一つになったのです。それで、今、真の父母が現れたのです」(『生涯路程⑩』39~40ページ)
③「み旨を成就する天稟を先天的にもつ」について
さらに、真のお母様は、み旨を成就するための天稟を先天的にもっておられ、後天的な条件も具備されています。真のお父様は、次のように語っておられます。
「お母様は、本来おとなしい方です。今、四方にすべて目を注ぐことができるのは、私に会ってそのように訓練されたからです。事実、おとなしい女性です。青坡洞に行ったり来たりする時も、一つの道だけを行くのです。いつもきちんとその道を行くのです。私が注意して見ていました。一度来る時もそうであり、二度来る時に見回してみてもその道をきちっと行くのです。次に来る時もまたその道を来るのです。きちんとした道を通うので、『ははあ!』と思いました。
また、お母様を見るとき、女性として非常に端正だというのです。きちんとしています。お母様がしとやかにしている時は誰にも劣らない、尊敬することができる内的な性稟をもっています。また、伝統的に『ため』に生きる愛をもった代表的な女性を探してみると、お母様がすべての面において一致するので選んだのです。文総裁の目は偽物ではありません。
……心が美しいので、顔が美しいのです。心が美しいので、声も美しく、姿も優雅なのです。壇上でも、とても自然です。……先生がいようと誰がいようと、壇上に上がっていけばチャンピオンのように堂々としていたのです。
見掛けはおとなしく見えますが、度胸があるのです。見ればすぐに分かります。手を見れば分かるのです。お母様の顔は優しそうに見えますが、手を見れば違います。分厚く、腹が据わっています。壇上に立っても少しも動揺しません。それゆえに先生は、お母様として迎えたのです。『今はなんだかんだ言うが、見ていなさい』と思ったのです」(『生涯路程⑩』53~54ページ)
「お母様の特別なところは何かというと、霊感が素早いところです。ぱっと人を見て『良い人だ』と思えば、その人は良い人なのです。それを鑑別することのできる天性的な素質をもっています。そして、先生が『しなさい』と言うことは何でもしようと決意し、またその決意したことを常に失わずに歩んできたので、受難の道も克服することができたのです。これは、目的を中心とした忍耐心に相当するのです。
そして、私がお母様に有り難く思うことは、自らの貴いものを、自分の息子、娘ではなく皆さんに、ためらうことなく100パーセント譲ってあげようとするその性格です。その性格は、神様が贈り物として下さった性格だと思うのです。……ですから、第一は、霊感が素早いということに対して天に感謝し、第二は、み旨に対して絶対従順しようとすることに感謝し、第三は、自分のものを、自分のものではなく、世界のものとしてそのままためらわずに分けようとすることに感謝するのです。どんどん与えて神様が心配なさるほどです。それが天性的に生まれついているということは、お母様としての性格を備えているのです」(『生涯路程⑩』213~214ページ)
④「後天的な条件が具備」について
「お母様はとても知恵深い女性です」(『生涯路程⑩』484ページ)
「統一教会の皆さんよりも、お母様のほうが先生をもっと信じています。統一教会の皆さんが私を信じるよりも、お母様のほうがもっと私を信じているのです。あらゆる面において尊敬しているということを知らなければなりません」(『生涯路程⑩』491~492ページ)
そして、真のお母様は、真のお父様が「日本留学」されて真理探究の道を究めておられるときの1943年2月10日(陰暦1月6日)、同じ誕生日にお生まれになりました。
また、真のお母様は、真のお父様の「12人以上の子女を生んで欲しい」という願いを命懸けで受け止められ、それを実現されました。
「お母様が20年間に12人以上の息子、娘を生まなければ大変なことになります。そのようにして、ヤコブの家庭を完全に蕩減復帰しなければならないのです。……ヤコブ家庭では、4人の女性たちが生んだ息子、娘だったために問題になったのです。先生の時代にその問題を克服するためには、20年以内に12人以上の息子、娘を生まなければ、母の使命が不可能になるというのです」(『神様の祖国 解産完成』85~86ページ)
そのような意味において、「予定論」にある内容を、真のお母様はすべて満たしておられ、まさしく、人類の「真の母」としてたたれるに相応しい予定された女性であったことがわかります。
⑤「独り娘」(独生女)について
ところで、【第3弾】ですでに述べたように、「独り娘」(独生女)について、真のお父様は次のように語っておられます。
「エデンの園のアダムは、神様の独り子です。エバは、神様の独り娘です。彼らが成長し、春の日になって花が咲くとき、二人が互いに春の歌を歌いながら、『あなたは私のお兄さんではないですか』、『あなたは私の妹ではないですか』と言えば、神様はどのようにするでしょうか。明るく咲いた花が香りを漂わせるようになれば、神様が結んでくださったでしょう。神様が結婚式をしてあげて成し遂げようとしていた創造の最高理想が、アダムとエバを中心として成し遂げられるのです。彼らが独り子と独り娘としてよく育ち、思春期まで行こうとすれば、期間が必要なのです」(159-195、1968.05.10)
このように、真のお父様は、堕落していないアダムとエバは、神の独り子、神の独り娘であると語られています。
「イエス様は、『私は神様の独り子だ』と言いました。独り子に必要なのは独り娘です。イエス様がこの地上で世界を救うために出発しようとすれば、一人ではできません。家庭の土台を整えなければなりません。独り子だと主張したイエス様の目的は、世界を統一して号令することです。それをする前に家庭をつくらなければならないのです。……もし、イエス様が、神様の独り子として独り娘に出会って結婚式をするとすれば、その結婚式の主礼は、間違いなく神様がしてくださるのです。救援摂理の最高の目的は、神様が愛する一つの家庭をつくることです。……その場を失ってしまったので、再び取り戻さなければなりません」(159-192、1968.05.10)
このように、真のお父様は、第2アダムであるイエス様に対して「独り子」と言われ、イエス様と結婚すべき第2エバ(真の母)を「独り娘」と語っておられます。
「人類が生まれて以降、4000年目にこの天地間に神様の独り子が生まれました。良い知らせです。幸福な知らせです。それで、キリスト教で福音という言葉が出てくるようになったのです。福音とは、幸福な音信です。その時まで神様の独り子が現れることができず、人類が神様を中心とする愛の関係を結ぶことができなかったために、人類にはそれが恨でした。……独り子が現れたことが幸福です。神様は、先に独り子を送られました。それで、今までの歴史は、男性がつくってきたのです。独り子が現れれば、その次には、独り娘が現れなければなりません」(023-149、1969.05.18)
真のお父様は、第2アダムであるイエス様を「4000年目に…独り子が生まれました」と表現しておられます。では、再臨主がアダム以来6000年目に現れた「独り子」であるならば、その再臨主の前に現れる「独り娘」に対しては、どう表現されるべきでしょうか?
「イエス・キリストは、『私は神様の独り子だ。神様は私の父だ』と言いました。独り子というものは、神様の初愛をすべて受けたということです。神様の独り子はいたのですが、独り娘がいません。独り娘に出会うことができなかったので、神様の初愛をすべて受けることができる独り娘に出会うために、イエス様は再臨するのです。再臨主が来て小羊の婚宴、すなわち婚姻をしなければなりません。神様の初愛をすべて受けた男性と、神様の初愛をすべて受けた女性が家庭をつくらなければならないのです。その位置が、堕落していないアダムとエバの位置です」(041-311、1971.02.17)
ここで、真のお父様は「小羊の婚宴」について語っておられますが、「神様の初愛をすべて受けた男性と、神様の初愛をすべて受けた女性が家庭をつくらなければならない……その位置が、堕落していないアダムとエバの位置」という、これが〝無原罪〟と関係しています。真のお父様は、第3アダムである再臨主を「独り子」と述べておられるのであり、その方と結婚すべき第3エバ(真の母)を「独り娘」と表現しておられます。
これらの御言で分かるように、真のお父様は、神の「独り子」が現れたならば、必ずそこに神の「独り娘」が現れなければならず、その独り子と独り娘が出会って神様を中心に結婚しなければならないと語っておられます。その結婚式が「小羊の婚宴」です。
そのような「独り娘」として現れた女性が、まさに韓鶴子夫人です。この堕落していないアダムとエバは、神の独り子、神の独り娘なのです。
⑥お父様の「留学時代」にお生まれになられたお母様
前述したとおり、真のお母様は、お父様が日本留学しておられる1943年2月10日(陰暦1月6日)にお生まれになられました。日本留学から韓国に帰られた真のお父様は、その年の12月に、崔先吉夫人と婚約されましたが、そのことについて、次のように語っておられます。
「先生がみ旨を知ってから、聖進のお母さんと結婚したのも、私の好きなようにしたのではありません。霊界から指示があってしたことです。霊界の指示のもとで会ったのです。その人の名前が崔先吉です。……女として先に吉という言葉は、神様の摂理の中で誰よりも祝福を受ける女性になることができるということです。そのような名前なのです。
聖進のお母さんは賢い女なのです。とてもまっすぐで、家門もいいのです。崔氏の門中といえば、定州郡では有名な門中なのです。そこの本家の娘なのです。また、とてもつましい女なのです。へこたれない女です」(『生涯路程①』256ページ)
このように、崔先吉夫人も、神様によって選ばれた女性ではありましたが、たとえ選ばれた女性であったとしても、自らの5%の責任分担を果たせないときには、真の母として勝利することはできません。
神様は、万一、選ばれた女性が責任を果たせないときに備え、この女性ならば〝絶対に失敗することがない〟という切実なる願いをもって韓鶴子夫人を地上に遣わされ、誕生させておかれたのだと考えることができます。
この韓鶴子夫人の勝利によって、人類の「真の父母」が顕現され、そのことによって、人類史上、初めて「血統転換」が成しえるようになったその事実を考えるとき、真のお母様の語られた「血統転換、私は母胎からなのです」という短い御言は、まさしく「私は、血統転換できるよう、母胎から選ばれて生まれてきた」という意味として解釈することができます。
結局のところ、真のお父様が、「誰もがお母様になることができるのではありません」(『真の御父母様の生涯路程⑩』75ページ)、「お母様になる人は、血統的にどのような過程を経なければならないでしょうか。……すべての条件が合わなければなりません。……第一の条件は、どのような血筋に生まれついたかということです。……(サタンの讒訴を)乗り越えることができる血統的内縁をもって生まれたのかということが重要です」(同、22ページ)と語っておられるように、神様に選ばれた〝血統〟を通じてお生まれになられたのです。
聖書を紐解くと、イエス様は「聖霊」によって身籠もった(マタイ伝1・18、同1・20)とありますが、「聖霊」による誕生は、イエス様だけではなく、洗礼ヨハネについても、「母の胎内にいるときから聖霊に満たされており」(ルカ伝1・15)と記されており、洗礼ヨハネも母の「胎内」にいるときから〝神様の選び〟によって受胎し、生まれていることが分かります。
再臨摂理においても、再臨主であられる文鮮明先生は、神によって遣わされてお生まれになられましたが、その相対者となる女性(真の母)も、母胎におられるときから、神の選びによって「聖霊」に満たされてお生まれになられ、「独り娘」として地上に現れてこられたということができます。
(4)真のお父様は、生まれながらにしての「神の独り子」です
神山氏は、「公開質問状1」で、真のお母様が2014年7月1日の御言において、「お父様の歴史は、イエス様の使命を引き継いだその時、その瞬間が、お父様が独り子となられた資格です」と述べるなどしており、真のお父様が生まれながらにして「メシヤ」であられたことを否定しているものと考え、真のお母様を批判しています。
また、神山氏は、2015年2月18日にアップした反論では、真のお母様が「お父様はイエス様の使命を引き継いだ時、お父様は独り子となった」と語られたのだとしています。しかしながら、神山氏が述べているこれらの日本語の翻訳は、いずれも不正確な翻訳となっています。
真のお母様が語られた御言を日本語に直訳すれば、「イエス様の顕現とともに、イエス様の御業を継承しました。その時、その瞬間、お父様は独り子の資格だ」です。お母様は、最後の部分において、「独り子の資格だ」と述べておられるに過ぎません。
したがって、日本語訳にする際には、「イエス様の顕現とともに、イエス様の御業を継承しました。その時、その瞬間、お父様は独り子の資格をもたれていました」と翻訳することができます。
真のお父様は、1935年4月17日、故郷である定州の猫頭山で深い祈りをささげておられるときイエス様が顕現され、神様から〝召命〟を受けられましたが、その時、その瞬間、イエス様が果たせずに残された使命を受け継がれ、メシヤとしての道を歩んでいかれました。真のお母様は、その事実に基づいて、「その時、その瞬間、お父様は(すでに)独り子の資格をもたれていました」と語っておられたのだと理解することができます。
神山氏は、真のお母様を何とか貶めようと〝言葉尻〟を捉え、いろいろな批判をしていますが、この「独り子の資格だ」という部分を慎重に検証すれば、全く問題ないと理解することができるのです。にもかかわらず、神山氏は、常に批判的な目で真のお母様を見ているために、この部分を問題視しているものと言わざるをえません。
真のお父様は、次のように語っておられます。
「私が死んでも(真のお母様には)統一教会を導くことができる能力もあるので、お母様が説教する時が来るのです。……そのような時は、(お母様に)絶対服従しなくてはなりません。お母様にも、しなければならない責任分担の5パーセントが残っているのです。それを私がすべて、さっさっと渡してあげるのです。……
私がお母様を称賛するのではなく、お母様に良い点が本当に多いのです。素晴らしいというのです。それゆえに、そのようなものをすべて見て、お母様として選んだのではないですか。顔を見れば分かるのです。慎ましいのですが恐ろしい女性です。一度決心すれば、最後まで自分一代でこの複雑な恨の峠をすべて清算するという決心が、私よりもお母様がもっと強いのです。先生は、今70を超えたので、ごみ箱の近くに行きましたが、お母様は、今ごみ箱を収拾してそれをすべて掃除することができる主人になったので、先生よりもお母様をもっと重要視することができる統一教会の食口になれば福を受けるのです」(『生涯路程⑩』351~352ページ)
神山氏は、「お母様がお父様のようなみ言を語られなくても不思議ではないし、それが問題ではありません」(「公開質問状2」)と述べて、真のお母様が御言(説教)を語られることを軽んじていますが、真のお父様は、明確に「お母様が説教する時が来るのです」と語っておられます。
そして、「先生よりもお母様をもっと重要視することができる統一教会の食口になれば福を受ける」とも語っておられました。
真のお父様は、ご自分が「聖和」した後に、統一食口たちが真のお母様に絶対服従することを願っておられました。私たちは、その真のお父様のご意向を生命視しなければなりません。
神山氏が、真のお父様の御言を軽んじ、真のお母様を重要視することができずに、永遠に〝福〟を逃してしまわないように心から願います。
以上