櫻井義秀著『統一教会 ― 性・カネ・恨(ハン)から実像に迫る』(中公新書)に対する反論―― 存在しない〝血分け〟〝六マリア〟を断定的に述べる櫻井氏の欺瞞

文責:教理研究院

 注、家庭連合(旧統一教会)に対する批判文については茶色い字で、
文鮮明・韓鶴子総裁の発言および家庭連合(旧統一教会)の出版物
からの引用については、青い字で区別して表記する。

 「櫻井義秀氏に対する反論文」を8月27日に掲載しましたが、その後、序文「はじめに」と跋文「おわりに」を追加しましたので、掲載します。

 はじめに

 櫻井義秀氏の著書『統一教会 ― 性・カネ・恨(ハン)から実像に迫る』には、「もし死んで霊界に行って文がメシヤだったらどうしようという部分で(家庭連合の信仰から)なかなか抜けられなかった」(230ページ)と発言する元信者が登場し、不安を口にする。
 〝もし文師がメシヤだったらどうしようか〟と思うような人物(心理状態)ならば、自然脱会することはあり得ない。まして、家庭連合を相手取って裁判を起こしたりはしない。
 1987年3月に始まった札幌地裁の「青春を返せ裁判」で、原告となった21人の元信者について、彼らが脱会するに至った背景を知らなければならない。原告の元信者は、そのほぼ全員が拉致監禁による強制脱会説得によって脱会させられた者たちである。
 1966年早春に始まった拉致監禁による強制脱会説得事件は4300件を優に超える。当初、キリスト教の福音派の一部牧師が監禁による脱会説得を始めていたが、1978年、京都府知事選で革新府政の打倒を掲げた国際勝共連合(以下、勝共連合)に敗北した日本共産党は、宮本顕治・同党委員長(当時)が、「勝共連合との戦いは重大。大衆闘争、イデオロギー、国会、法律の各分野で……共同して、全面的な戦いにしていく必要がある。自民党に対しては〝勝共連合と一緒にやれば反撃をくって損だ〟という状況をつくることが重要。〝勝共連合退治〟の先頭に立つことは、後世の歴史に記録される『聖なる戦い』である」(「赤旗」1978年6月8日号)と、左翼勢力の〝大同団結〟を呼びかけた。これに呼応するように、弁護士、政治家、牧師、ジャーナリスト、大学教授らの左翼思想を持つ人たちが中心となって連携し、同年11月13日「原理運動を憂慮する会」が発足。その会を背景に、浅見定雄氏、川崎経子牧師(日本基督教団)らが反対活動に乗り出した。この頃から、全国規模で拉致監禁による強制脱会説得事件が急増した
 そして、1987年は、脱会した元信者の「青春を返せ裁判」が開始され、社会党系や共産党系の左翼弁護士が「全国霊感商法対策弁護士連絡会」(全国弁連)を結成した年でもある。また、浅見定雄氏が『統一協会=原理運動――その見極めかたと対策』を出版。さらに朝日新聞がいわゆる「霊感商法キャンペーン」を開始した年でもあった。まさに1987年は、左翼勢力が中心となって団結し〝家庭連合潰し〟の総攻撃を仕掛けた年であった。
 翌1988年には日本基督教団が教団を挙げて〝反家庭連合活動〟に取り組むことを決議した(「キリスト新聞」1988年4月9日号)。日本基督教団には左翼思想をもつ人物が数多く潜入し、1970年以降は教団総会を開催することさえ困難な状況が続き、80年代には左翼勢力(「造反派」と呼ばれる)によって教団執行部が運営される異常事態に陥った。この問題は、日本基督教団評議員・小林貞夫著『日本基督教団実録教団紛争史』(メタ・ブレーン)および『東神大紛争記録』(東京神学大学教授会)、梶栗玄太郎編『日本収容所列島』(賢仁舎)第4章などに詳しい。
 日本基督教団大阪教区の造反派のリーダーが桑原重夫牧師であるが、実は彼が日本基督教団「統一原理問題全国連絡会」の代表を務めているときに、日本基督教団は教団を挙げて反家庭連合問題に取り組むことを決議した。
 今日、家庭連合に対し〝令和の魔女狩り〟と言い得る状況が生じているが、これは、宮本顕治氏が1978年に行った上述の「聖なる戦い」の呼び掛けが、45年の歳月を経て結実しつつあることを意味している。
 拉致監禁による強制脱会説得で脱会させられた元信者。そして彼らが家庭連合を訴える裁判闘争。その元信者の声だけを取り挙げ、反家庭連合のネガティブイメージを拡散するマスメディアの偏向報道が、現在の状況を生み出したと言っても過言ではない。
 また、極めて大きな問題が、本書の本文中で取り扱っている家庭連合に関する〝歪められた教理批判〟〝教祖批判〟の数々である。家庭連合信者は、反対派によって教唆、教育された親族らによって拉致監禁され、〝孤立無援〟の状況に追い込まれる。多勢に無勢である。家庭連合信者に対する拉致監禁事件は、今日まで教団が把握するだけでも4300件を超えている。信者は監禁拘束下で批判の数々を一方的に聞かされ、それが真実かどうかを確認することも、冷静に考える環境も与えられない。故・川崎経子牧師は、説得に対し「絶対に妥協して期限を切ってはなりません。期限つき説得は、成功しません」(『統一協会の素顔』教文館、191ページ)と「期限つき説得」を強く戒め、脱会に至るまで無期限の説得をするように指導している。そして脱会を決意した後も「ツメが甘くなっていませんか」(同著196ページ)と強調し、家庭連合信者の信仰を〝根こそぎ〟なくすための指導を徹底している。
 信仰を〝破壊させられた〟元信者は、その信仰を再び取り戻すのは至難の業である。逃げられない環境下で説得を受ける信者は、脱会に追い込まれるプロセスで地獄の苦しみを通過する。脱会した元信者も、監禁から逃れることができた信者も、多くの者が今なおPTSD(心的外傷後ストレス障害)で苦しみ続けている。監禁現場で、自殺に追い込まれた信者もいる。
 この深刻な〝人権侵害〟が長年行われてきたのに、マスメディアはほとんど報じず、黙殺している。日頃、人権を語る「全国弁連」の弁護士やジャーナリストもそうである。それ以上に、これらの人たちが監禁現場に足を運びながらも、それを見て見ぬ振りをする、人権侵害の〝共犯者〟となっている現状がある。
 そして、櫻井義秀氏に関しても、小出浩久氏が『人さらいからの脱出』(光言社、改訂版)で次のように述べている。2009年、櫻井氏が千葉大学で講演会を行ったとき、大学の校門で「『統一教会信者が、拉致・監禁されて、脱会を強要されるという事件があるが、これについてどう考えるのか?』と(尋ねた)。櫻井氏は、『ケースバイケースだ』と答えた。人の『神を求める心』を根本から破壊してしまうような拉致・監禁による説得行為を宗教学者が『ケースバイケース』と言ってしまう」(230~231ページ)と小出氏は嘆いている。この櫻井氏の発言は、同氏が人権侵害に対してダブルスタンダードであり、如何なる人の人権も守られなければならないとする憲法を無視していることを物語るものであり、学者のあり方として大問題と言わざるを得ない。
 さて、本反論文を読んでいただくと、櫻井氏の著書に書かれた家庭連合批判の内容は、偏見に満ちたものであり、学者らしからぬ〝事実誤認〟や〝虚偽〟も数多く見られることが分かる。彼の批判は、学者としてフィールドワークによる事実を検証した結果ではなく、歪められた〝虚偽〟が数多く含まれているのである。本反論文を虚心坦懐に読んでいただきたい。

【本文】

 櫻井義秀氏(北海道大学大学院文学研究院教授)が、2023年3月25日、『統一教会 ―性・カネ・恨(ハン)から実像に迫る』を出版した。書かれている内容は、偏見に満ちたものであり、学者らしからぬ〝事実誤認〟や〝虚偽〟が数多く見られる。以下、教理面を中心に反論を述べることにする。

(1)櫻井義秀氏の人物像
 櫻井義秀氏について、ウィキペディアは次のように紹介している。

 「統一教会(世界基督教統一神霊協会、世界平和統一家庭連合)の青春を返せ裁判において、櫻井の論文『オウム真理教現象の記述をめぐる一考察 ― マインド・コントロール言説の批判的検討』(『現代社会学研究』9:74-101頁、1996年)が、マインド・コントロールの存在を否定する論拠として統一教会に利用される。その後、カルト被害者やカルト問題を扱う弁護士などの立場を重視したカルト研究を始める」

 このように、櫻井氏は当初、「マインド・コントロールの存在を否定する立場を取っていたが、現在では、カルト被害者やカルト問題を扱う弁護士などの立場を重視したカルト研究」を始めたという。
 櫻井氏が、なぜこのように立場を変えて、いわゆる「カルト」の被害者や「カルト問題」を扱う弁護士側に立ち、家庭連合(旧統一教会)に反対するようになったのであろうか。
 次の項目で、その真相に迫る。

(2)櫻井義秀氏と中西尋子氏の〝豹変〟
 櫻井義秀氏が、豹変したいきさつについて、魚谷俊輔氏は、彼のブログで次のように報告している。
 「櫻井義秀という現在は反対派(反家庭連合)に回っている学者も、かつては(マインド・コントロールに対し)大変良い論文を書いていました。彼は1996年、北海道大学の雑誌の中の『オウム真理教現象の記述を巡る一考察』という論文で西田論文を批判しています。『人間が生きるコンテキスト(背景)を捨象した実験重視なアプローチである』と問題点を批判した上で、『マインド・コントロール』の問題点を次のように鋭く指摘しています。

 ――騙されたと自らが語ることで、マインド・コントロールは意図せずに自らの自律性、自己責任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある。……自我を守るか、自我を超えたものを取るかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない。……そのような覚悟を、信じるという行為の重みとして信仰者には自覚されるべきであろう――

 これはとても素晴らしい内容で、要するに、『マインド・コントロール』とは責任転嫁の論理であることを指摘しているのです。しかしながら、近年の彼は統一教会を反対する立場に立っています。なぜ櫻井義秀氏は豹変してしまったのかご説明しますと、実は、この論文は統一教会に対する『青春を返せ』裁判の際に、被告側弁護団によって引用されており、原告側弁護団から『あなたの論文が「統一教会」擁護に使われているが、それを承知で「マインド・コントロール論」の批判をされたのか』と批判されてしまったのです。さらに、元ジャーナリストの藤田庄市氏からは『統一教会の犠牲者たちをうしろから切りつける役割をあんたはやったんだよ』と忠告されたのです。これらの様子は岩波講座の『宗教への視座』という本の中に書いてあります。
 櫻井氏は、自分の書いた『マインド・コントロール』批判の論文が、まさか統一教会を擁護するために使われるとは思っていなかったようで、彼のホームページの中にこのような表現がありました。『「マインド・コントロール」論争と裁判=強制的説得』と『「不法行為責任」をめぐって』ということで、『2000年12月5日、札幌地裁の上記公判において、教会側証人として、「カルト」「マインド・コントロール」問題の専門家として魚谷俊輔氏が出廷した。……証言において、あろうことか、筆者の『マインド・コントロール論』批判の論文を引用されたが、主旨を取り違えていたように思われた。筆者(注、櫻井氏)の意に反して、筆者の1996年の論文は「統一教会」側が「マインド・コントロール論」を否定する際に、日本の研究者による証拠資料として提出された。だから私はこれと闘わなければならない』と述べています。
 結局、(櫻井氏は)最初は「マインド・コントロール論」に対して批判的だったものの、「青春を返せ」裁判の原告側弁護士による圧力に屈してしまい、いまや彼は『統一教会』という580ページにもなる批判書(注、『統一教会 ― 日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年刊)の著者になってしまいました。この『統一教会』という著書には、元信者の情報や裁判資料の分析を基に、統一教会の教説や教団戦略などが書かれています。さらに、この本は共著で中西尋子氏も書いています。中西氏は韓国の現役信者の研究をしている人物で、彼女は韓国に渡った日本人の現役信者に対するインタビューと参与観察による分析、あるいは『本郷人』の記事から見た祝福家庭の現実などを担当しました。この中西尋子氏ですが、彼女も最初は統一教会に対して好意的な人物でした。
 中西氏は韓国で研究していたのですが、そこで偶然田舎にお嫁に行った祝福家庭の婦人に出会ったそうです。そして、彼女はその祝福家庭の婦人に好感を持ち、その後礼拝に参加したり、婦人にインタビューをしながら研究を続けていました。このように、最初は統一教会に対して非常に好意的な扱いをしていたのです。しかし、あるきっかけから彼女も櫻井氏と同じように統一教会に反対する立場に立つようになりました。そのことは、米本和広氏の著書『我らの不快な隣人』(情報センター出版局刊)の中に、以下のように書かれています。
 『宗教社会学者の中西尋子が、「宗教と社会」学会で、〈『地上天国』建設のための結婚≠ある新宗教団体における集団結婚式参加者への聞き取り調査から〉というテーマの研究発表を行なった。……その会合に出席していた『全国弁連』の東京と関西の弁護士が詰問した。「霊感商法をどう認識しているのか」「(日本の)統一教会を結果として利するような論文を発表していいのか」。出席者によれば、「中西さんはボコボコにされた」という』。
 つまり、彼女は弁護士たちに徹底的に糾弾され、結局中西氏もその圧力に屈して櫻井氏と一緒に本を書いたのです。このように、今の日本の宗教学界では少しでも統一教会に有利なことを書こうとすると、統一教会に反対する人たちから圧力がかけられてしまうのです」
 (注、なお魚谷氏の全文は、【資料1】として、最後の本文欄外に引用資料として掲載する。全文を読みたい方は、それを参照のこと)

 魚谷氏が指摘するように、櫻井氏と中西氏は、当初、学者として家庭連合(旧統一教会)に対し中立・公平な立場から、偏見や先入観を持たずに研究していた学者であったといえる。ところが、櫻井氏は、札幌・青春を返せ裁判で、自分の論文が家庭連合側によって使用されたことを契機に、反対派弁護士および元ジャーナリストの藤田庄市氏から「統一教会の犠牲者たちをうしろから切りつける役割をあんたはやったんだよ」という手厳しいバッシングを受けて豹変したのである。
 中西氏も「宗教社会学者の……学会で……研究発表を行なった」際に、「『全国弁連』の東京と関西の弁護士が……統一教会を結果として利するような論文を発表していいのか」と厳しく詰問し、〝ボコボコにされた〟のを契機に豹変したのである。
 「2000年」と言えば、櫻井氏が40歳のときである。大学教授としての未来を見据えた際に、マスコミから激しく批判されている家庭連合側に立っても何の益にもならないと考えたのであろう。具体的には、多くの左翼系弁護士が名を連ねる「全国弁連」からバッシングを受けることを恐れ、自分の将来を深く憂慮して豹変した可能性を考えざるを得ない。中西氏も、これに近い状況にあったものと言えよう。

(3)札幌・青春を返せ裁判の原告(元信者)が〝脱会した背景〟
  ― 拘束された状態で脱会を決意させられた元信者たち
 1987年3月に始まった札幌地裁の「青春を返せ裁判」で、原告となった元信者について、彼らが脱会するに至った背景を知らなければならない。原告の元信者は、拉致監禁による強制脱会説得によって脱会させられた元信者がほとんどである。
 1966年早春に始まった拉致監禁による強制脱会説得事件は4300件を超えている。当初、福音派の一部牧師が監禁による脱会説得を始めていたが、1978年には、京都府知事選の革新府政の敗北を受けて、宮本顕治・日本共産党委員長(当時)が「勝共連合との戦いは重大。大衆闘争、イデオロギー、国会、法律の各分野で……共同して、全面的な戦いにしていく必要がある。自民党に対しては〝勝共連合と一緒にやれば反撃をくって損だ〟という状況をつくることが重要。〝勝共連合退治〟の先頭に立つことは、後世の歴史に記録される『聖なる戦い』である」(「赤旗」1978年6月8日号)と左翼勢力の〝大同団結〟を呼びかけた。これに呼応するように、弁護士、政治家、牧師、ジャーナリスト、大学教授らの左翼思想を持つ人たちが中心となって連携し、同年11月13日に「原理運動を憂慮する会」が発足。その会を背景に、浅見定雄氏、川崎経子牧師(日本基督教団)らが反対活動に乗り出した。この頃から、全国規模で拉致監禁による強制脱会説得事件が急増した。
 1987年には、脱会した元信者らによる「青春を返せ裁判」が開始され、社会党系や共産党系の左翼弁護士が「全国霊感商法対策弁護士連絡会」(全国弁連)を結成した年でもある。また、浅見定雄氏が『統一協会=原理運動――その見極めかたと対策』を出版。さらに朝日新聞がいわゆる「霊感商法キャンペーン」を開始した年でもあった。まさに、1987年は左翼勢力が中心となって団結し、家庭連合潰しの総攻撃を仕掛けた年であった。翌1988年には、日本基督教団が教団を挙げて〝反家庭連合活動〟に取り組むことを決議した(「キリスト新聞」1988年4月9日号)。
 さて、魚谷俊輔氏は、『間違いだらけの「マインド・コントロール』論 ― 紀藤正樹弁護士への反論と正しい理解』(賢仁舎)で、1987年に始まった札幌・青春を返せ裁判の原告(元信者)は、どのような経緯で脱会したのかを次のように報告している。

 「原告は最終的には21名となり、全員が女性である。……それでは、これらの元統一教会信者たちが教会を離れた(脱会を決めた)時の状況について分析してみよう。札幌『青春を返せ』裁判の原告が教会を離れるようになった状況は、統一教会の代理人である弁護士が、原告らに対して行った反対尋問によって明らかになった。21名の原告の証言は、以下の4つのカテゴリーに分類することができ、その人数と比率は【表1】のとおりである。・・・・・・文字通り監禁されたことを認めている者が8名おり、『監禁』という表現は認めていないが部屋には内側から鍵がかけられており、部屋から自由に出入りできなかったことを認めた者が8名おり、軟禁状態にあったと証言している者が2名いる……残りの3名が、『監禁』という言葉を否定し、出入りの制限もなかったと証言している者たちである。……全体の86%の原告が、何らかの意味で拘束された状態で脱会を決意したことになる」(『間違いだらけの「マインド・コントロール」論』87~89ページ)
 ちなみに、札幌を含め「青春を返せ裁判」全体でも、「札幌、新潟、東京など全国で元信者が家庭連合を提訴する『青春を返せ裁判』では、合計180名のうち数名を除いた殆どの原告(元信者)が拉致監禁され脱会した信者であった」(『家庭連合信者に人権はないのか』グッドタイム出版、97ページ)。
 このように、家庭連合を訴えている「青春を返せ裁判」の元信者は、強制脱会説得によって脱会させられた人がほとんどなのである。
 反対派は、監禁されて〝孤立無援〟となった家庭連合の信者に対し、次のような脱会説得を行っているが、それらは欺瞞に満ちたものと言わざるを得ない。以下、その主要なものを挙げると、聖書の〝矛盾点〟や、旧約聖書からの新約聖書における〝聖句の引用問題〟はひた隠しにして、『原理講論』の聖句引用が間違っていると批判して不信を煽り、新約聖書の四福音書間の矛盾点はひた隠しにして、家庭連合の出版物の矛盾の粗探しをして批判して不信を煽り、イエス様が遊女と行動を共にしたことから2000年前、イエス様は〝罪人の仲間〟と揶揄され、かつ初代教会は「不道徳な行為をし……姦通を行ない、特に近親相姦をする」(H・R・ボーア著『初代教会史』79ページ)と中傷されていたことは顧みず、文鮮明師に対して存在しない〝血分け〟〝六マリア〟批判を聞かせて不信させ(注、この「血分け」批判についての反論は後述する)、十字架絶対予定説に基づいて、『原理講論』の十字架二次予定説を批判し(注、『原理講論』の十字架二次予定説の主張は、聖書批評学に基づけば極めて〝妥当な解釈〟である)、さらに、現行の旧約聖書の記述に基づけば、人類歴史は約6000年であるにもかかわらず、聖書の約6000年の年数記述は間違いであるとして「歴史の同時性」を批判して不信させたり、キリスト教神学をぶつけ、統一原理は「汎神論」で誤りだと批判し、さらに「三位一体」を否定している〝異端の教え〟であると批判し、2000年前、ユダヤ教指導者がイエス様の言葉の揚げ足取りをして批判したように、文鮮明師の言葉の揚げ足取りをして脱会説得をし、再臨主はイスラエルに天の雲に乗って来るのであって、韓国に来るのではないと批判して不信させ、初代教会時代、クリスチャンが「その宗教は家庭を破壊するもの……国家の安全を脅かすと考えられ……(ローマ)政府は反乱の恐れがないか……猜疑的だった」(『初代教会史』79ページ)と、まるで犯罪者集団であるかのように批判されたのは不問に付し、家庭連合に対して家庭を破壊し、社会秩序を乱している〝犯罪者集団〟であるかのように批判して不信を煽り、イエス様が「脱税の罪」(ルカ伝、23章2節)でピラトの法廷で訴えられたように、文鮮明師も脱税の罪を着せられて「ダンベリー刑務所」に服役した点を殊更に強調して、脱会説得をしたりしているのである。
 これらの脱会説得のための批判の数々は、真理を探究しようとする姿勢から行われているものではなく、いかに家庭連合信者を脱会させるかという奸智に基づくものである。
 監禁された家庭連合信者は、反対牧師を始め、反対する人々に囲まれ〝孤立無援〟の状態に立たされ、誰にも相談できない中を、反対派の批判が果たして妥当かどうかさえも確認できない状態で脱会に追い込まれてしまうのである。多勢に無勢で、それは真理探究の場ではなく、家庭連合信者の〝信仰(思想)の破壊工作の場〟であり、まさに欺瞞と策略に満ちたものと言わざるを得ない。このような脱会説得によって、信仰を失った元信者に対しては、〝偽装脱会〟でないことを確かめる手段として、反対派は裁判闘争を行うよう仕向けてきたのである。
 事実、反対派の田口民也氏は「統一協会には断固たる態度をとる」とし、「献金したものは当然返金してもらう。購入した物も返品して、その分のお金を返してもらう」(『統一協会からの救出』126ページ)と指導。浅見定雄氏も「受けた被害には泣き寝入りしないこと。経済的被害もなるべく取り戻したらよい。それは自分たちのためだけでなく、統一協会にダメージを与えるためである」(『統一協会=原理運動』223ページ)とけしかけている。こうして、多くの元信者を生み出し、返金訴訟や家庭連合批判を繰り返すことで、家庭連合は「反社会的団体である」との風評を広め、長年にわたって世論づくりをしてきた。このようにして、拉致監禁被害に基づいて数多くの元信者を生み出してきたという意味において、拉致監禁を教唆してきた反対派こそが〝反社会的〟であり、むしろ家庭連合は、被害者であるとも言えるのである。中には、後藤徹氏のように12年5カ月にもわたって監禁被害を耐えなければならなかった家庭連合信者もいる。(注、拉致監禁の実態の凄まじさ、非人道的な手法については『拉致監禁 ― 家庭連合に反対する人々』〈世界平和統一家庭連合編、光言社〉に書かれているので、参照のこと)

(4)特定の政治的意図を持って発足した「全国弁連」
  ― 「スパイ防止法制定」を阻止する政治的目的を持って設立
 家庭連合に対する敵愾心を持ち、マスコミを通じて批判情報を発信する活動を積極的にしてきたのが全国霊感商法対策弁護士連絡会(以下、「全国弁連」という)である。
 この「全国弁連」は、家庭連合(旧統一教会)を〝社会問題化〟させ、家庭連合および勝共連合を窮地に追い込もうとする特定の政治的意図を持って出発したことを知らなければならない。端的に言えば「スパイ防止法制定」を阻止するという政治的目的を持って設立され、長期的には〝裁判闘争〟をもって家庭連合およびその友好団体・勝共連合を窮地に追い込み、社会的信用を失墜させて葬り去るために、元信者による「青春を返せ裁判」、「返金訴訟」等を積極的に支援してきたのが彼ら弁護士たちである。いわば、彼ら左翼勢力は1978年に宮本顕治氏が打ち出した〝勝共連合退治〟の実現を目指しているものと言える。(注、2022年10月26日の志位和夫氏のツイート「田原さん『共産党からすれば統一教会との最終戦争だ』。志位『長い闘いだった。彼らが反共の先兵として最初に牙を剥いたのは1978年の京都府知事選だった。……今度は決着をつけるまでとことんやりますよ』」。『サンデー毎日』2022年11月6日号参照)
 志位和夫・日本共産党委員長の発言から分かるように、日本共産党は1978年以来、45年間にわたって一貫して勝共連合退治、家庭連合潰しを目指してきたのである。その取り組みの結果が、今日の状況を生み出しているものと言える。
 ところで、「全国弁連」は、1987年に始まったいわゆる「霊感商法」問題を長年にわたって積極的に取り上げ、家庭連合批判を展開してきた。そして、この「全国弁連」が発表する一方的な内容を、マスコミは検証することもなく報道してきたのである。実際のところ、「全国弁連」が発表する「被害額」は事実と大きくかけ離れている。『私たちの声を聞いてください』(世界平和統一家庭連合刊)の第2章「メディア報道、ここが間違っています」で、「被害総額」の虚構と題して次のように指摘している(49~52ページ)。
 「全国弁連」は「旧統一教会による霊感商法被害金額3万4537件1237億円」としているが、この「『被害額』は、『被害相談額』だった」ことが指摘されている(50ページ)。事実、「紀藤(正樹)弁護士も『相談件数3万4537件』」と語っているにもかかわらず、「メディアは見出しから『相談』という文字を削っている」(50~51ページ)のである。このように、「被害件数を被害者の人数であるかのように装い、被害を大きく見せて」いるのである。これは、悪意のある情報操作と言えよう。
 さて、家庭連合の友好団体である国際勝共連合は、日本の共産化を阻止する運動を展開してきた。そのためには、日本の共産化のために暗躍するスパイや工作員らを法的に取り締まることが急務であり、「スパイ天国」と言われる日本にとって「スパイ防止法」制定は最重要の案件であった。
 「全国弁連」は、共産党系を核とする左翼的活動家弁護士の集団である青年法律家協会(青法協)を中心に発足した。横浜弁護士会所属の小野毅弁護士は1986年10月23日、日本共産党系ジャーナリストの集まりである日本ジャーナリスト会議で、「発足した時、被害者は1人しかいなかったが弁護団を発足させ、マスコミに取り上げてもらって被害者を発掘しようということになった」と語っている(『「霊感商法」の真相』世界日報社、206~207ページ)。
 これは、いわゆる「霊感商法」問題が、純粋な〝消費者問題〟として起こったものではなく、「『スパイ防止法』(共産党は「国家機密法」、朝日新聞などは「国家秘密法」と呼んでいた)の国会再提出阻止のため組織をあげて」取り組むために、政治的意図を持って問題化されていったことを意味している(前掲書、208ページ)。
 家庭連合の一部信者が、独自の経済活動として開運商品や仏具等を販売していたことがあったのは事実である。しかし、このような販売行為はあくまでも、販売員とその関係会社が行ったものであり、家庭連合は販売活動に一切関与していない。ところが、「全国弁連」の弁護士らは、「霊感商法の手口により集められた資金がスパイ防止法制定推進運動の資金とされている」と邪推し、左翼的マスコミと結託して「霊感商法」反対キャンペーンを展開したのである。すなわち、「勝共連合に金が流れていることは間違いないのだから、何とかお金をくい止めたい。そのためには壺商法をなくすことが早い』と表明……当面スパイ防止法阻止のために『霊感商法』なるものを追及する」(前掲書、219ページ)としている。このように〝政治的意図〟をもって霊感商法キャンペーンが行われたのである。
 小野毅弁護士が「被害者を発掘する」と語った1年後の1987年10月23日、「朝日ジャーナル」の伊藤正孝編集長は、東京・銀座の資生堂パーラーで、ごく近しい記者仲間を集めて講演を行っている。伊藤編集長は、1年間批判キャンペーンをしたにもかかわらず、「『霊感商法』被害を訴えているのは、ほぼ5%未満であります。ある種の世論調査をわれわれが取ったのですが、大部分は今もですね、壺の効用を信じている」と批判キャンペーンの実態を述べている(前掲書、193ページ)。
 1年間も批判キャンペーンをして被害者を発掘しようとしたのに、思うように被害者を発掘できなかったことを語っているのである。ところが、「全国弁連」が発表する〝霊感商法被害額〟は、実態とかけ離れた金額に膨らまされ、それをマスメディアが連日のように報道することによって、家庭連合に対するネガティブなイメージが社会に根付いていったのである。
 あるフリージャーナリストは、「全国弁連」が主導してきた「霊感商法」問題について、「これは消費者問題ではない。戦後における左翼運動で最大に成功した事例である」と結論付けている。
 ちなみに、櫻井義秀氏は2023年7月7日、北海道放送のインターネット配信記事の中で「教義の中に、日本人が永遠に韓国に対して資金的な貢献をしなければいけないということが入っている。(教義を)根本的に変えてもらわないことには、霊感商法も献金の要請もなくならない」と語っているが、このように語った文鮮明師の言葉や教義は存在しない。また、家庭連合には「日本人が永遠に韓国に対して資金的な貢献をしなければいけない」という教えもない。このような主張は、反対派や彼らの説得で脱会させられた元信者が語ってきたことである。実際に、今日まで反対派は文鮮明師自身がこのような発言をした根拠を一切示せないでいる。それは、そのように語った文鮮明師の言葉が存在しないためである。
 むしろ文師は、日本から来たお金は、韓国のために使ってはいけません。世界のために使っています。世界のために使わなければなりません。……そのお金を韓国のために使ってはいけません。莫大な資金をアメリカのために、自由世界のために使っています」(『神様の摂理と日本』127ページ)と語っており、「韓国のために使ってはいけません」と強調している。櫻井氏は「教義の中に、日本人が永遠に韓国に対して資金的な貢献をしなければいけないということが入っている」と述べるが、これは文鮮明師の言葉と〝真逆〟の内容である。文鮮明師の言葉の根拠も示さず、櫻井氏は〝虚偽〟を語っているのである。

(5)元信者による霊感商法問題の〝事前工作〟
  ― 元信者は、自分の顧客を回ってキャンセルする活動を行っていた
 前項で述べたように、1986年10月23日、小野毅弁護士は「被害者は1人しかいなかった」と述べ、「弁護団を発足させ、マスコミに取り上げてもらって被害者を発掘しよう」という目標を打ち出した。その霊感商法キャンペーンを展開し、1年間取り組んだ「朝日ジャーナル」の伊藤正孝編集長(当時)は、1987年10月23日「『霊感商法』被害……ある種の世論調査をわれわれが取ったのですが、大部分は今もですね、壺の効用を信じている」と述べている。
 結局、霊感商法キャンペーンはある意味で〝失敗した〟ともいえる。このような実態があるにもかかわらず、「全国弁連」が発足した1987年当初、霊感商法の被害額がいきなりピークを迎えているのである(「全国弁連」の発表に基づく)。「全国弁連」は、1987年に被害件数2,647を計上し、また被害額のピークとして163億円を掲げているが、これは「被害者は1人しかいなかった」「大部分は今もですね、壺の効用を信じている」という発言と、完全に矛盾する、辻妻の合わない実態だと言わざるを得ない。
 この件に関して、ノンフィクション作家・福田ますみ氏は、月刊『Hanada』2023年7月号で「被害者でっちあげ全国弁連の手口」と題して、次のように指摘している。
 「全国弁連の弁護士たちは、ほぼ全員が旧社会党系、共産党系であり、過激派や北朝鮮ともかかわりを持っており、思想的には神を信じない左派だ。それに対して、旧統一教会は神を信じる反共、保守派であり、両者のイデオロギー上の闘いであったことも明らかで、山口広弁護士もはっきり『右翼的活動の抑止、特に国家秘密法阻止のためにも良いのでブチあげたい』と言っている。さらに同弁護士は当初から、『(統一教会の)反社会的活動を追及して宗教法人認可を取り消すよう文部省(当時)に要求していきたい』(「社会新報」87年2月20日付)とコメント。被害の実態さえまだつかめないなかでのこうした発言に、政治的意図があることは明白だ」(307ページ)、「1987年9月、宮城県仙台市で、弁護士が依頼人に無断で提訴するという前代未聞の事件が起きた。被害に遭ったのは、当時60歳の主婦Tさんら3名。依頼人の承諾もなく勝手に提訴したのは、共産党系法曹団体『自由法曹団』に所属していた水谷英夫弁護土以下、15名の弁護士たち。……全国弁連は、霊感商法の被害は甚大であると主張する。たしかに一部、強引な販売手法が取られたことはあったのかもしれない。しかし、それほど多くの被害者がいるのなら、そもそも(「全国弁連」が)こうした悪どい手法を使ってまで被害者をでっちあげる必要もないはずだ」(308~309ページ)と指摘している。つまり、莫大な「被害額」の背景に、このような〝でっちあげ〟があったという。
 また、小野毅弁護士が〝被害者を発掘する〟ために取り組んだ1986年10月以降の1年間にわたる〝霊感商法キャンペーン〟が、彼らの期待したほどの〝被害者〟を発掘できなかったにもかかわらずである。これは極めて〝不自然〟極まりない。
 実は、次に述べていくが、反対牧師らは親族によって拉致監禁された家庭連合信者を脱会説得してきたが、その脱会した元信者に〝返金訴訟〟をさせ、さらにその元信者が家庭連合信者の経営する会社に勤めていた場合は、その元信者の顧客にも働きかけて返金をさせる活動を行っていたのである。「全国弁連」の被害額の発表によると、1987年にいきなり被害額のピークを迎えているが、それは、それまでの長年にわたる脱会説得によって脱会した元信者の返金訴訟額、および顧客に働きかけて返金させた総額のすべてを1987年に合算した〝可能性〟すら考えざるを得ないのである。
 この〝霊感商法キャンペーン〟の水面下では、いわば〝事前工作〟と呼べる元信者の活動があったことを知らなければならない。元信者が、自分の勤めていた会社の顧客にキャンセルするよう働き掛けたのは、「自分はサタンの手先となって、手相や占い、姓名判断などを行ってしまった」「〝偽キリスト〟文鮮明に騙されていた」といった〝信仰的判断〟に影響されたからである(参照、『踏みにじられた信教の自由』光言社、120~133ページ)。
 監禁による脱会説得を受けた信者は、反対牧師から〝霊感商法の被害届がたくさん出ている〟〝文鮮明は「血分け」をするとんでもない人物だ〟〝手相や姓名判断、霊能力などはサタンの業だ。統一教会はキリスト教ではない〟などと説得を受け、脱会させられ、キャンセルさせる活動を行ったのである。そうした活動こそ〝でっちあげ〟ではなかろうか。
 例えば、反対牧師の和賀真也氏が主宰するエクレシア会の「エクレシア会報」第21号(82年6月11日付)には、Mさんの脱会した経緯とともに、彼女が脱会後、脱会説得者と共に自分の顧客を積極的に回った事実が、次のように報告されている。「遂に脱会の決意が成り、大阪まで同行し、印鑑や壺販売のお客一人一人の家を回って、間違いを告白し、働きを止める旨告げて行った」(14ページ)
 また、同会報第18号(82年3月10日付)にも、「昨年1千万円を越える同様の取引解約にひき続き、再び高額商品の返品・解約に成功した。被害にあった人は長野県の善良な未亡人であり、不運な体験を威迫商法に利用されて亡き夫の財産をつぎ込み、1300万円を支払ってしまった。その後、エクレシア会によりこれは統一協会の営利事業と分り、解決に努めてきた」(6ページ)とある。このように、元信者は自分の顧客を訪問し、ことさらに営利事業を家庭連合と結びつけた話をすることで、解約・返金をさせる活動をしていたのである。
 田口民也編著『統一協会からの救出』(いのちのことば社)にも、元信者が自分の就職していた企業の顧客を回って、商品を返品させるための働きかけをした事実が、次のように報告されている。
 (脱会後の)彼は霊感商法で壺や多宝塔を売った人たちのところへ行って、何度玄関払いされても、熱心に自分の間違いをおわびし、イエス・キリストに救われた喜びを伝えてゆきました。Fさんという婦人は、最初の3日間ほどは玄関にも入れてくれなかったということでしたが、N君の真実な態度とあまりの真剣さに、よくよく話を聞いてみようということになり……ついにはイエス・キリストを信じ……多宝塔も返して、代金を取り戻すことができたそうです」(189~190ページ)
 こうしたキャンセルの活動も加わって、徐々に〝霊感商法〟問題の騒ぎが拡大されていったのである。反対派による脱会説得事件がなければ、元信者が顧客に働きかけてキャンセルさせる事前の〝工作活動〟もあり得ず、いわゆる〝霊感商法〟問題がここまで社会問題として拡大されることはなかったと言えよう。
 4300件以上も起こった拉致監禁事件である。しかも、脱会するまで監禁から解放しないという極めて深刻な人権侵害であるために、その監禁被害者の約7割は脱会させられてきた。この人権侵害が放置されてきたのは、反対派が〝家庭連合潰し〟の目標を掲げて、総力を挙げて家庭連合を窮地に追い込む取り組みをしていたからである。
 宮本顕治氏が、1978年に打ち出した「自民党に対しては〝勝共連合と一緒にやれば反撃をくって損だ〟という状況をつくることが重要だ」という戦略の取り組みが、まさに〝霊感商法問題〟につながったものと言えよう。

(6)いわゆる「霊感商法」は家庭連合(旧統一教会)が行った販売行為ではない
 櫻井義秀氏は、『統一教会』で次のように述べている。
 「統一教会は、『霊感商法は当法人ではなく、信徒組織が関連団体において自主的に行ってきた』と述べ、宗教法人としての責任がないとした。しかしながら、全国各地の訴訟において裁判所は『宗教法人統一教会は関連団体、含め一体のものとみなすことができる』と述べ、統一教会の使用者責任を認定し、最高裁においても確定している」(273ページ)
 櫻井氏は、いかにも「霊感商法」に統一教会が関わっているように述べているが、事実として、家庭連合は「霊感商法」なるものに一切関与していない。
 櫻井氏は著書の中で、次のように指摘している。
 (姓名判断などの)鑑定は統一教会の教義である統一原理とは直接的な関係がない(134ページ)
 すなわち、櫻井氏自身は、一部信者が行っていた姓名判断などの行為は、「統一教会の教義である統一原理とは……関係がない」という事実を認めている。
 さらに、「先祖供養や因縁の清算というレトリックを使うにしても、実のところ、統一教会本体には元々ここに関わる教義も儀礼もなかった(160ページ)とも語っている。このように、統一教会本体には、そのような〝教義〟がないことを認める一方で、櫻井氏は、「霊感商法」に関わる販売行為を統一教会自体が行っていると述べている。その主張自体が矛盾しているのである。これらの販売行為は、あくまでも一部信者だけが〝独自の活動〟として行っていたものに過ぎない。実際、日本国内を見ても、世界の統一教会を見ても、日本における一部信者が行っているようないわゆる「霊感商法」は、誰も行っていない。この事実を見ても、いわゆる「霊感商法」なるものを、統一教会が行っていないことは自明の理である。統一教会が「霊感商法」を行っているという主張は、反対派が政治的意図を持って〝家庭連合潰し〟のために強弁しているものに過ぎない。
 ところで、櫻井氏は著書『統一教会』の中で、次のように述べている。
 「統一教会の経済活動および資金調達組織としての教会組織」(65ページ)
 「統一教会の資金調達活動=霊感商法」(70ページ)
 「統一教会による人材と資金調達の戦略 ― 布教・霊感商法・献金」(107ページ)
 「統一教会は、資金調達に専念する経済部門……を考えた。経済部門では、安く原価で仕入れて熱意で高く売る……統一教会のお家芸とでも言うべき経済活動になった」(115ページ)
 「統一教会はこの霊感商法によってバブル景気で豊かになった市民から多額の金銭を違法に調達することができた」(117ページ)
 「霊感商法が日本の統一教会にもたらした帰結は……日本の統一教会の活動の根幹が違法な資金調達に固定され……霊感商法が主な宗教活動となっていった」(117ページ)
 「日本の統一教会独自の……資金調達のための霊感商法を同時に実践するという課題のために特異な信者養成プログラムにならざるをえなかった」(129ページ)
 「統一教会の資金調達活動には、①定着経済と呼ばれる企業経営、②霊感商法と批判される訪問販売」(152~153ページ)
 「霊感商品の販売業者たちが『自粛宣言』(統一教会の事業部門であるハッピー・ワールド社」(161ページ)
 「日本の統一教会は韓国物産を日本に輸入させ販売する事業を手がけてきた」(160ページ)
 「日本の統一教会活動(伝道や経済活動)」(174ページ)
 「信者が霊能者役となり、マニュアルに沿って霊能をかたり、威迫的行為によって高額商品を購入させるなど、統一教会による霊感商法の手口と酷似している」(249ページ)
 「統一教会による霊感商法は、日本宗教史における最大規模の詐欺事件となってもおかしくなかった」(245ページ)
 「統一教会は、資金調達というミッションのために霊感商法……を行い」(314ページ)その他、同様の記述が繰り返されている。
 このように、櫻井氏は数多くの箇所で、まるで統一教会自体がいわゆる「霊感商法」を行っていたかのように述べている。実に悪意に満ちた記述と言える。前述したように、彼は(姓名判断などの)鑑定は統一教会の教義である統一原理とは直接的な関係がない」「先祖供養や因縁の清算というレトリック……統一教会本体には元々ここに関わる教義も儀礼もなかったと結論付けているにも関わらずにである。教義にないことをもって行われた経済活動を、統一教会自体が行っていたと〝強弁〟することは、彼の主張の根本的矛盾を露呈しているものと言わざるを得ない。こういうのを〝二枚舌〟というのである。
 事実、櫻井氏は「日本では韓国の一信石材、一和といった統一教会関連企業が製造した高麗大理石壺、朝鮮人参茶などを輸入販売するようになった。これらの商品は、統一教会の幹部が設立した会社である『ハッピー・ワールド』(元・幸世商事)が輸入し、系列会社の『世界のしあわせ』が卸売りをする」(116ページ)と述べており、「統一教会の場合、形式的には霊感商法の実施主体は販社という別組織の活動だった」(278ページ)という事実を認めて述べているのである。
 すなわち、宗教法人・統一教会本体と統一教会信者が設立した〝販売会社〟は、櫻井氏の述べるように、どこまでも〝別組織〟なのである。
 ちなみに、上述のように櫻井氏は「統一教会は、『霊感商法は当法人ではなく、信徒組織が関連団体において自主的に行ってきた』と述べ、宗教法人としての責任がないとした。しかしながら、全国各地の訴訟において裁判所は『宗教法人統一教会は関連団体、含め一体のものとみなすことができる』と述べ、統一教会の使用者責任を認定し、最高裁においても確定している」(273ページ)と述べている。
 櫻井氏は、まるで家庭連合が〝反社会的団体〟であるかのように論じているが、近藤徳茂氏(家庭連合法務局副局長)は、『家庭連合信者に人権はないのか』(グッドタイム出版)で、次のように報告している。
 「2021年には、家庭連合を被告として下された3件の判決のうち、前記浦和献金事件及び長野献金事件の2件の事件で家庭連合側が全面勝訴を収めた。また、2022年には東京高裁で勝訴し、今年2023年にも家庭連合側は1件の献金裁判で全面勝訴を収めた。家庭連合に対してであればどのような不当請求も認めるという、従前の裁判の傾向に変化が見られるのである。したがって、こうした点からも、家庭連合は民事裁判で敗訴しているから『反社会的団体』だとする論調は全く通じなくなっていると言える」(129ページ)
 なお、同書では家庭連合側の勝訴判決、および「全国弁連」所属弁護士による不当な裁判事例、裁判証拠の捏造疑惑などが、「第4章 家庭連合反対派弁護士、牧師たちの欺瞞性」の「第2節 数々の不当請求、不当訴訟」で具体的事例を挙げて紹介されている。反対派のやり方こそ「反社会的」と言わざるを得ない。
 (注、なお、近藤徳茂氏が執筆した「第2節 数々の不当請求、不当訴訟」については、【資料2】として、最後の本文欄外に引用資料として掲載する。全文を読みたい方は、それを参照のこと)

(7)不安におびえている元信者の〝心理的な背景〟
  ―― 元信者が、脱会後も不安におびえるのは、強制的脱会のためと言える
 ここで再び、元信者における拉致監禁による〝強制脱会説得〟問題に触れざるを得ない。
 櫻井義秀氏の著書『統一教会』には、次のような記述がある。
 「『組織がおかしいと思っている人はかなりいるんだけど、文鮮明をおかしいと思っている人は、やっぱりまだまだ少ない……そういう人多いですよね。ひょっとして本当にメシヤだったらどうしよう』
 実のところ、集まってもらった女性たちもメシヤの観念を振り切るのにはずいぶんと時間を要したようだ。なぜなら、統一教会の教義的核心は文鮮明が本当のメシヤであるかどうかにかかっているからである」(229ページ)
 「私の場合は組織がおかしいと思っていても、もし死んで霊界に行って文がメシヤだったらどうしようという部分でなかなか抜けられなかったんですけど」(230ページ)

 元信者は、以上のような不安を異口同音に口にしている。
 〝もし文師がメシヤだったらどうしようか〟と思うような人物(心理状態)ならば、自然脱会することはあり得ない。まして、家庭連合を訴える裁判を行なったりはしない。これは、元信者らが何らかの〝強制脱会説得〟を受けたためだと考えられる。
 自らも拉致監禁被害者であり、現在、家庭連合の法務局副局長をしている近藤徳茂氏は、次のように述べている。
 「札幌、新潟、東京など全国で元信者が家庭連合を提訴する『青春を返せ裁判』では、合計180名のうち数名を除いた殆どの原告が拉致監禁され脱会した信者であった」(『家庭連合信者に人権はないのか』グッドタイム出版、97ページ)
 「偽装脱会を見破るための判断基準が複数あるため、大抵は見破られる。教会の内部情報を開示することや、教会に対する献金返金請求をすることなど、信仰を維持したままではできないことが判断基準に含まれているからである」(同、95ページ)
 「長期間の監禁によって心身共に疲弊し、暴行を受け、抵抗を断念して脱会する者……脱会専門業者らが元信者に対して家庭連合を訴えるよう仕向けた場合……更なる監禁継続を恐れ……家庭連合を提訴するようになる。そして、脱会前には自由意思によって信仰していたにもかかわらず、法廷では、『意に反して信仰させられ、献金させられた』との主張・供述を行うようになる」(同、98~99ページ)
 以上のように、反対派は監禁された家庭連合信者が〝偽装脱会〟なのかどうかを見破ろうと、家庭連合に対する提訴に踏み切るかどうかを現代の〝踏み絵〟にしてきたのである。
 拉致監禁による強制脱会説得を行ってきた川崎経子牧師は、その著書で「説得について二、三の注意」として、(牧師と会わせる際に)絶対に妥協して期限を切ってはなりません。期限つき説得は、成功しません。期限を切った時に、すでに勝敗は決定的です。……裏を返せば『一週間我慢して自己防衛すれば……原理に帰ることができるのだよ』と、子どもを励ましていることになるのです」「複数(2人)の説得者の利点は……A牧師の説明では不十分だったことを、B牧師の言葉によって補うことができるからです。……異なった目で見ることによって、〝偽装脱会〟を見抜けることです」(川崎経子著『統一協会の素顔』教文館、191~193ページ)とし、信者が脱会を決意した後も、「落ち込み、ゆれ戻しは必ずやってきます。まだ安心はできません」(同195ページ)などと述べている。このように、牧師は「期限つき説得」を強く戒め、脱会に至るまで無期限の脱会説得をするよう指導している。
 その上で、念を押すように「ツメが甘くなっていませんか」(同196~197ページ)と強調し、家庭連合の信仰を〝根こそぎなくす〟ための指導を徹底させている。この川崎牧師の言葉から分かるように、反対派の眼中には、家庭連合信者を「脱会させる」ことしかない。反対牧師は自らを「脱会カウンセラー」と呼んでいるように、信者を脱会させることが目的であり、彼らには信仰を尊重する配慮などない。ここで〝ツメ〟が甘いかどうか、あるいは〝勝敗〟を云々すること自体、それが尋常な話し合いの場ではなく、〝信仰(思想)の破壊工作〟の場であるのは明らかである。家庭連合信者の脱会を徹底させるその姿勢は冷酷そのもので、反対派の言う「話し合い」なるものを終えるには、〝脱会〟という選択肢しか与えられていないため、家庭連合信者はそれこそ地獄の苦しみを味わうことになる。
 実際に、杉本誠牧師(日本基督教団)は、2009年10月19日に「全国弁連」が主催する集会で、「脱会カウンセリングの現状と困難さ」と題して、次のように述べている。
 「救出されることによって『心に傷を受けていく人もいる』のは事実だ」「脱会させた後、家族はバラバラ、親子関係は滅茶苦茶になるなど悲惨なケースも多々ある」「大失敗をしたという最悪のケース……女性の脱会に成功した後、問題は起きた……統一教会の報道が出始めた最中、精神的に異常をぶり返してしまった女性は結果的に3歳になる子どもの首を絞める行為に出てしまう」(「キリスト新聞」2007年11月17日号)
 繰り返すが、この杉本牧師の証言は、「全国弁連」の主催する集会でのものである。「全国弁連」の弁護士たちが、脱会説得におけるこのような悲惨な実態があることを知らないはずはない。彼ら弁護士たちは、そのような事実を知っていながら、家庭連合信者に対する〝人権侵害〟については、まったく声を上げようとしない。人権を語る弁護士、人々の救いを語る牧師ならば、そのような拉致監禁における悲惨な現実を直視し、被害を食い止めることを最優先すべきであろう。ところが、櫻井氏の書籍には、拉致監禁の事実が何ひとつ書かれていない。この櫻井氏や反対派の人権を無視する態度こそ、大問題であると言わざるを得ないだろう。
 拉致監禁による強制脱会説得は、脱会カウンセラーらの指導方針に基づいて行われており、青春を返せ裁判における「180名のうち数名を除いた殆どの原告が拉致監禁され脱会した信者」という事実があるにもかかわらず(注、札幌・青春を返せ裁判の場合86%)、櫻井氏は、著書において〝拉致監禁〟にまったく触れず、それを黙認しているのである。櫻井氏は、専攻が「宗教社会学」である。ならば、もっとも重要な「信教の自由」が侵害されているこの〝拉致監禁問題〟についてこそ、著書で触れるべきであろう。それをしないのは、宗教社会学者として〝失格〟であると言わざるを得ない。
 拉致監禁されていた事実を認めているのは、現役の家庭連合信者ではなく、青春を返せ裁判の原告である元信者なのである。
 深刻な人権侵害である拉致監禁の事実を明らかにした元信者が一人でもいるとすれば、学者としての良心から正義感をもってこの問題を取り挙げるのが当然ではなかろうか。まして、ほとんどの元信者が監禁の事実を認めているにもかかわらず、なぜ、櫻井氏は著書でその事実に触れようとしないのか、大いに疑問である。拉致監禁という問題は、世間に幅広く訴えるべき事案である。反統一教会の立場を表明する米本和広氏は『我らの不快な隣人』(情報センター出版局刊)でこの問題を世に問うている。なぜ、櫻井氏はそのように行動しないのであろうか。
 ちなみに、日本国憲法38条2項では、「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない」と規定されている。これは、日本国憲法における重要な事項である。札幌・青春を返せ裁判における元信者は「全体の86%の原告が、何らかの意味で拘束された状態で脱会を決意した」(『間違いだらけの「マインド・コントロール」論』89ページ)という事実がある以上、その元信者の証言を裁判の証拠として採用することは、憲法違反に当たるのではなかろうか。このような事実を見て見ぬふりをする櫻井氏は、学者として大いに問題ありと言わざるを得ない。

(8)学者とは言い難い櫻井義秀氏の〝偏った〟「統一教会」研究
 魚谷俊輔氏は、『間違いだらけの「マインド・コントロール」論 ― 紀藤正樹弁護士への反論と正しい理解』(賢仁舎)で、「第4章 『ムーニーの成り立ち:洗脳か選択か?』を読む」の「櫻井義秀氏とは対照的な『内在的』アプローチ」(117ページ)という項目で、統一教会研究における古典的名著を書いたアイリーン・バーカー博士の研究の取り組み方と比較して、櫻井氏の研究の問題点を次のように指摘している。
 まず、魚谷氏は、バーカー博士の研究は次のような取り組み方であると述べる。
 「私(注、バーカー博士)の研究の主要な目的は、……文(Moon)についてではなく、ムーニー(Moonie)についてである」……「どのような状況下で、教養ある西洋の若者が韓国出身の人物に従い、一連の信条を受け入れ、ライフスタイルを取り入れ、両親や友人や社会全体から見れば奇妙で、間違っていて、不自然な行動をするのか?……この研究は文鮮明師自身に関するものではなく、文師を信じる信徒たち(ムーニー)に関するものであることは明らかだ。そして、一般人なら『洗脳』や『マインド・コントロール』という言葉で片付けてしまう疑問を、真剣に学問的に検討しようとしている(118ページ)
 このように、バーカー博士は、何の先入観も持たない客観的な立場から、現役の信者を取材するなどし、なぜ、どのようにして家庭連合の信仰を持つに至ったのか、「内在的」アプローチをしながら、ムーニーに対する「参与観察」を通して実像に迫っているのである。すなわち、家庭連合信者が信仰を持つに至ったのかに対する、実に重要なアプローチをしている。
 一方、バーカー博士の研究方法とは対照的な櫻井氏の研究手法の問題点について、魚谷氏は次のように指摘している。
 「これ(バーカー博士の研究)に比べると『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)における櫻井義秀氏の研究態度は、あえて統一教会と直接関わることを避け、統一教会と敵対関係にある弁護士から提供された『元信者』の証言を基に論じているという点で、研究対象との距離が相当にあると言ってよいだろう」(119ページ)
 魚谷氏が指摘するように、櫻井氏の研究方法は、現役の信者の実態を一切尊重することなく、強制的脱会説得によって脱会した元信者の偏った証言のみに基づいており、そこには〝公平さ〟がなく、極めて閉鎖された環境で成されているものだと言わざるを得ない。これは、どこまでも閉鎖された一見解に過ぎず、公平で幅広い視野をもって研究すべき宗教社会学者としては、実に恥ずかしい研究態度ではないだろうか。幅広い公平な研究の取り組みがなされてこそ、家庭連合の真実の姿に迫ることができるのであって、そのようなアプローチを一切捨てている櫻井氏の研究方法は、宗教社会学者として問題と言わざるを得ない。
 さて、かつて札幌裁判で被告・家庭連合側から提出された論文では、櫻井氏はマインド・コントロールについて批判的な見解を述べていた。ところが、この著書では、マインド・コントロールに対して、「『(元信者が)マインド・コントロールされている状態』とみなすのが、社会心理学者の西田公昭や弁連(「全国弁連」)の弁護士たち」である(櫻井義秀著『統一教会』286ページ)と紹介し、自らの見解としては、「脱会して元の教団を批判する場合、マインド・コントロールされていたと語られることが多い。どちらが正しいのか。あるいは、そもそもどちらが正しくてどちらが間違っているという考え方自体が妥当なのか」(同、286~287ページ)と述べるにとどまり、かつての西田氏のマインド・コントロール論に対する批判的見解とは違って、この著書では結論を出すことをあえて放棄している。結論を出さずに曖昧にしているのは、以前書いた論文とは根本的に異なる態度と言わざるを得ない。この〝変節ぶり〟は、学者としての威信を失う内容ではなかろうか。あえて結論を述べないのは、学者として卑怯である。結論を出さないのは、かつて「全国弁連」の弁護士やジャーナリストからバッシングを受けたため、再びバッシングされることを恐れて自己保身し、反対派の〝御用学者〟に成り下がっているからだと考えざるを得ない。
 なお、2023年6月24日、『家庭連合信者に人権はないのか』(グッドタイム出版)の出版記念シンポジウムが都内で開催された。同シンポジウムで講演した魚谷氏の発言を、家庭連合公式ホームページは次のように紹介している。
 「マインド・コントロール言説と拉致監禁・強制改宗はセットです。マインド・コントロールされている人は自由意思を奪われており、自分の力で脱会できない。そこで本人の意思に反してでも身体を拘束し、マインド・コントロールを解いてあげなければならない、という信念に基づいて、家庭連合信者の拉致監禁・強制改宗が行われてきましたと分析。
 続いて、紀藤正樹弁護士の著作『マインド・コントロール』のでたらめな記述や、紀藤氏の本の旧版から、元オセロの中島知子さんが〝マインド・コントロールされている〟と書いた記述すべてが削除された背景を語り、「マインド・コントロールとは何か。それは、『拉致監禁・強制改宗を正当化するための似非科学』である」と締めくくった(家庭連合公式ホームページから、https://ffwpu.jp/news/4304.html)。(なお、この出版記念シンポジウムでの魚谷俊輔氏の講演映像は、2023年7月28日にアップされているので、関心のある方はご覧いただきたい。https://youtu.be/GvTSq1Dh_VI

(9)学者としてお粗末な、櫻井義秀氏の論述の〝誤り〟の数々
 櫻井義秀氏は著書『統一教会』で、家庭連合に対して10年間研究して、この書を脱稿したと述べている(320ページ)。しかしながら、同書には驚くべき〝事実誤認〟と〝誤植〟があまりにも多い。学者として10年間、いったい何を研究していたというのか?
 まず、同書の6ページで、韓鶴子総裁の母親である洪順愛・大母様に対し、「洪順愛は文鮮明が統一教を創設する前に活動していたころからの信者」と述べている。ところが、わずか42ページ後で「韓鶴子の母親は洪順愛(1914~89)であり、1955年に入信したとされる」(48ページ)と書いている。統一教会創立は1954年である。このような矛盾したことを平然と述べている。
 また、49ページにおいては、「洪順愛は多くの婦人たち同様に教会(注、青坡洞教会)に起居して立ち働き、韓鶴子は1960年に結婚するまでそこから看護生として通学していた」と述べている。しかしながら、家庭連合研究に欠かせない、最も基本的に把握しておくべき韓鶴子総裁の自叙伝には、「私は寄宿舎から看護学校に通い、日曜日には青坡洞教会に行って礼拝に参加しました」(『人類の涙をぬぐう平和の母』104ページ)とある。これが事実なのである。櫻井氏は、『統一教会』を2023年3月25日に出版した。韓鶴子総裁の自叙伝の日本語版は、2020年6月2日に出版されている。その自叙伝出版から櫻井氏の著書は、約2年10カ月後である。研究者であるならば、自叙伝の内容を当然、把握しておくべきであろう。
 櫻井氏は、研究者としての〝基本中の基本〟である韓鶴子総裁の自叙伝すら読んでいないことが露呈している。もし、現役信者に取材していたなら、このような単純な事実誤認は起こらなかったであろう。事実誤認は、元信者の偏った証言だけに基づいて研究しているために起こったものと言わざるを得ない。
 次に、櫻井氏は、韓鶴子総裁に対し「子羊(処女)を娶って」(47ページ)「女性信者たちのうちで自分が子羊として選ばれるのではないかと考えたものもいたかもしれない。しかし、文鮮明が選んだのは、現在の統一教会・世界平和統一家庭連合の総裁である韓鶴子であった」(48ページ)と述べている。これも家庭連合の基本的教えに関する〝無知〟を露呈している。
 櫻井氏は、韓鶴子総裁に対し「子羊」と述べているが、現役の家庭連合信者で、韓鶴子総裁を「子羊」と信じている者は1人もいない。このような基本的過ちを平然と書いている。「子羊」とは、キリスト教信仰においても、家庭連合の信仰においても、それはイエス様および再臨主であるキリストを指している(参照、ヨハネ伝1章36節、『原理講論』320ページ)。
 さらに、櫻井氏は韓鶴子総裁に対し、「韓鶴子は三代続いて女子の独り子」(48ページ)と述べている。この点も、韓鶴子総裁を「女子の独り子」と述べる現役信者は1人もいない。実に恥ずかしい記述である。これもまた現役信者の一人にでも取材していれば、このようなことを述べるわけがない。これは、元信者の歪んだ情報だけに基づき、家庭連合の信仰がいかなるものであるのかをまったく調べていないために起こった〝事実誤認〟であると言える。
 また、櫻井氏は、「神は、再臨主としてまずイエスを送った」(46ページ)と述べている。これも家庭連合の基本中の基本どころか、キリスト教の基本も分かっていないことの現れである。「神は、再臨主としてまずイエスを送った」のではない。このような記述は『原理講論』に1か所もない。櫻井氏は、『原理講論』の内容どころか、キリスト教信仰さえも理解しておらず、〝宗教的無知〟をさらけ出している。こんな初歩的なことさえも知らない人物は、家庭連合について論じる資格がないものと言わざるを得ない。
 ちなみに、彼の著書には〝誤植〟が多すぎる。例えば、「漢方病院」(163ページ)は誤りで、正しくは「韓方病院」である。「正心苑」(164ページ)は誤りで、正しくは「情心苑」であり、現在は「天心苑」である。「親和官」(同)は誤りで、正しくは「親和館」である。また、「太母様」(同)は誤りで、正しくは「大母様」である。「興進は文鮮明の長男」(168ページ)は誤りで、正しくは「興進は文鮮明の次男」である。「ウィルス」(169ページ)は誤りで、正しくは「ウイルス」である。「1975年の1800組の合同結婚式には、10代会長の大塚克己前会長が参加している」(183ページ)は誤りで、正しくは「1982年の6000組の合同結婚式には、8代および10代会長の大塚克己元会長が参加している」である。
 さらに、家庭連合信者ではよく知られた人物名についても、基本的な誤りが多い。例えば、草創期のメンバーの名前が列挙されているが、そこに「小笠原節子」(56ページ)とあるが、これは誤りで、正しくは「小河原節子」である。草創期の事実関係においても、日本宣教に来た崔奉春(西川勝)宣教師が「1957年7月に福岡に上陸したものの」(同)と述べるが、正しくは「福岡県の小倉港に入港しましたが、上陸の許可が下りず」(『日本統一運動史』124ページ)であり、福岡に上陸していない。
 また、草創期のメンバーの阿部知行氏に対し、わざわざ「ともゆき」(108ページ)とルビを振っているが、これは誤りで、正しくは「のりゆき」(『日本統一運動史』402ページ)である。家庭連合・第3代会長を務めた藤井羑雄氏に対し、「藤井菱雄(ふじいひしお)」(108ページ)と述べるが、これは誤りで、正しくは「藤井羑雄(ふじいみちお)」(『日本統一運動史』474ページ)である。家庭連合・第5代会長を「桜井節雄」(118ページ)と表記するが、これは誤りで、正しくは「桜井設雄」(『日本統一運動史』492ページ)である。2000年2月10日出版の『日本統一運動史』を読んでさえいれば、このような〝初歩的な誤り〟はあり得なかったはずである。
 櫻井氏の著書には、それ以外の箇所にも同類の〝事実誤認〟や〝誤植〟があまりにも多く、実にデタラメ極まりない。彼は『日本統一運動史』さえまともに読んでいない可能性が高く、家庭連合に関する研究者というには、実にお粗末である。
 しかも、「10年間研究した」と豪語する学者が述べる内容としては、実に恥ずかしい初歩的な間違いの連続なのである。ここまでくると、出版元である輝かしい歴史と伝統を誇る中央公論新社の名誉にも関わってくるのではないだろうか。

(10)反対派の情報だけを〝鵜呑み〟にして著作する櫻井義秀氏
 櫻井義秀氏は、除名された元信者である副島嘉和氏らの書いた『文藝春秋』(1984年7月号)の記事を引用しながら、次のように述べている。
 「1983年10月に、当時『世界日報』の編集局長であった副島嘉和のもとに国際勝共連合理事長だった梶栗玄太郎以下約100名が押しかけ、暴力的に副島と彼の部下を解任したという事件が発生した。副島と彼の部下であり、1981年に四国ブロック長であった井上博明が、連名で統一教会の資金調達活動を内部告発する文書を『文藝春秋』1984年7月号に発表したからである。その中で、副島は1980年に文鮮明の指令により経済局が新設され……古田は全国しあわせサークル連絡協議会の長になる」(118ページ)
 櫻井氏は、副島氏の批判記事の内容を検証もせず〝垂れ流し〟にしているに過ぎない。反対派の批判の内容が事実かどうかについては、裏付けも取っていないのである。ただその批判内容を〝鵜呑み〟にしているだけである。これでは学者とは言い難い。櫻井氏が著作する動機が、家庭連合を批判しようという〝結論ありき〟であるからと言えよう。
 副島氏らの書いた同記事の内容に対しては、すでに『知識』(1984年秋季号)で、那須聖氏(外交評論家)が、副島氏らの記事内容は〝デタラメ〟であるとして、反論文を公表している。その点についても、櫻井氏は何の研究もしていない。この件は、『統一教会NEWS』(1984年10月1日号、統一教会広報部発行)で当時、マスコミ関係者や有識者らに広く報せている。その内容を以下、抜粋する。
 「『文藝春秋』は、その7月号で『これが「統一教会」の秘部だ』という元統一教会員副島嘉和、井上博明両氏が書いた原稿を18ページにわたって掲載している。彼らは昨年(1983年)10月に世界日報社から解雇され、統一教会からも除名されている。
 ある団体あるいは会社に長年所属しながら、その団体あるいは会社から正当な理由のために除名された人の中には、主としてその人の性格及び背後関係から、その団体や会社の幹部に激怒する余り、今度は外部からその団体や会社の仕事を妨害したり、この団体や会社を潰そうと考え、その団体や会社の内部事情のあることないことを歪めて暴露する人が時々ある。こういう人の原稿はいくら客観的表現を使っているようにみえても、常に自分の非を被いかくし、自分を一方的に正当化し、その団体を故意に悪者にした主観的なものであって、客観的事実を尊重する者からみれば、その行間に憎しみがにじみでていて、読むに耐えないものである。副島氏らの原稿はその典型的なものである
 (注、那須聖氏)は統一教会のメンバーではないし、文鮮明師あるいは統一教会のために弁護しなければならない責任はないし、その立場にもない。
 しかし重要な事実が歪んで伝えられたり罪なき人または団体が不当な非難、迫害を受けている場合には、1ジャーナリストとして、客観的事実を伝え、その非難、迫害が不当なものであることを指摘する義務を感ずる
 「私が調査したところによると、その(世界日報社解雇、統一教会除名の)真の原因は、何ということはない。副島氏らが不当かつ不法に世界日報社を乗っ取ろうとしたことである。……私は副島氏らの論文に対する反論を書きながら、彼らに対する耐え難い不憫の情を禁じ得ない。統一教会及び世界日報から除名された原因は、この二人が非合法的な方法で世界日報を乗っ取ろうとしたことにあったことは、まぎれもない事実である。これは副島氏らも内心認めているに違いない。それであるにもかかわらず除名されたら『文藝春秋』までも利用して、自分たちが一生に一つしかない青春を捧げて働いてきた統一教会とこの機関(世界日報)を罵倒し、それを潰そうとする心情を誠に哀れに思う。……副島氏の論文で大へんな被害と誤解を受けた統一教会の幹部たちは『昨日まで兄弟だったから、誤りやでたらめが多いけれども、それに反対したくない』といっている。彼らの心境も察してやってほしい」
 以上のように、那須氏はジャーナリストとして調査をし、以上のように真相を明らかにしている。
 櫻井氏は、『文藝春秋』の批判記事に基づいて、「副島は1980年に文鮮明の指令により経済局が新設され……古田は全国しあわせサークル連絡協議会の長になる」と書いている。しかし、この件の誤りについて、すでに『有田芳生の偏向報道まっしぐら』(2012年9月20日刊、賢仁舎)で「古田氏の組織した『全国しあわせサークル連絡協議会』が、文師の指示で設立されたというのは事実誤認だ」(134ページ)と反論済みである。櫻井氏は、家庭連合の研究者だと名乗ってはいるが、それは〝反対派の情報〟だけに基づく極めて偏った研究になっている。
 ちなみに、副島氏らは『文藝春秋』で「不愉快な儀式が統一教会にある」(140ページ)と述べ、天皇陛下の身代わりに初代会長の久保木修己氏が、文鮮明夫妻に拝跪(はいき)するなどと述べている。しかし、これは副島氏らが家庭連合を貶めるために行った批判なのである。
 前述の那須氏が、副島氏らの批判文には「その行間に憎しみがにじみでていて、読むに耐えないものである」と指摘するとおり、歪められた表現である。事実、家庭連合は、人類一家族世界「One Family Under God」を目指す精神をもっており、神(天の父母)のもとで世界の人々が和合するセレモニーを行うが、副島氏らは文鮮明師を貶めるために憎しみをもってそのように批判しているに過ぎない。
 文鮮明師は、〝万世一系〟の天皇の素晴らしさについて、次のように述べている。
 「日本の天皇を神の代身者の如く敬い、侍っても問題ではありません。『この国の中心的基準は、将来、私たちの真の父母が立てるべき基準を立てたものです』という思いをもって国を愛する人が、神を愛した基準にそのまま通ずるのです」(1991年7月14日)
 こう述べる文鮮明師が、天皇を拝跪させ、侮辱することはあり得ないことである。櫻井氏は、反対派の批判情報だけに踊らされて、それを鵜呑みにし、ただ垂れ流しにしているに過ぎない。同氏は、文鮮明師が語った言葉を直接検証することもなく、また家庭連合が出版している「反論書」や『日本統一運動史』などの出版物を読んで幅広く研究するわけでもない。さらに那須氏のように、厳正中立な態度で〝情報収集〟をし、分析するわけでもない。櫻井氏の研究姿勢は極めて偏っており、〝真実の探求〟とはほど遠いと言わざるを得ない。

(11)日本の植民地支配に対する〝恨〟や〝贖罪意識〟で、信者を支配しているとの虚偽
 櫻井義秀氏は、文鮮明師や韓鶴子総裁は日本による韓国植民地支配に対する贖罪として、信徒を贖罪意識に追い込み、呪縛の信仰を持たせているかのように次のように述べる。
 「賢明な読者は、日本における統一教会の拡大の背後に、日韓関係の桎梏を感じ取るだろう。韓国人教祖と幹部たちが抱く日本の植民地主義に対する恨と、日本人信者の贖罪意識なしに、一方的な支配・従属の関係はありえないからだ」(はじめに・ⅲページ)
 (文鮮明は)日本語での教育は皇民化教育でもあり、植民地支配に抗する学生たちの情熱をこの時代に共有した経験から、文鮮明は壮年期になって日本人信者に対して植民地支配の纖悔を徹底して迫ることになる」(31ページ)
 さらには、次の内容は文鮮明師の言葉ではなく、金孝南氏が語ったとされるものを引用してまでも、次のように述べる。
 「信徒が記憶している金孝南の典型的な語り口は次のようなものだ。『日本人は、かつて韓国を侵略し、植民地にした。従軍慰安婦や強制連行で、韓国の人々、特に女性たちにたくさんの苦しみを与えた。その従軍慰安婦や強制連行された女性の霊が日本人女性に乗り移っている。だから、日本にいる悪霊は、他の国の悪霊よりも恐ろしい』……これは金孝南に限らず、韓国から日本の統一教会の教区(あるいはブロック)に派遣されている教区長もまた同じようなことを日本人の信者に対して語る。日本の統一教会が韓国に貢献しなければならないこと、堕落したエバ国家の使命として、統一教会全体の財政支援を完遂しなければならないことなどを再三再四述べるのだ」(170ページ)
 櫻井氏は以上のように述べ、文鮮明師や韓鶴子総裁が家庭連合信者に〝反日思想〟を植え込み、〝贖罪意識〟を持たせることによって、信者を支配しているかのように述べているのである。
 しかし、このような「反日」思想的なことを、文鮮明師や韓鶴子総裁は一切語っていない。このように批判するのは、あくまでも反対派の語っている根拠のない批判に過ぎず、かつ、その誤った主張に踊らされた元信者が、まるで〝オウム返し〟のように語ってきたものに過ぎない。
 事実、櫻井氏の上記の批判は、文鮮明師の言葉や韓鶴子総裁の具体的な言葉の根拠を挙げることなく、何の裏付けもしていない(注、著書『統一教会』全体を読んでも、根拠を示していない)。実際、韓国の贖罪のために献金を捧げなさいと語った言葉は存在せず、また、そのために海外宣教をしなさいと語った言葉も存在しない。今日に至るまで、長きにわたって家庭連合を批判してきた反対派は、文鮮明師や韓鶴子総裁のこのような言葉を提示したことが一度もない。事実は、むしろ反対派が批判する言葉と〝真逆〟であり、文鮮明師は次のように語っている。
 日本から来たお金は、韓国のために使ってはいけません。世界のために使っています。世界のために使わなければなりません。……そのお金を韓国のために使ってはいけません。莫大な資金をアメリカのために、自由世界のために使っています」(『神様の摂理と日本』127ページ)
 「お金は私にとって何の意味もありません。人類のために、貧困で死んでいく隣人のために使われないお金は、一枚の紙切れにすぎません。一生懸命に働いて稼いだお金は、世界を愛し、世界のために働くところに使われてこそ価値があるのです(『平和を愛する世界人として』362ページ)
 また、櫻井氏のような批判内容は、反対派が一方的に主張してきたことであるとして、文鮮明師は次のようにも語っている。
 「『日本が、40年間韓国を圧制した政治的な恨を解くために(文鮮明は「反日」的な)このような話をする』と、あらゆるうわさが立ちました。(しかし)献金を自分のために使ったことはありません。日本から外国に出た宣教師たちの基盤を築くために使ったのであって、韓国の基盤を築くために使ったのではありません(『後天時代と真の愛の絶対価値』185ページ)
 以上のように、文鮮明師は「日本から来たお金は、韓国のために使ってはいけません」「世界を愛し、世界のために働くところに使われてこそ価値があるのです」「韓国の基盤を築くために使ったのではありません」と、櫻井氏の批判と〝真逆〟のことを語ってきたのが事実である。
 韓鶴子総裁も自叙伝で、次のように述べている。
 「信徒が献金をすれば、そのお金は社会と世界のために使われたのです。宣教師が海外に出るときも、古びたトランクを一つだけ持って行きました。彼らは任地で働き自分で稼いだお金で何とか教会を切り盛りしていったのです。信徒たちの献金は様々な国に学校を設立し、病院を建て、奉仕活動をすることに使われました。これらの活動はこの60年間たゆまず続けられました」(『人類の涙をぬぐう平和の母』244ページ)
 また、文鮮明師は、日本統治時代において悲惨な歴史を経てきた韓民族に対してさえも、次のように語って〝世界のため〟に生きるべきことを教えておられる。
 「韓民族は、今まで自分たちが愛するものをすべて奪われました。日本統治時代には大切な国を奪われ、続いて国土が真っ二つになり、愛する父母、兄弟たちと別れなければなりませんでした。そのため、朝鮮半島は涙の地になりました。しかし、今は韓民族が世界に向かって泣いてあげなければならない時です。これからは、自分たちのために泣いていた時よりも、もっと真摯に、切実に世界のために涙を流さなければなりません(『平和を愛する世界人として』313ページ)
 このように、過去の悲しみや怨讐さえも超え、世界を愛し、世界のために涙を流して生きるべきという主旨の文鮮明師の言葉や、韓鶴子総裁の言葉は数限りなくある。櫻井氏が言うような〝反日思想〟的な言葉は存在しないのである。これが〝真実〟である。
 櫻井氏の著書『統一教会』は、存在しない〝虚偽の内容〟(恨や贖罪意識など)に基づいて書かれている。サブタイトルに「性・カネ・恨(ハン)から実像に迫る」と銘打っているが、櫻井氏の著書を読めば読むほどに、その内容は〝虚像に迫っている〟と断言せざるを得ないものである。

(12)『原理講論』の論述に関する櫻井義秀氏の〝浅薄な理解〟の数々
 櫻井義秀氏は、『原理講論』の「再臨論」の論述から5か所を引用しながら(101~105ページ)、彼は「再臨論」に「文鮮明がメシヤである証明はこれしかない……メシヤが文鮮明にほかならないことの証明がなくてよいのだろうか」(105ページ)などと述べている。
 しかし、これも『原理講論』の論述の〝基本中の基本〟が分かっていない。なぜなら、『原理講論』の「再臨論」の項目は、第一節「イエスはいつ再臨されるか」、第二節「イエスはいかに再臨されるか」、第三節「イエスはどこに再臨されるか」の3項目の内容に関して論じているものである。
 そこには、「誰が再臨主か」、果たして「文鮮明師が再臨主であるかどうか」について論じる項目はない。櫻井氏は『原理講論』に書かれていないことをもって、それが〝書かれていない〟とつぶやくのである。そもそも『原理講論』の「再臨論」は、誰が再臨主なのかについて取り扱っていないのである。ゆえに、「メシヤが文鮮明にほかならないことの証明がなくてよいのだろうか」と述べる櫻井氏は、「再臨論」の基本さえ理解していないが故に、まったく的外れな主張をしているのである。
 ところで、『原理講論』は1966年に出版されたが、それから26年後の1992年8月24日、文鮮明師は「私と私の妻の韓鶴子総裁は人類の真の父母であり、救世主・再臨主であり、メシヤであると宣布しました」と公式発表した。その発表の翌年1993年5月1日に出版された『統一教会の正統性』には、2000年前の〝イエスの受難〟と、現代の〝文鮮明師の受難の生涯〟が類似していることが述べられている。初代教会が旧約聖書によってイエスのメシヤ性を論じようとしたように、これは新約聖書の聖句に基づいて、文鮮明師が再臨主であることを論じたものである。
 (注、なお『統一教会の正統性』に書かれた〝イエスの受難〟と、現代の〝文鮮明師の受難の生涯〟が類似している点を一覧表にまとめた「聖句に啓示された類似性の比較対照表」の一部を【資料3】として、最後の本文欄外に引用資料として掲載する)

 また、2000年前のイエス様が生まれた場所は、物質文明圏のローマ帝国(左側)と、精神文明圏の東洋(右側)の中間地であるイスラエルであった。物質文明圏と精神文明圏の両世界を和合統一し得るみ言をイエス様は語ったのである(注、2000年のキリスト教史を見れば、イエス様の言葉が世界に対し大きな影響を与えたのは事実である)。しかしながら、2000年前、ユダヤ教がイエス様をメシヤとして受けいれなかったため、結局は、物質文明圏と精神文明圏の両世界を和合統一することはできなかった。
 現代において、世界は韓半島の38度線を中心に、唯物論を基盤とした共産圏(左側)と、唯心論を基盤とした自由圏(右側)に分かれている。2000年前の状況を考えると、世界の共産圏と自由圏の中間地点である韓半島こそが、再臨主の来られる場所であると言える(参照、YouTube映像:旧統一教会報道に対する我々の視点「再臨主の来られる場所」2023年3月31日アップ)。文鮮明師は、「唯物論」と「唯心論」を和合統一する「唯一論」を解明しており、共産圏と自由圏を和合統一し得る理論体系(新しいパラダイム)を持っている。この事実こそ、文鮮明師が再臨主であることの証明であると考えるものである。この『原理講論』の教理に関する櫻井氏の〝無知〟は、彼の著作の全体の論述に及んでいるものであり、そこから存在しない「血分け」「6マリア」の批判が生じていると言わざるを得ない。この「血分け」「6マリア」批判に対する反論は後述する。

(13)「蕩減」という概念に対する櫻井義秀氏の誤った理解
 櫻井義秀氏は、『原理講論』の重要な概念の一つである「蕩減」についても、著しく〝誤った理解〟をしている。櫻井氏は次のように述べている。
 「韓国がアダム国で日本がエバ国であり、エバがアダムを堕落させ、日本が韓国を植民地支配したのだからその蕩減を追(ママ。正しくは「負」)わなければならないという文鮮明の教説を繰り返している」(304ページ)
 また、櫻井氏は、日本が韓国を植民地支配したので、その「蕩減」として「高額献金」をさせているかのように述べている。しかし、献金はあくまでも、信者が自らの自由意思によって自主的に捧げるものである。櫻井氏は、「蕩減」という言葉を「償い」という言葉と同義語のように使っている。しかし、ウィキペディアには、文鮮明師が語った言葉として、次の言葉が紹介されている。
 「蕩減とは何であるかというと、100以下のものをもって100と同じに認めてくれることです」(1980年7月1日の説教「蕩減の歴史的基準」)
 「神は常に誰もが救いを受ける機会が得られるように(負債総額よりも)小さな条件を設定されています」(1981年2月10日の説教「蕩減復帰摂理歴史」)
 「蕩減復帰とは、小さな条件を通して大きなことを蕩減する(赦す)ことです」(1967年6月4日の説教「蕩減が行く道」)
 以上の文鮮明師の言葉から分かるように、「蕩減」とは、どこまでも恩寵をもって〝救いの摂理〟が行われていることを言うのである。櫻井氏自身も、「蕩減は韓国語で『借金を帳消しにする』『罪の清算』を意味する」(97ページ)と述べている。事実、ウィキペディアでは、「韓国では一般に金融用語として『債務の減免』の意味で使われ、頻繁にマスコミに登場する。また韓国語聖書で罪や負債の『ゆるし』の訳に用いられており、韓国のキリスト教会の説教でも罪や負債の『ゆるし』の意味で頻繁に用いられる」と解説している。
 文鮮明師の言葉も、まさにこのような意味で語られているのは明白である。
 ところが、櫻井氏は、韓国語で「蕩減」という言葉は、上述した「ゆるし」の概念であることを知っていながら、著書『統一教会』の304ページで日本が韓国を植民地支配したのだからその蕩減を追わなければならないと述べて、誤った用い方をしている。同じ人物が書いたものとは、とうてい思えない矛盾した論述である。このような矛盾を平然と述べるのは、櫻井氏が家庭連合を何としてでも貶めたいという気持ちが先行しているためであろう。ここにも、同氏のねじ曲がった研究姿勢が現れている。

(14)キリスト教神学に対する〝無知〟を露呈する櫻井義秀氏
①創世記の「蛇」の解釈について
 櫻井義秀氏は、聖書に登場する蛇の解釈について、次のように述べている。
 「蛇はあくまでも蛇であり、その蛇が天界から投げ落とされるというヨハネ黙示録『この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた』(12章9節)、『この天使は、悪魔でもサタンでもある』(20章2節)は新約文書成立期の解釈であるとする」(『統一教会』94ページ)
 このような「蛇」に対する捉え方は、浅見定雄氏の『原理講論』批判と軌を一にするものである。浅見氏は、「『講論』では創世記3章の『蛇』と黙示録12・9の『巨大な龍』が同じ存在(サタン)を象徴しているとしているが両者は全く別な存在である。前者は陸上を這いあるく小さな蛇であり、後者は7つの頭を持つ海の怪物である」と述べ、『原理講論』を批判している。櫻井氏も、創世記の「蛇はあくまでも蛇であり」、ヨハネ黙示録の「この巨大な竜、年を経た蛇……は新約文書成立期の解釈である」としている。つまり、創世記の「蛇」と黙示録の「竜(龍)」「年を経た蛇」は別物であるとして、櫻井氏は区別する。しかし、これはキリスト教神学に対する〝無知〟をさらけ出していると言わざるを得ない。
 この問題については、『浅見定雄氏に対する反論』(1989年6月1日刊、光言社、68~70ページ)で、すでに反論済みである。以下、その反論文を引用する。
 「ここで問題とされなければならないのは、単に言葉の意味の違いではなく、また……これらが書かれた当時の文化的背景でもない。……問題とされるべきなのは、その背後にある神学的思想である。……創世記の『蛇』も黙示録の『龍』も共に、その背後にこの世における悪の根源者――サタン――という同一なるものを意識しているといえる。例えば『新聖書大事典』は、黙示録に出てくる『龍』に関して『これは創世記3章の〈へび〉と同一視され(黙12・9、年を経たへび)、メシアである子を食おうとかまえている』(キリスト新聞社1502頁)と両者は共に同じものを意味するとの見解を示している
 また、創世記3章の『蛇』については、『キリスト教大事典』は『始祖アダムの堕罪は、蛇という象徴で言い表される悪魔の誘惑と教唆による』(教文館15頁)と記しており、『フランシスコ会訳聖書』……また『新聖書注解・旧約1』……大半の(聖書注解書の)見解は、創世記の『蛇』の背後に〈サタン〉の存在を見ている……黙示録12章9節の『龍』については、そこでの聖句自体に『この巨大な龍、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれ……』と書かれているのであるから、結局、創世記3章の『蛇』と黙示録12章の『龍』も共に同じ存在――悪魔、サタン――を意味するもの(が、背後の神学的思想)ということができる」

②イエスの「十字架贖罪」の問題について
 次に、櫻井義秀氏は次のように述べて、『原理講論』を批判している。
 「キリスト教徒であれば、人間の罪を負って十字架にかけられたイエス・キリストによる贖罪を疑うものはない。……ところが、統一教会ではイエスはキリストの使命を完遂できず無念のまま人間としての生命を終えたのだという。なぜ、イエス・キリストによる救済が完全なものでないのかに関して、『統一原理』では語られず、『再臨論』へと話が進められる」(99ページ)
 現代のキリスト教において、新約聖書に書かれた〝十字架で贖罪を果たした〟というイエス像は、あくまでもケリュグマ(宣教)のイエス像に他ならないと結論付けている。実際の「史的イエス」の姿は、シュバイツァーやギュンター・ボルンカムなど、イエス様は神の国を宣布し、神の国を来たらしめようとしていたのではないかと主張している。このような見解に立っている新約聖書学者らは、「人間の罪を負って十字架にかけられたイエス・キリストによる贖罪を疑うものはない」というものではなく、そもそも十字架贖罪自体が疑わしいものであると考える。すなわち、新約聖書のイエスの生涯は、ケリュグマ(宣教)のイエス像に他ならないと言うのである。櫻井氏は、このような事実があることを伏せて、こう強弁していると言えるのである。
 次に、櫻井氏は、「なぜ、イエス・キリストによる救済が完全なものでないのかに関して、『統一原理』では語られず……」などと述べるが、この点については『原理講論』の全体の論理や歴史観が、十字架によってしては、未だ救いは完成していないという論理を証明しているのである。
 1993年5月1日、太田朝久著『統一教会の正統性』が出版されたが、そこには「十字架予定論について」という項目で、次のように論じられている。
 「慎重に学んだ幾度目かの原理講義で、そこに隠されていた深遠なる奥義が初めて理解できたのである。それは何かといえば、神の救援摂理が、従来のキリスト教神学に無かった『蕩減復帰』という概念に基づいて釈義されているという点であり、しかもその概念によって、創世記から始まって現代に至るまでの救済歴史の全貌がみごとに一貫性をもって整理されており、『復帰』というひとつの歴史観を築きあげているというものであった」(82ページ)
 すなわち、従来のキリスト教では、2000年前に起こった「十字架」を中心に据え、そこから旧約時代(旧約聖書)にさかのぼって考え、歴史を解釈している。また、「十字架」を中心に据え、それ以降の2000年のキリスト教史を見つめており、「最後の審判」という終末に向かって世は乱れ、世界は神の審判を迎えると考えている。いわば、歴史の「退化論」である。そのような意味においては、福音派のキリスト教徒は、十字架を中心に据えて、すでに2000年前に〝救いは完成した〟と捉えているのである。
 ところが、『統一教会の正統性』で指摘しているように、人類歴史の全体を「創造」「堕落」「復帰」という観点から見たときに「創世記から始まって現代に至るまでの救済歴史の全貌がみごとに一貫性をもって整理されており、『復帰』というひとつの歴史観を築きあげている」というのである。すなわち、人間始祖アダムとエバの堕落によって実現できなかった理想世界(「三大祝福」の実現)を復帰するというのが、神の救いの摂理の全貌であり、目的であった。したがって、『原理講論』の歴史観の全体像を見たとき、「三大祝福」を実現するというのが、イエスが降臨した目的であったというである。これが『原理講論』の一貫した主張である。その「復帰」の観点から見たとき、イエス様は十字架にかかることによって、結果的に「三大祝福」実現を果たせなかった。これこそが、櫻井氏の述べる「イエス・キリストによる救済が完全なものでないのかに関して、『統一原理』では語られず」という〝問い〟に対する明解な回答なのである。
 すなわち、イエス様個人としては、第一祝福の「個性完成」を果たしているが、第二祝福の「家庭完成」は果たすことができず、さらに第三祝福の「万物主管」、すなわち「理想世界」実現を果たすことができないままに、十字架で亡くなられたのであった。この『原理講論』の全体像から見たとき、「イエスはキリストの使命を完遂できず無念のまま人間としての生命を終えた」と結論付けているのである。

③イエス様の失敗が「霊體交換(血分け)」できなかったこととする〝虚偽〟
 櫻井義秀氏は、「『原理講論』におけるイエスの失敗は、霊體交換(注、血分け)によってサタンから神への血統の転換がなされなかったことを意味する」(100ページ)などと意味不明なことを述べている。そもそも「霊體交換(注、血分け)なる教え自体が家庭連合には存在していない。また、「イエスの失敗」に対するこのような理解は、『原理講論』の全体像を把握していないための〝珍説〟に過ぎない。
 櫻井氏は、「なぜ、イエス・キリストによる救済が失敗したと言えるのか……についてほとんど聖書を根拠として述べることがない」(同)と主張するが、これは「創造」「堕落」「復帰」という復帰歴史全体を見ていないために起こる〝愚かな主張〟である。
 追って反論を述べていくが、「霊體交換(注、血分け)という教えは、家庭連合には存在しない。つまり、存在しないことを平然と語り、「統一教会はこの点(血分け)を教典に含めず、日本の信者たちにも明言してこなかった」(同)などと主張する櫻井氏は、その前提から完全に間違っているのである。

 さらに、櫻井氏は「祝福結婚式」に関連して、聖酒式についても次のように述べる。
 「聖酒式:聖酒の中身だが、『父母の愛の象徴が入っている。それから血が入っていないといけない。それを飲むと、父母の愛と一体となり、血と一体となる』『この聖酒はいかに作られるかというと、陸海空を象徴し、全体を象徴しているものから作られた酒である。三種類の酒が入っている。それ以外に、すべての万物の象徴が入っている』(『祝福』1974冬号、138頁)」(191ページ)
 櫻井氏はこう述べた上で、それに続けて「聖酒式」について次のように述べる。
 「聖酒式ではかつて、『聖酒式をする前に、先生が女たちに手を重ねるのは一体化の式である。霊的に一つになる。それを通し、先生の身を受けてから相対者と霊的肉的に一つとなる。だから、今までは女は娘の立場だったのだけれど、今は霊的には相対者の立場である』(『祝福』1974冬号、139頁)。
 娘の立場から相対者の立場へと変わることの意味は、女性信徒が文鮮明の花嫁になったということだ。これが統一教会でいう『血統転換』の中身であり、復帰されたアダムであるメシヤを霊的に迎えて一体化し、愛の因縁を元に返すという」(191ページ)
 以上のように、櫻井氏は、聖酒について「父母の愛の象徴が入っている。それから血が入っていないといけない」とした上で、「聖酒式をする前に、先生が女たちに手を重ねるのは一体化の式である」「先生の身を受けてから相対者と霊的肉的に一つとなる。だから……霊的には相対者の立場である」「女性信徒が文鮮明の花嫁になったということだ。これが統一教会でいう『血統転換』の中身であり」などと述べ、それがまるで〝いかがわしい儀式〟であるかのようにほのめかしている。
 まず、「父母の愛の象徴」という言葉の意味であるが、これは、萩原遼著『淫教のメシア・文鮮明伝』においては、「二人の『愛の象徴』とはなにかについて書くこともはばかるような内容」と述べて、それが精液を意味するものであるかのように語っている(萩原遼著『淫教のメシア・文鮮明伝』22ページ)。
 櫻井氏もまた、「女性信徒が文鮮明の花嫁になったということだ。これが統一教会でいう『血統転換』の中身」と述べ、まるで〝血分け〟の儀式に関連してでもいるかのように、邪推した書き方をしている。
 しかしながら、キリスト教信仰においては、全世界のクリスチャンや教会が、ただ一人のキリストと結婚するという概念は、幅広く2000年のキリスト教において伝承されてきた内容なのである。岩村信二著『キリスト教の結婚観』は、次のように述べている。
 「教会がキリストと結婚するという考えは後にカトリック教会の修道院の中で継承されたが、第二コリント11章1~3節によると、それは結婚ではなく婚約であり、真の結婚は再臨の日に成就すると考えられた」(49ページ)

 ちなみに、コリント第二の手紙11章2~3節には「わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである」とある。
 さらに、エペソ人への手紙5章30~32節には、「わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。『それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている」とある。『新聖書注解・新約2』は、この聖句について「私たちはキリストのからだの部分」と述べ、「(キリストは)われわれの救い主となられ……われわれの花婿でもあられる」(529ページ)と注解している。このように、キリストは「花婿」、全世界の信徒や教会は「花嫁」という考え方は、旧約聖書から受け継いでいる内容でもある。イザヤ書61章10節に「主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである」とある。
 さらに、旧約聖書の「雅歌」について、それを神やキリストに対して、信徒は「花嫁」であるという理解の上に立っているものである。ちなみに「雅歌」について、ウィキペディアは「比喩的に解釈して『キリストと教会の関係』を歌う歌である」と述べている。
 さらには、カトリック教会では「堅信式」(注、ローマ・カトリック教会で完全なキリスト教信者とする式)というサクラメントが行われており、その際に、女性信徒は結婚式で頭にかぶるようなベールを纏い、まるで〝婚約〟を象徴するような姿をもって行っている。
 このように、前掲した岩村信二氏が述べるごとく、「教会がキリストと結婚するという考えは後にカトリック教会の修道院の中で継承されたが……それは結婚ではなく婚約であり、真の結婚は再臨の日に成就する」とキリスト教では考えられている。つまり、全世界の教会や信徒は、キリストと〝婚約をした〟というのである。このキリスト教信仰の理解に立って考えると、キリストと信徒の関係は、〝いやらしい関係〟ではなく、キリストと結ばれるという清い関係(注、コリント第二の手紙11章2節)なのである。櫻井氏は、家庭連合の聖酒式に関して、〝下衆の勘繰り〟とでも言うべき歪んだ捉え方をしており、家庭連合を貶めようとしていると言わざるを得ない。これは、伝統的キリスト教信仰に対する〝無知〟から来ている邪推と言えよう。
 「父母の愛の象徴」とは、〝性的な関係〟を持つという意味ではない。「父母の愛の象徴」とは、純粋な〝父母と子女の関係〟なのである。
 なお、初代教会時代においても、イエスが「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければあなたがたの内に命はない。……私の肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる」(ヨハネ伝6・53~56)と語ったことから、クリスチャンは「ぶどう酒」を飲んでいる姿を見て、「赤子の血をすすっている」(参考、ケァンズ著『基督教全史』125ページ)と邪推されたが、同じような誤解を受けている。

(15)「血分け」および「六マリア」批判に対する反論
反対派の〝虚偽情報〟に基づいて批判する櫻井義秀氏
①櫻井義秀氏が「血分け」批判、「六マリア」批判の根拠とする文献について
 櫻井義秀氏は、著書『統一教会』のサブタイトルに「性・カネ・恨から実像に迫る」と銘打っている。彼は、第1章「メシヤの証し―文鮮明とは何者か」の項目で、「血分け」「六マリア」批判を断定的に述べている。その〝根拠〟とするものは何であろうか。彼の書籍の巻末にある「参考文献」(324~326ページ)を見ると、反対派が長年、家庭連合信者を脱会説得するときに用いてきた書籍が多く掲載されている。
 櫻井氏が参考にした書籍を検証すると、そこに書かれた「血分け」「6マリア」批判は、実にデタラメな記述に過ぎないことが明確になる。同氏の論述の問題点は、反対派による「血分け」「6マリア」批判を検証せずに、〝無批判〟にその情報を垂れ流し、記述している点である。
 例えば、櫻井氏が参考文献に挙げた萩原遼著『淫教のメシア・文鮮明伝』には、数多くの〝虚偽内容〟や〝事実誤認〟があり、その点について、太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』(光言社、2008年7月1日刊)の187~203ページで論述している。その書籍出版から15年も経ているのに、櫻井氏はその反論書を研究することさえしていない。これは、学者として怠慢と言わざるを得ない。

②〝虚偽〟に満ちた萩原遼著『淫教のメシア・文鮮明伝』
 前述した『踏みにじられた信教の自由』の187~203ページにかけて、萩原遼著『淫教のメシア・文鮮明伝』がいかにデタラメな内容であるのかを明らかにしている。
 (なお、その詳細については、家庭連合公式ホームページの「お知らせ」欄にある「橋爪大三郎著『日本のカルトと自民党』への反論文を公開」の「(4)元赤旗記者の萩原遼氏の著書『淫教のメシア・文鮮明伝』のデタラメぶり」で、その主要な問題点を指摘しているので、それを読んでいただきたい。また、この反論については、最後の本文欄外の【資料4】として掲載するので、それを参照のこと)
 以下、その反論文の要点を〝抜粋〟して簡潔に述べることにする。ちなみに、反対派は監禁現場において、萩原氏のこの書籍を家庭連合信者に読ませて〝脱会説得〟してきたのである。このデタラメな書籍によって多くの信者が脱会させられたことは寒心に堪えない。
 まず、萩原氏は「1、鄭鎮弘氏の〝推論〟に基づいた論文」を〝血分け〟の証拠として挙げている。しかし、この鄭氏の論文には、明確な証拠は挙げられていない。あくまでも推論に過ぎない。
 『踏みにじられた信教の自由』は、「鄭氏は『「儀礼的性交」がおこなわれたであろうという可能性を完全に排除できない』と推論しているにすぎず、具体的証拠は全くないのである。ところが、萩原氏はそこから一気に飛躍して、血分けの事実が『はっきりと書かれている』というのである。これは捏造とも言える行為である」ことを指摘している。つまり鄭氏の論文は〝推論〟に過ぎず、何の証拠もない。ところが、萩原氏は「血分けの事実が『はっきりと書かれている』」と述べているのである。これは、萩原氏の〝捏造〟である。
 また、萩原氏は「2、元信者の筆記ノート」を〝血分け〟の証拠として挙げている。しかし、これも「血分け」の証拠になっていない。
 『踏みにじられた信教の自由』は、「萩原氏は、『朝日ジャーナル』1978年10月6日号記載の和賀真也牧師の文章を証拠にしている(30ページ)。和賀牧師のニュースソースは元信者の筆記ノートである。そこには、萩原氏が憶測する『文師と肉体関係を持たなければならない』という内容は一切なく、何ら証拠になっていない。しかもそれは、萩原氏が問題にしたがっている〝血分け〟に関するものではなく、あくまでも〝夫婦間だけ(注、祝福を受けた夫婦)〟で行われる(神聖な)『三日行事』について、ある元信者がノートに書きまとめたもの……〝血分け〟の証拠には何らなっていない」
 さらに、萩原氏は「3、名誉毀損となった元信者の証言」を〝血分け〟の証拠として挙げている。しかし、これも〝血分け〟の証拠になっていない。
 『踏みにじられた信教の自由』は、「萩原氏は〝血分け〟に関する内部告発があったとして、金明煕氏(男性の元信者)の発言を証拠としている(34~40ページ)。しかし、金氏はこの件で、韓国の裁判所によって『名誉毀損』などの罪状で裁かれ、1年6か月の実刑に処されている人物である。萩原氏はその事実を知っていながら、あえてそれを証拠としているのである」
 続いて、萩原氏は「4、卓明煥氏の証言」を〝血分け〟の証拠として挙げている。しかし、これも何ら〝血分け〟の証拠になっていない。
 『踏みにじられた信教の自由』は、「萩原氏は〝血分け〟の証拠として、『韓国の研究者(注、卓明煥氏)による研究成果によってあとづけてみよう』(『淫教のメシア・文鮮明伝』44ページ)と述べ、拉致監禁による強制脱会説得の草分け・森山諭牧師の著書と同様に、卓明煥氏の証言を盛り込みながら、独自の論述をしている。……しかしながら、1993年10月27日放送の某テレビ局のワイドショーで、卓明煥氏自らが『統一教会は教理的にはセックス教理だが、今まで実際には証拠がなかった』(朴正華著『私は裏切り者』224ページ)と真相を激白しており、そのような情報をいくら書き綴ったところで、何ら証拠にはなっていない」のである。
 さらに、萩原氏は「5、金景来著『原理運動の秘事』」を〝血分け〟の証拠として挙げている。しかし、これも〝血分け〟の証拠になっていない。
 『踏みにじられた信教の自由』は、次のように指摘する。「萩原氏は事もあろうに、萩原氏自らが『批判に急なあまり……文筆家の守るべき初歩的なルールに反した部分が少なくない』(96~97ページ)と批評している金景来著『原理運動の秘事』をその証拠として挙げている。自らが〝問題あり〟とする書から、わざわざ引用している萩原氏自身にこそ、問題ありと言わざるを得ない。しかも萩原氏は、金景来氏の著書を引用しながら、そこで改竄とも言える行為をしている。萩原氏は、『(文師は平壌で)広海教会という名称の教会を建て、その中心に納まった』(64ページ)と書いているが、金氏の著書には、『文師が広海教会の中心に納まった』とは、どこにも書いていないのである
 「以上のように、改めて検証してみると、萩原氏が証拠として挙げているものは、すべて証拠になっていない。これでは、萩原氏の論述のすべてが〝捏造〟と疑われても仕方がないのである」
 ところで、『淫教のメシア・文鮮明伝』には、「6、萩原氏の驚くべき事実誤認」が滔々と書かれている。
 『踏みにじられた信教の自由』は、次のように指摘している。「萩原氏の著書にはさらに驚くべき〝事実の捏造〟がある。実は、萩原氏は、文師が李龍道牧師から直接〝血分け〟を教わったかのように書いているのであるが、李龍道牧師は、文師が故郷・定州におられた13歳の時、すでに客死しており、2人は直接会ったことはない。……萩原氏は、まるで文師が李龍道牧師と直接会ってでもいるかのように滔々と書き連ねている。ここで、萩原氏は〝完全な創作〟をし、すでに死んでいる李龍道牧師が生きているものとして〝事実を捏造〟しているのである。これでは、萩原氏の著作全体に信憑性がないことが強く疑われても致し方ないことである」
 「萩原氏は、日本共産党機関紙『赤旗』の元記者である。如何に『赤旗』の元記者であろうと、〝事実を捏造〟することは許されることではない。この著書が出版された1980年ころは、日本共産党が連日、『赤旗』で統一教会を誹謗中傷していた時期である。統一教会に対して敵意を抱いていた萩原氏は、その延長上で、言わば『初めに結論ありき』の立場から〝血分け〟の中傷をしているのである。客観的証拠が一切なく、ただ悪意から書かれた〝虚偽の内容〟の悪本を用いた脱会説得によって、家庭連合信者が脱会させられてきた事実は、極めて遺憾である」
 すなわち、萩原氏は李龍道牧師が生きていたかのように述べ、〝完全な創作〟をしており、〝事実を捏造〟しているのである。萩原氏は、文筆家として失格者であると言わざるを得ない。
 なお、これらの詳細については、前述したように家庭連合公式ホームページの「お知らせ」欄にある「橋爪大三郎著『日本のカルトと自民党』への反論文を公開」を読んでいただきたい(https://ffwpu.jp/wp-content/uploads/2023/05/3e2e9ddf588addb19a0943a6c7849041.pdf)。

 ③反対派に乗せられて書いた朴正華著『六マリアの悲劇』の真相
 櫻井義秀氏は「参考文献」として、朴正華著『六マリアの悲劇』(恒友出版、1993年11月4日刊)および韓国語訳の『野録・統一教會史』(큰샘출판사 1996年3月1日刊)を挙げている。実は、この書籍は、著者の朴正華氏自身がその内容は〝虚偽〟であったとして撤回している書籍である。朴氏は、文鮮明師に対して〝逆怨み〟をいだき、文師を貶めようという動機から『六マリアの悲劇』を出版したのであった。しかし、その約2年後、悔い改めて『私は裏切り者』(世界日報社、1995年11月1日刊)を出版して真相を激白しているのである。そして、朴氏は『私は裏切り者』の出版会を開き、日本各地を巡回して、涙ながらに悔い改めの証しをしている。すなわち、朴氏自身が悔い改めて『六マリアの悲劇』は〝虚偽〟であったと述べ、撤回している。このことは、反対派にとって、脱会説得に用いていた書籍であり、その効果が極めて薄いものとなることを意味している。おそらく〝巻き返し〟を図ろうとして著者の朴氏の許可を得ず秘密裏のうちに、反対派が主導して韓国語訳の書籍が出版された。それが『野録・統一教會史』である。この書籍の出版年月日が『私は裏切り者』より新しいのは、そのためである。しかし、自分を差し置いて韓国語訳の書籍が出版されたことを知った朴氏は、韓国で「出版差し止め」の訴訟を行っている。つまり、『六マリアの悲劇』の内容は〝虚偽〟であることを著者本人が告発しているのである。
 ところが、櫻井氏は、朴正華著『私は裏切り者』が出版されていることを知っているにもかかわらず(36ページ)、参考文献の中には『私は裏切り者』を挙げていない。一方で、著者自身が撤回した『六マリアの悲劇』『野録・統一教會史』を恥も外聞もなく「参考文献」の324ページに挙げているのは、真実から目を背ける〝偏った姿勢〟の現れに他ならない。
 櫻井氏の「血分け」「六マリア」批判は、反対派による〝虚偽情報〟の垂れ流しに過ぎず、〝結論ありき〟の立場から論述しているものと言わざるを得ない。悔い改めた朴氏が真相を明らかにした『私は裏切り者』の著作から、著者の〝心の変遷〟の要点を以下、抜粋することにする。
 「当時(1993年)、日本では、韓国で行われた3万双国際合同結婚式以来、統一教会に異常な関心が集まっていた。そこに、教会の草創期を先生とともに歩んだ男が、『真のサタンは文鮮明だ』と銘打って、ありもしない先生の『セックス・スキャンダル』をブチ上げたのだから、これは一大事件である。統一教会批判のネタ漁りに余念のない反統一教会ジャーナリストが、黙って指をくわえたまま放って置くはずがない。たちまち私は、〝統一教会バッシング〟に便乗、相乗りした週刊誌やテレビ・ワイドショーの寵児となってもてはやされた。なぜ、大恩ある先生をマスコミに売るような信義に悖ることをしたのか。それは先生に対する憎しみ、抑えることの出来ない私憤のためである。私は『六マリアの悲劇』を、先生と差し違える覚悟で書いた。先生の宗教指導者としての生命を断ち、統一教会をつぶして俺も死ぬ、そんな破れかぶれな気持ちだった。だから、ありもしない『六マリア』までデッチあげたのである。昔から宗教指導者を陥れるためには、セックス・スキャンダルほど効果的なものはない。聖なるものを泥まみれにして叩きつぶすには、その最も対極にあるセックス・スキャンダルほど有効な手段はない。そのことは誰もが知るところで、私もその卑劣な手段に手を染めた。……こんな時に限ってよくしたもので、日本の出版社から〝おいしい〟出版話が持ちかけられた。金に困っていた当時の私には、願ってもない話だった。『朴先生の本だったら20万部は売れますよ』と。〈定価1500円の印税10%、一部につき150円で、20万部だと3000万円(韓国のウォンで約2億1000万ウォン)が手に入る計算になる〉と、ついその気になり、とんでもない本を出してしまった」
 「朴正華氏は、〝個人的恨み〟を晴らそうとする動機から『六マリアの悲劇』を出版しようとした。ところが、その本を、心ない一部の反対派の人たちに悪用され、しかも自分を出し抜いて、(韓国語訳の書籍を出版しようと)本人の知らない水面下で家庭連合に〝脅迫まがい〟のことをしているのを知って興ざめしたというのが、朴正華氏が悔い改めた第一の理由だったのである。おそらく、孤独な自分の味方だと思っていた反対派からの、いわば『裏切り行為』に遭い、統一教会にいたときに感じた『愛の減少感』以上の疎外感や空虚感を感じたのであろう。もちろん、そこに至るまでには、嘘をついてしまったことに対する良心の呵責から来る『後ろめたさ』と、安炳日氏の、心温まる〝心のケア〟があったのは言うまでもない」
 このように、悔い改めた朴氏自身が〝心の軌跡〟を述べているのである。ところが、櫻井氏は、著者本人が撤回している書籍だけを引用しているのは、正に人の心を踏みにじる行為であり、卑劣であると言わざるを得ない。
 (なお、これらの詳細については、家庭連合公式ホームページの「お知らせ」欄にある「橋爪大三郎著『日本のカルトと自民党』への反論文を公開」の「(5)反対派に乗せられて書いた朴正華著『六マリアの悲劇』の真相」の部分を【資料5】として、最後の本文欄外に引用資料として掲載する。それを読んでいただきたい)

④浅見定雄氏の『統一協会=原理運動 ― その見極めかたと対策』の〝血分け〟記述の虚偽
 浅見定雄氏は『統一協会=原理運動 ― その見極めかたと対策』で、「48年2月には、ある実業家の人妻との『強制結婚』の現行犯となり、興南刑務所で懲役5年(または5年半)の実刑(相手の人妻も10ヶ月の実刑)に服する。文のセックス教祖ぶりの初めである。(統一協会側はこれらの事件を共産主義権力の謀略だったと抗弁するが、かれの罪名は共産主義への『反乱罪』でも何でもなく、簡単明瞭にセックスに関するものである)」(72ページ)と述べている。これは、浅見氏のデタラメな主張である。
 1948年2月22日、文師は北朝鮮・内務省に連行され、拘束されたが、この事件に関して、当時、行動を共にしていた金元弼氏は次のように証言している。
 「48年の2月22日の日曜日でしたけれども、官憲がやってきて、先生の牢屋の生活が始まっていくのです。日曜日には10時に礼拝が始まります。その2時間前に来てお祈りの準備をしていました。食口たちが相当来ていたのですが、官憲たちが入ってきました。……先生が連行される時に、私は先生の隣を歩きました。電車の通る市街を通りかけた時でした。色々な音がするのですけれども、私の耳には、先生をやゆする声が聞こえてきました……そのようにして、先生と私と女性食口2人(総計4人)が共産党当局の内務省に連れて行かれました。女性食口は2日目に拘束が解け、私は4日目に出獄しました。先生だけを残すようにして、ついていった人は全部帰ってきたのです(『伝統の源流』光言社、71~72ページ)
 浅見氏は、「ある実業家の人妻との『強制結婚』の現行犯となり、興南刑務所で懲役5年(または5年半)の実刑(相手の人妻も10ヶ月の実刑)に服する。文のセックス教祖ぶりの初めである」と述べるが、10カ月の実刑判決を受けた人妻など存在しないのである。浅見氏は「人妻との『強制結婚』の現行犯」と述べるが、この日は神聖な礼拝が行われる日であり、信徒らは敬虔な祈りを捧げながら礼拝を準備していたのが真相である。これは、浅見氏の〝創作〟である。
 また、浅見氏は同著で「ここでも文は、いわゆる『梨花女子大事件』のような凄まじいセックス事件を引き起こす」(72~73ページ)と述べている。
 しかし、「梨花女子大事件は、兵役法違反で起訴された事件であり、『セックス事件』などではない」(橋爪大三郎氏への反論文より)のである。「梨花女子大事件の真相を『受難の現場』(光言社)がまとめている。当時、世間を賑わせたこの事件を、新聞は頻繁に記事として報じている」(同)、「梨花女子大事件は、兵役法違反で起訴された事件であり、浅見定雄氏が述べる『セックス事件』ではない。また、山口浩氏(注、ジャーナリスト)が述べる『血分けをされた事実』という『姦通嫌疑』自体がなかった裁判である。しかも、起訴された兵役法違反においても、文師は無罪であった。これが真実である」(同)
 以上のように、浅見氏が述べる「血分け」批判は、その真相を調べるとデタラメな内容なのである。
 (なお、これらの詳細については、家庭連合公式ホームページの「お知らせ」欄にある「橋爪大三郎著『日本のカルトと自民党』への反論文を公開」の「(1)文師の北朝鮮での2度の拘束事件における『血分け批判』の〝虚偽〟」「(2)梨花女子大事件に関連した『血分け批判』の〝虚偽〟」の部分を【資料6】として、最後の本文欄外に引用資料として掲載する。それを読んでいただきたい)

⑤証拠なしに「血分け」批判を語っていた卓明煥氏
 櫻井義秀氏は、参考文献として卓明煥氏のいくつかの著書を挙げているが(324ページ)、卓氏自身が「実際には証拠がなかった」と語っているのが真相である。
 「1993年10月27日放送の某テレビ局のワイドショーで、卓明煥氏自らが『統一教会は教理的にはセックス教理だが、今まで実際には証拠がなかった』(朴正華著『私は裏切り者』224ページ)と真相を激白しており、そのような情報をいくら書き綴ったところで、何ら証拠にはなっていない。ちなみに、このワイドショーに一緒に参加した36家庭の元信者・劉孝敏氏が、番組で〝血分け〟を否定したことを朴正華氏は次のように書いている。
 『テレビでは、「血分け」の話がでてきたので、36家庭の劉孝敏氏に注目が移り、劉氏の妻が文氏とセックスをして「血分け」をしたのか、という(司会者の)質問が出た時は緊張した。……大方の期待を裏切って、劉氏は「血分け」を否定した。自分たち(劉孝敏氏夫婦)が祝福を受けたとき、文先生との「血分け」はなかったといったのである』(同、223ページ)」(橋爪大三郎氏への反論文より)
 卓氏は「血分け」批判の草分け的存在である。同氏が「実際には証拠がなかった」と平然と述べること自体、「血分け」批判が〝でっち上げ〟から始まったことを如実に物語っている。
 (なお、これらの詳細については、家庭連合公式ホームページの「お知らせ」欄にある「橋爪大三郎著『日本のカルトと自民党』への反論文を公開」の「④ 卓明煥氏の証言」の部分を【資料7】として、最後の本文欄外に引用資料として掲載する。それを読んでいただきたい)

⑥反対派が深く関わって出版された洪蘭淑著『わが父 文鮮明の正体』
 櫻井義秀氏は「参考文献」として『わが父 文鮮明の正体』を挙げている(324ページ)。この書籍は、長年、拉致監禁による強制脱会説得に関わってきた宮村峻氏の手が加えられて出版されているものである(同著、305ページ)。
 宮村氏が関与した拉致監禁事件による脱会説得事件は、後藤徹氏の12年5か月の監禁被害が代表的な事例である。反対派は、監禁された家庭連合信者の脱会説得のために、この書籍を用いてきたことを考慮する必要がある。すなわち、この書は、純粋な意味での「身内からの告白」ではないことを理解しておかなければならない。出版の意図は、どこまでも家庭連合を貶めようとする悪意に満ちたものであると言わざるを得ない。
 実際、この洪蘭淑氏の著書には、同氏が知る由もない日本の諸事情まで書かれている。これは、反対派の手が相当程度、加わっているということを示唆するものと言える。
 ところで、「夫婦喧嘩は犬も食わない」と言われるが、破局してしまった夫婦関係(孝進氏と蘭淑氏)の〝いざこざ〟に関して、離婚後に片方が述べた批判だけを取り挙げるなら、それは偏ったものになるものと言わざるを得ない。洪蘭淑氏はこの書で、大筋の言い分として〝文孝進から虐待を受けていた。その虐待に耐えかねて、自分は自宅を出た。文鮮明の家庭は理想家庭ではなく、文は詐欺師だ〟ということである。
 もしそうであれば、洪蘭淑氏は、なぜ1982年1月に結婚した後、家を出る1995年8月8日までの13年7か月もの長期間にわたり、孝進氏の妻であり続けられたのかという素朴な疑問が残らざるを得ない。
 また、孝進氏が、蘭淑氏の言うほどの〝問題人物〟であったならば、その長男の信吉氏が、自分の意志で両親を選択できる年齢になったときに、なぜ母親の蘭淑氏ではなく、父親の孝進氏と一緒に住むことを願ったのか疑問が生じざるを得ない。(注、ただし信吉氏は、その願い叶わずして、その直前、交通事故で亡くなってしまった)
 信吉氏は父・孝進氏のことが大好きであり、生前、文の姓を名乗って生活していたほどである。それは、父と一緒に住みたかったためである。また、子女たちの多くは、母・蘭淑氏より、父・孝進氏のほうを好んでいることを自覚していた蘭淑氏は、彼女の書籍のなかで「彼らのひとりが、統一教会にもどりたいと言い出すときがくるかもしれないことを、私は覚悟している」「信吉やその兄弟のだれかが大人になったとき、(文師らが住む)『イーストガーデン』に引き戻されることがないように祈っている。もしそうなったら、私は悲しく思うだろうが、それを受け入れるだろう」(298〜299ページ)と、自分は寛容精神をもっていることを述べている。
 ここで、「引き戻される」という抽象的な表現になっているが、これは〝誘拐〟〝買収〟といった強制的な方法ではなく、本人の意志で決められる年齢になった時、その子女の多くが孝進氏を慕っているため、自分のもとを離れることを踏まえて語っているのである。
 また、彼女の両親は、古参信者(36双)の中の一組であったが、1990年夏頃の家庭連合内の人事異動の問題を巡る不満をきっかけに、信仰を失って、洪蘭淑氏よりも先に脱会していた。彼女の著書には、1995年8月に自宅を出るときの状況や心境が、次のように記されている。
 「私(蘭淑)の両親も統一教会を去っていた。私自身の家族のなかでもっとも身近な人びとが、いまや危険な道(統一教会)の外にいることが、私に出ていくのをたやすくした」(261ページ)
 ならば、洪蘭淑氏が述べるように孝進氏が問題人物であるならば、彼女はもっと早く脱会していてしかるべきであったのではなかろうか。結局、洪蘭淑氏は家庭連合および文鮮明師・韓鶴子総裁が信じられなくなったため、自宅を出たものと考えられる。子供たちが慕っていたのは孝進氏なのである。
 繰り返すが、この書籍は、洪蘭淑氏自身の〝発言〟という体裁を取りながら、家庭連合信者の信徒を脱会説得するために反対派の手が深く関与して出版された書籍なのである。事実、拉致監禁被害者の証言によれば、監禁現場でこの書籍を読まされたと証言している。
 その事実を踏まえておかなければならない。この書籍は、蘭淑氏側だけの一方的な主張に他ならず、厳正中立なものではないと言わざるを得ない。

⑦櫻井義秀氏による、文亨進氏、西川勝氏、丁得恩氏の記述の問題点
 櫻井義秀氏は著書『統一教会』で、「文鮮明の七男・文亨進は、メシヤが聖婚をなす条件として『六人のマリア』を迎えたことも含めて実際にあったことであり、原理的にそうせざるをえないのだから何ら恥ずべきことではないと述べている」(182ページ)と指摘している。
 しかしながら、文鮮明師自身は〝血分け〟〝6マリア〟はないとして、次のように語っている。「『6マリヤ』だなんだという朴正華の言葉は、すべて嘘です。うわさになったことを勝手につくり上げて、ありとあらゆることをしたのです」(マルスム選集306-241、1998年9月23日)
 「統一教会の先生の息子娘を〝たちの悪い人間〟に仕立てようとする人々は、堕落した人々です。統一教会から追い出された人々が友人をつくり、そのような人(元信者)を立てることによって、生き残れる道があるといって、ありとあらゆる話をみな作るのです。何ということですか! 私も知らない『6マリヤ』の話、先生が女性たちを中心としてありとあらゆることをする(血分け)という話、ありとあらゆる話を想像して、しゃべったのです」(マルスム選集462-219、2004年8月21日)
 「統一教会に反対する人たちは〝血分け〟だと言って、文総裁が女性たちを強制的に蹂躙してしまうと言っているのです。……皆さんの妻を、私が手首でも一度、握ったことがありますか? ……皆さんが息子・娘のように何十年、先生についてきながら喜んでいるではないですか。そのようなこと(血分け)をしないから、そうなのです」(マルスム選集543-83、2006年10月26日)
 「統一教会の秘密だと言って、何ですか、(反対派は)〝血分け〟だと言っていますが、……ありとあらゆるうわさをして、騒ぎ立てて。そのように、(彼らは)うそをついたので、反対している既成教会自体は、目を開けて(正しく)私たちの教会を見ることができないのです。文総裁が何か罪を犯しましたか?」(マルスム選集566-93、2007年6月15日)

 以上のように、文鮮明師自身が〝六マリヤは存在しない〟〝血分けは存在しない〟ことを明言しているのである。これらの点について、「真の父母様宣布文サイト」に2016年2月3日から数回にわたって掲載している(https://trueparents.jp/?page_id=1900)。
 文亨進氏は、文鮮明師を救世主と信じていると言いながら、なぜ文鮮明師が語った言葉を信じようとしないのか?大いに問題を感じざるを得ない。文亨進氏は、1979年9月26日生まれである。事実として、「血分け」や「六マリア」があったのかどうかを知る由もない年齢であると言わざるを得ない。すなわち、金明煕氏(注、男性の元信者)が、かつて1970年代に「血分け」批判をしていたため、名誉毀損裁判が行われ、金明煕氏は1979年2月2日「名誉毀損」で1年6か月の実刑判決を受けている。文亨進氏はその判決よりも後に生まれている。〝血分け〟が存在しないことは裁判を通じて明確になっているが、文亨進氏は、反対派の批判に踊らされ、その「名誉毀損」の罪に問われた事実を踏まえない(あるいは知らない)で語っているものと考えざるを得ない。
 古参信者の一人で、反対派から六マリア(六人のマリア)の一人とされる姜賢實氏は、晩年になって、文亨進氏の率いるサンクチュアリ教会に所属するようになってしまった。その姜賢實氏自身が2017年1月8日、サンクチュアリ教会メンバーからの「六マリアの意義、先生はその一人ですから、よく知っていらっしゃるでしょう?」との質問を受けて、彼女は「私は(六マリアを)知らない。私はよく知りません。韓国でも六マリアの話、絶対していません。六マリアって言っても分からないですよ。昔の食口(信者)でもよく分からないですと回答し、六マリアは存在しない事実を明確に証言している。反対派が〝六マリアの一人である〟と述べている姜賢實氏自身が、六マリアを否定しているのは〝重大証言〟である。
 次に、櫻井氏は「2006年8月、私(注、櫻井氏)は来日した崔奉春に東京都内で統一教会のある幹部を通してインタビューすることができた。その際、『血分けは事実か』と尋ね、『私(注、崔奉春氏)はしなかったが、このことは妻の申美植から聞いた』と返答を得た」(50ページ)と述べている。36家庭の崔奉春氏の〝重要な証言〟になる部分は「私はしなかった」というところにこそある。それ以外は、何の根拠もない伝聞でしかない。その他、脱会して反対派の活動に加担している36家庭の元信者・劉孝敏氏も「血分け」を否定している。彼もまた、「自分たちが祝福を受けたとき、文先生との『血分け』はなかった」(朴正華著『私は裏切り者』223ページ)と証言しているのである。崔奉春(西川勝)氏も同じように否定した。36家庭の証言として、この点こそが重要なのである。
 さらに、櫻井氏は、次のように述べる。「丁得恩は神の血を分けるということで3人の男性の信徒と性交を行いさらにその男性信徒がほかの女性信徒と性交した。……丁得恩から何代目かで血分けを受けた人物に、後に天父教を創始した朴泰善や、文鮮明がいるとされる」(25ページ)
 ところが、金景来氏の批判書『原理運動の秘事』を読むと、丁得恩氏は血分けを「文鮮明から授かった」(46ページ)としているにもかかわらず、元赤旗記者の萩原遼氏が書いた『淫教のメシア・文鮮明伝』は、「丁得恩によって(血分けが)統一教の文鮮明……に伝授された」(63ページ)とあり〝真逆〟のことが述べられている。これは、反対派の批判がいかにデタラメであるかを裏付けるものと言える。ちなみに、「新興宗教批判者たちは、統一教会のことを語る時に、しばしば朴泰善氏の伝道館運動と何か関連があるように、一緒にして非難する傾向があるが、実際何の関連もないばかりか、文鮮明先生はまだ一度も朴泰善氏と会ったことがない」(『受難の現場』341ページ)のである。
 ところで、朴正華氏は『私は裏切り者』の中で、丁得恩氏に対して次のように証言している。『六マリアの悲劇』に書いた「『丁得恩はとりあえず、南のほうへ探しにいったところ、……、文鮮明が下になり、丁得恩はその上に乗って、蘇生、長成、完成の3回のセックスを行った。……余りにもうまく出来すぎた話だか、文鮮明の片腕の立場にあった当時の私は、ただ驚くばかりで感動していた』などと書いているが、このような事実はない(262ページ)と真相を激白している。つまり、丁得恩氏との「血分け」自体がなかったというのである。
 このように見ていくと、櫻井氏は何の検証もせずに批判情報(風聞)の〝垂れ流し〟をしているに過ぎず、彼の述べることは、極めてデタラメであり、無責任な主張と言わざるを得ない。

⑧その他、反対派から〝六マリア〟と目される女性の真実
 その他、反対派の言う〝六マリア〟と目される女性について、文鮮明師は次のように語っている。この点について、すでに「橋爪大三郎氏への反論文」で明らかにしている。以下、そこから抜粋する。
 「『崔元福が統一教会において女性を代表して苦労したのです。今回の裁判事件(青春を返せ裁判)のゆえに、崔先生の名前が完全に肥溜めに落ちたようになりました。文社長まで(性関係があったと)そのように考えなかったですか。文社長!(『はい』)崔先生が全部、誤ったと考えたでしょう。率直に話してみなさい。(『確定的に崔先生が間違ったというよりも……』)そのような話はやめて答えだけいいなさい。みんな知っていることです。(『はい。疑いました』)疑うというより、そのように思っていたじゃないですか。私に対しても何回も話をしませんでしたか。私が「違う」といったのにです(マルスム選集170-302、1987年12月4日)
 文師は、反対派のいう『文鮮明と崔元福との間で〝性関係〟があり、隠し子までいる』という風聞に対し、そのような事実はないことを明確に語っておられる。
 また、祝福家庭の〝核心メンバー〟である3家庭の夫人に対しても、文師は次のように語っておられる。
 「史吉子さんも、『原理講論』を中心として、『覚えて何々をしなければならない』と言っていますが、それは『原理講論』です。実体はどこに行きましたか? 自分はかかしのようなことをしているのです。かかしに頼って生きるのではありません。……主人になろうと史吉子さんも考えるでしょう? 『本体』である真のお母様以上の位置に立とうという話です。自分が、お母様のように堕落していない本然の息子、娘を生むことができますか? それは真の父母の種を受けて一体圏にいなければ不可能です。永遠にありえないことだというのです」(「ファミリー」2009年1月号、48ページ)
 文師は、3家庭の史吉子氏に対して、「真の父母の種を受けて一体圏」になったことのない人が「真のお母様以上の位置に立とう」と考えることがあったとしても、それは永遠にできないことだと語っておられる。さらに「本然の息子、娘を生むことができますか?」とも語っておられる。
 このように、文師は、史吉子氏が、文師との関係において、性関係がなかったことを、みんなの前ではっきりと語っておられる。前述したように、元信者の36家庭の劉孝敏氏も、〝血分け〟がなかったことを証言しており、反対派が長年言い続けてきた「最初の3組と33組は、実際に文鮮明の血分けを受けたと指摘されている」(川崎経子著『統一協会の素顔』235ページ)という批判は、何の根拠もない中傷にすぎないのである。

⑨文鮮明師のみ言:「六マリア」「血分け」は存在しない
 「橋爪大三郎氏に対する反論文」の中で、次のような文鮮明師や韓鶴子総裁のみ言を紹介しているので、以下、転載する。
 「堕落とは何ですか。神様の最も貴いものを盗んだのです。悪魔の行為です。最も貴いものとは何かというと、愛と生命と血統ですが、これを汚したというのです。ですから、歴史時代において神様が最も嫌うものは淫乱です。……人類が世界的に淫乱の風に巻き込まれていくときは、鉄槌が加えられるのです。教団がそのようになるときは、教団が滅びていき、国がそのようになるときは国が滅びていき、歴史がそのように誤れば、その歴史の方向がみな壊れていくのです」(天一国経典『平和經』445ページ)
 また、韓鶴子総裁も文師について次のように語っておられる。
 「キリスト教が私の夫(文鮮明師)と一つになっていたなら、地上世界はもちろん、天上世界までも天国を成したはずです。新約時代が終わる1945年から1952年までの7年間に、神様の摂理に従って全世界が一つに統一されていたはずです。彼ら宗教指導者は、私の夫と一つになることはおろか……話を聞くこともせず、盲目的に反対しました。甚だしくはうそまでつきました。彼らは人格を抹殺しようとして、私の夫の教えとは正反対の淫乱の教祖と強欲の中傷を広めたのです」(天一国経典『平和經』961ページ)
 さらに、文師は16万訪韓セミナーにおいて、次のように語っておられる。
 「今も独りで結婚しないでいる女性もいます。『祝福を受けるように』と言っても、祝福を受けないのです。『自分は先生を慕った者です。誰と結婚するのですか』と言って、大変です。もし、先生がキスでも握手でもしてあげたら、大変なことになります。これはもう間違いなく、『関係を持った』と言う人(女性)が出てくるのです。そういう環境を通過しながら、よくも女に引っ掛からないでここまで来たものです。……もし先生がキスでもしてあげたら大変です。握手でもしてあげたら、それを条件としてどんなことでも引っ掛けてきます。ですから、……(韓鶴子総裁が)お母様として立つまでには、相当な心の苦労があったということを知らなければなりません。……『原理』を知らなければ大変なことになるのです。統一教会という存在もなくなってしまいます。正しく『原理』を知っているから、そういうことをコントロールしてきたのです。……でなければ、(女性を対象とする)こういう集会などできないのです」(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』287~288ページ)
 以上のように、「6マリヤ」や「血分け」という反対派による中傷と違って、文師は、軽々しく女性の手さえも握ってこなかったと語っておられる。これらの内容で分かるように、文師ほど〝純潔〟を重要視され、〝貞操〟を生命視してこられたかたはいない。
 さらに、文師は「天法三ヶ条」という最も重要な天の鉄則を、三つ挙げておられる。
 「今から、守るべき鉄則とは何かというと、一番目は、いかなる死ぬような出来事があったとしても、血統を汚してはいけない、ということです。……二番目は、人事処置を間違ってはいけないのであり、人権を蹂躙してはいけない、ということです。……三番目は何かというと、公金を盗んではいけない、公金を自分勝手に使ってはいけない、ということです。この三つです」(『ファミリー』2001年3月号、44~45ページ)
 どこまでも、血統の重要性を強調するのが文師である。事実、文師は祝福家庭に対して、次のように語っておられる。
 「原理からすれば、一人の男(メシヤ)二人の女とつきあうことはできないから、……(祝福を受ける女性の)旦那さんを、アダムを、接ぎ木して、ハンダ付けしてつくってあげるのです。先生は完成された旦那さん(真のアダム)の立場ですから、弟の立場、第二番目のアダムをつくるのです。あなたたちの旦那さんたち、天使長(祝福を受ける男性)を連れて来て、昔16歳の時に堕落した、その堕落前の基準が残っているから、そこに完成されたアダムの勝利の実体を接ぎ木するのです」(『祝福』1994年春季号、26ページ、1994年1月2日)
 「生殖器が、なぜ生まれたのでしょうか? 愛のため、生命のため、血統のため、良心のために生まれたのです。生殖器を通さずしては、愛も生命も血統も良心もないのです。……男性の生殖器は、男性のために生まれたのではありません。……それがだれのためのものであるのかといえば、女性のためです。ひとえに主人は、一人の女性です。二人ではありません。絶対に主人は一人です
 神様は、そのようなたったひとつの目的のために創造されたので、それを変えることはできません。男性の生殖器の目的は、永遠に唯一絶対の一人の女性のために存在し、女性の生殖器は、永遠に、唯一絶対の、一人の男性のために存在します。それは根本的公式であり、どんな力をもってしても変えることはできないのです。……男性の生殖器は、だれと一つになるようにできているでしょうか? 妻とです。単に女性というのではなく、妻とです。永遠に、たった一人の妻とだけです」(『ファミリー』1997年4月号10~11ページ、1997年2月13日)
 「男性の生殖器の目的は、永遠に唯一絶対の一人の女性のために存在し、女性の生殖器は、永遠に、唯一絶対の、一人の男性のために存在します。それは根本的公式であり、どんな力をもってしても変えることはできないのです」という教えは、『原理講論』にも重要な教訓として、次のように述べられている。
 「篤実な信仰者たちが、アダムとエバの堕落直前の心霊基準まで成長して霊通すれば、アダムとエバが克服できずに堕落したのと同じ試練によって、堕落しやすい立場に陥るようになる。したがって、原理を知らない限り、このような立場を克服することは、非常に難しいことなのである。今日に至るまで、多くの修道者たちが、この試練の峠を克服できずに、長い間修道した功績を一朝一夕に台無しにしたことは、実に惜しんでもあまりあることである」(222ページ)
 このように、男女問題は「功績を一朝一夕に台無しに」し得るほど大きな問題である。家庭連合は、どこまでも〝純潔〟〝貞操〟を守るというのが教えの真髄である。

 これらの事実を見ていくと、櫻井氏が根拠として述べているものはすべて証拠になっていないものばかりである。彼は、何を根拠に〝断定的〟に述べるのかが不明瞭であり、〝証拠偽証〟とさえ言ってもいいぐらいの内容である。
 (なお、これらの詳細については、家庭連合公式ホームページの「お知らせ」欄にある「橋爪大三郎著『日本のカルトと自民党』への反論文を公開」の「⑤文師の発言:『6マリヤ』『血分け』は存在しない」の部分を【資料8】として、最後の本文欄外に引用資料として掲載する。それを読んでいただきたい)

(16)文師のみ言や家庭連合の教理から見ても「血分け」「六マリア」は存在しない
 家庭連合には、過去においても、現在においても、また今後の未来永劫においても、「血分け」「六マリア」なるものは存在しない。この点は、文鮮明師のみ言および教理の側面から見ても、「血分け」「六マリア」が存在しなければならない理由も根拠もまったくないのである。この教理的理解の詳細については、家庭連合公式ホームページの「お知らせ」欄にある「橋爪大三郎著『日本のカルトと自民党』の〝虚偽〟」の「二、反対派による『血分け』の言説の〝虚偽〟――反対派の誤った『統一原理』理解」で、すでに〝文鮮明師のみ言および教理の側面から見ても、「血分け」「六マリア」が存在しなければならない理由も根拠もまったくない〟点について論述している。
https://ffwpu.jp/wp-content/uploads/2023/05/3e2e9ddf588addb19a0943a6c7849041.pdf

 ところで、イエス様は、ヨハネの福音書8章44節で「あなた方は自分の父すなわち、悪魔から出てきた者であってその父の欲望どおりを行なおうと思っている。……彼(悪魔)は偽り者であり、偽りの父である」と述べている。このようにイエス様は、天使と堕落人間とが血統的な関係を持っているということを示唆している。ところが、肉身を持たない霊的存在である天使長が、いかにして人間と血統が繋がり得るのだろうか?これは2000年のキリスト教において、誰も解けなかった神学的〝難題〟である。この難題を解き明かしたのが文鮮明師である。以下、「橋爪大三郎氏への反論文」から抜粋する。(注、以下、抜粋した文章のため〝小見出し〟番号が、通し番号になっていないことに留意。抜粋ではなく、詳細を読みたい方は、上記URLから「二、反対派による『血分け』の言説の〝虚偽〟――反対派の誤った『統一原理』理解」をお読みいただきたい)

 ②人間は堕落によって、どのようにサタンの血統につながったのか?
 ……(中略)……
 文師は次のように語っておられる。
 「愛には、縦的愛と横的愛があるのです。父子関係は縦的愛であり、夫婦関係は横的関係です。縦的愛は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません(『文鮮明先生の日本語による御言集・特別編1』17~18ページ)
 文師は、「夫婦関係は血統的につながりません」と述べているが、(エデンの園の)霊的堕落におけるエバと天使長ルーシェルとの関係は、あくまでも〝偽りの夫婦関係〟であり、血統はつながらないのである。(補足、反対牧師は「霊的存在である〝子供を生むことのできない〟天使長と、人間とがどうやって血統がつながるのか?つながるはずがない。堕落論は根本的に間違っている」と言って脱会説得してきた)
 この天使長ルーシェルがサタンとなったのであるが、天使長は霊的な存在であり、肉体を持っていない。そのため、霊的堕落の時点で、人間と血統的につながりようがない。では、どうやって人類は、サタンの血統に結ばれたのであろうか。サタンの血統になったことを、悪なる「血統転換」という。
 文師は、次のように語っておられる。
 「堕落の責任は、サタンを中心としてエバから始まり、アダムに移りました。すなわち、(霊的堕落によって)偽りの生命の種を受けたエバの立場からすれば、神様に代わってサタンが父の位置でエバと一体となって、アダムを生んだ立場となり堕落がなされました。こうしてエバは、天使長とアダムを各々父と息子のような立場に立てて堕落した(天一国経典『平和經』908ページ)
 ここで、文師が「エバは、天使長とアダムを各々父と息子のような立場に立てて堕落した」と語っているように、堕落エバとアダムの肉的堕落(=肉体関係)によって、天使長とアダムが「父と息子」(=偽りの父子関係)の立場となり、〝偽りの血統〟がつながったのである。肉的堕落は、偽りの関係であっても〝偽りの父子関係〟という縦的愛の関係を結ぶことで〝偽りの血統〟がつながったのである。すなわち、「父子関係は縦的愛であり……縦的愛は血統的につなが(る)ことで、人間は偽りの父(=サタン)と血統的につながったというのである。それゆえ、イエスは「彼〈悪魔〉は偽り者であり、偽りの父である」(ヨハネ8・44)と語っているのである。この肉的堕落によって、〝サタン側への血統転換〟が起こり、人間始祖はサタンと血統的につながったのである。……(中略)……
 神側への「血統転換」はいかになされるか?
 文師は『平和神経』で次のように語っておられる。
 「生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです」(28ページ)
 前述したとおり、肉的堕落によって、堕落エバがアダムを〝サタンの息子〟の位置に生み変えたとき、彼女は〝偽りの母〟の役割を果たしたのであった。ゆえに、肉的堕落における、堕落エバと堕落アダムの関係は〝偽りの母子関係〟である。エバは、悪なる「母子協助」をしたというのである。堕落エバもまた、このとき偽りの母子関係という〝縦的愛の関係〟によって、サタンの血統につながったのである。
 したがって、神側に血統転換するとき、女性が〝母親の役割〟を果たして男性を生み変えなければならない。サタン側への血統転換は、あくまでもエバとアダムの肉体関係、すなわち肉的堕落によって起こったので、それを元返すための神側への血統転換は、あくまでも祝福を受けた「妻」と「夫」との関係によってのみなされるのである。……(中略)……
 「三日行事」における「女性上位」の意味するもの
 ……(中略)……ところで、橋爪大三郎氏は「合同結婚式のあとの初夜は、女性上位、など詳しく次第が決まっている」と述べるが、これは、前述したように、合同祝福結婚式に参加した夫婦の間だけで行われる「血統転換」のための重要な儀式(三日行事)である。
 すでに説明したように〝サタン側への血統転換〟は、エバとアダムの関係、すなわち〝肉的堕落〟によって起こったのである。それを元返すための〝神側への血統転換〟は、祝福を受けた「妻」と「夫」の関係によってのみなされるものである。これは、堕落のとき、エバとアダム(夫婦の関係)による肉的堕落によって〝サタン側への血統転換〟が起こった(決して霊的堕落によるのではない)ため、神側に血統転換されるときも祝福を受けた女性と男性(夫婦の関係)の間で行われる「三日行事」によって、〝神側への血統転換〟が起こるのである。このような重要儀式であるが故に、手順が決まっていてもそれは当然のことである。手順を間違えると、儀式自体が失敗となるからである。
 それゆえ、橋爪大三郎氏の言う「メシアが信徒の女性すべてと性行為をしなければならない」という、いわゆる「血分け」の理屈は、一連の祝福行事に入る余地は全くない。すなわち、「血分け」は存在しないのである

 以上のように、文鮮明師はどこまでも性的関係を持つのは夫婦のみであることを明らかにしており、〝教祖と性的関係を持たなければならない〟という「血分け」「六マリア」の屁理屈は、まったく介入する余地がないのである。これこそが、家庭連合の説く血統転換の教えである。〝純潔〟と〝貞操〟を守るのが家庭連合の真髄であることを明確に知らなければならない。

 (なお、前述したように、これらの詳細については、家庭連合公式ホームページの「お知らせ」欄にある「橋爪大三郎著『日本のカルトと自民党』への反論文を公開」の「二、反対派による『血分け』の言説の〝虚偽〟――反対派の誤った『統一原理』理解」の部分を【資料9】として、最後の本文欄外に引用資料として掲載する)

(17)サブタイトル:「性・カネ・恨から実像に迫る」に対する問題点
  ―― 櫻井義秀氏における、「性」「カネ」「恨」に対する誤った理解
 櫻井義秀氏は、著書『統一教会』の執筆について、「統一教会とは何なのか、どういう宗教なのか、なぜ人を集められるのか、どのようにして多額の献金を引き出せたのか、なぜ離脱・棄教しないのか……(これらの)本質的な質問に答えるためには、統一教会の宗教としての誘因も含めて、統一教会に巻き込まれた人々の歴史を描き出すしかない。そのような思いから、本書を書き進めてきた。それは同時に、副題にある『性・カネ・恨』から、統一教会を私なりに描き直そうとした試みでもあった。……末尾に、それぞれの論点について、本書全体の議論を簡潔にまとめてみよう」(316ページ)と述べている。
 しかしながら、櫻井氏は「統一教会に巻き込まれた人々の歴史を描き出すしかない」と言いながら、彼の家庭連合研究には致命的とも言い得る問題点がある。それは、すでに指摘したように、イギリスの宗教社会学者のアイリーン・バーカー博士が、何の先入観も持たない立場で、家庭連合の現役信者を取材するなどし、なぜ、どのようにして家庭連合の信仰を持つに至ったのかを、「内在的」アプローチをして研究したのに対して、櫻井氏の研究方法は、現役の信者の意見を一切尊重することなく、主として強制的脱会説得によって脱会させられた元信者の証言に基づいて執筆している点にある。その研究には〝公平さ〟がなく、極めて限定された情報源に基づいて成されているものに過ぎない。
 魚谷俊輔氏が指摘するように、「あえて統一教会と直接関わることを避け、統一教会と敵対関係にある弁護士から提供された『元信者』の証言を基に論じているという点で、研究対象との距離が相当にある(『間違いだらけの「マインド・コントロール」論』119ページ)という致命的な研究方法の欠陥があり、「外側からの理解」(同、118ページ)に偏っているものと言わざるを得ない。
 櫻井氏は、著書『統一教会』の執筆について「副題にある『性・カネ・恨』から、統一教会を私なりに描き直そうとした試みでもあった」と述べている。すなわち、①「性」、②「カネ」、③「恨(ハン)」の3点から、同書をまとめたというのである。その概要を、櫻井氏自らが316~319ページにかけて簡潔にまとめている。
 以下、櫻井氏が同書を執筆する際に用いたすべてのアプローチが〝誤っている〟点について、次に指摘する。

「『性』こそ、統一教会の教説・実践の核心である」の根本的誤り
 櫻井氏は、著書『統一教会』を執筆するにあたって、まず「性」という側面からアプローチし、執筆している。彼は「あとがき」で次のように概要をまとめている。
 「統一教会の教義はキリスト教的な体裁を取っているが、性による堕落(サタンと不倫、悪の血統が人類に継承される)と性による復帰(再臨主が人間の娘と聖婚、神の血統を家族・信者に分かち与える≒血分け)という思想があり、創造・堕落・復帰の摂理とされている。性や性交という人間の情念や肉体にとって本源的な部分に『悪』を認め、同時に『善なる救済』とも意味づけて、合同結婚式という集合的祝祭まで設けた。私秘的な性行為が宇宙論的な儀礼(四位基台の形成、無原罪の子を繁殖)になるというのが、統一教会の独自の教説である。このシンボリズムは強烈であり、祝福(家庭)は統一教会信仰の強力な磁場であり続ける。ここからシンボリズムを抜き去り、東アジア的な家族観で粉飾すると、家庭の重要性を説く『家庭教育の推進』となり、自民党政治家の家父長制的家族観や文部科学省、地方自治体のパターナリズム的な家族政策に重なり合う」(316~317ページ)
 まず、櫻井氏の浅薄な理解は、「性による堕落」と述べている点にある。キリスト教においては、いわゆる「失楽園の物語」を性的な問題として解釈することは古くからなされてきた解釈である。例えば、すでに「橋爪大三郎氏への反論文」で述べているが、カトリック教会では、初代教会時代からアウグスティヌスの教父時代にかけて、人間始祖の堕落の問題を〝性的に解釈〟してきた。「ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』(ヨルダン社)は、パウロからアウグスティヌスまでの時代における『楽園神話』解釈の変遷について著述し、この『楽園神話』を性的に解釈してきたことを述べている」(「橋爪大三郎氏への反論文」より)というのである。すなわち、「アウグスティヌスは、『性的欲望それ自体を原罪の証拠および罰と同一視』(ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』237ページ)して解釈した」(同)のである。カトリック教会は伝統的に原罪について「性的解釈」をし、聖職者の独身制を維持してきた。これに対し、ルターは「原罪を〝利己心〟(Selbstsucht=ゼルプストズフト)とする考え方に基づいている。このようにプロテスタント教会は、原罪に対し『心的解釈』をする」(同)。これらのキリスト教神学における変遷を踏まえた上で、「統一原理」の堕落論の問題を考えてみなければならない。「統一原理」では、堕落論において「堕落性本性」を説いており、これは本来、〝神を中心とする真の愛〟で人間始祖アダム・エバが結婚しなければならなかったにもかかわらず、〝サタンの偽りの愛〟を中心として結婚してしまったところに堕落の問題が起こったことを解き明かしている。堕落性本性とは、プロテスタント神学のいう「原罪を〝利己心〟(Selbstsucht=ゼルプストズフト)とする考え方」を支持するものと言える。
 その点から言えば、「アウグスティヌスの『原罪=性欲』という考え方は行き過ぎだといえる。『統一原理』は、性欲そのものを原罪だとは考えていない(同)のである。「『原理講論』に、『神が人間始祖に、「食うべからず」と言われた信仰のための戒めは、いつまでも必要であったのだろうか。……人間が完成すれば、「食う(性交)」のは原理的なものとして、当然許されるように創造されていた』(114ページ)とあるように、子女繁殖をなすために性欲はもともと原理的なものとして神から賦与されているものである」(同)。
 「『統一原理』は、自己中心の動機による不従順という(プロテスタントの)『心的解釈』に基づきつつ、人間始祖は(カトリック神学の)『性的形態』を通して堕落したと説いており、その意味では、今日まで対立してきたカトリック教会の神学とプロテスタント教会の神学を和解させるものがあると言える」(同)のである。
 櫻井氏の「性による堕落」という捉え方は、「統一原理」に対する〝浅薄な理解〟に過ぎない。『原理講論』で説いている理論の全体像は、「創造」「堕落」「復帰」という点にあり、人間始祖が「真の父母」になるべきだったにもかかわらず、「真の父母」になれなかったところに堕落の根本的問題があり、理想世界が実現しなかったと説くのである。したがって、その「真の父母」を取り戻すのが神の「復帰摂理」であり、そのことによって理想世界がいかに実現されるかということが『原理講論』の最も核心的な内容である。
 すなわち、第一祝福「個性完成」、第二祝福「家庭完成」、第三祝福「万物主管」をいかに成し遂げるのかが理論の全体像なのであり、「性」の問題は、その中の一部の内容に過ぎないのである。
 次に、櫻井氏は、「性による復帰(再臨主が人間の娘と聖婚、神の血統を家族・信者に分かち与える≒血分け)という思想」があるとし、ここで「性による復帰……≒血分け」と述べている。「≒」は〝ほとんど等しい〟という意味であるが、すでに反論したように、文鮮明師のみ言および家庭連合の教理の側面から見ても、「血分け」「六マリア」が存在しなければならない理由も根拠もまったくないのである。
 櫻井氏は、「血分け」「六マリア」は存在しないにもかかわらず、反対派の批判情報に踊らされ、それを鵜呑みにして垂れ流しているに過ぎない。彼は、文鮮明師が語った言葉を直接検証することもなく、また家庭連合が出版している「反論書」を読んで幅広く研究するわけでもない。彼の研究姿勢が〝真実の探求〟とは程遠いものであるのは明らかである。
 さらに、櫻井氏は、家庭連合が「性や性交という人間の情念や肉体にとって本源的な部分に『悪』を認め」と述べるが、これもまた同氏が「統一原理」に対する〝浅薄な理解〟しかできていないことを示すものである。すでに、「統一原理」は〝性〟や〝性交〟それ自体が罪であるとは考えていないことは指摘したとおりであり、彼の解釈は根本的に誤っている。
 『原理講論』は、「心と体とが完全に一つになってこそ完全なる人格をつくることができるように、本質と現象との二つの世界も、それらが完全に合致して初めて、理想世界をつくることができる……現実を離れた来世はあり得ないがゆえに、真の肉身の幸福なくしては、その心霊的な喜びもあり得ないのである。しかしながら、今日までの宗教は来世を探し求めるために、現実を必死になって否定し、心霊的な喜びのために、肉身の幸福を蔑視してきたのである」(『原理講論』28ページ)と、今日までの宗教の限界性を指摘している。
 パウロは「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである」(ローマ書8・6~7)と述べているが、これに基づいて、禁欲的生活を重要視してきたのは、むしろキリスト教である。「統一原理」は、「真の肉身の幸福なくしては、その心霊的な喜びもあり得ない」と説いているのである。
 したがって、『原理講論』は「我々が、往々にして罪であると考えるところの欲望なるものは、元来、神より賦与された創造本性である」(118ページ)というのである。さらに、宗教的生活のみならず、家庭連合では物質的な側面での生活環境においても、決して禁欲的なものばかりを追求しているのではなく、「人間が原始人たちと同じような、未開な生活をそのまま送らざるを得ないとすれば、これは、神が望み給い、また、人間がこいねがう天国だとは到底いうことができないのである。したがって、神が万物を主管せよと言われたみ言のとおりに、個性を完成した人間たちは、科学を発達させて自然界を征服することによって、最高に安楽な社会環境をこの地上につくらなければならない。このような創造理想の実現された所が、すなわち地上天国なのである」(136ページ)とあるごとく、「人間の情念や肉体にとって本源的な部分に『悪』を認め」ているという櫻井氏の理解は、『原理講論』の全体像を読み込んでいない〝浅薄な理解〟に過ぎないのである。
 (なお、詳細については、家庭連合公式ホームページの「お知らせ」欄にある「橋爪大三郎著『日本のカルトと自民党』への反論文を公開」の「②いわゆる『失楽園』を性的に解釈することは『牽強付会』と述べる橋爪氏の無知」の部分を【資料10】として、最後の本文欄外に引用資料として掲載する)

②「万物復帰とは、『カネ』をサタン圏から神の主管へ移す正当化の理論」と述べる虚偽
 櫻井義秀氏は、統一教会にとって「カネ」は何よりも大事なものとなり、サタンの支配権から神の支配権に移すことが〝万物復帰〟の意味であるとして、次のように述べる。
 「コングロマリットをめざした統一教会にとって、『カネ』はなによりも大事なものと化していった。次第に、サタンの支配権から神の支配権に主管を移す(万物復帰)ということで正当化された経済行為、霊感商法や高額献金、先祖解怨や各種献金摂理などがエスカレートしていく。なぜ、信者たちは、目の前の主婦や高齢者が不安におののき、なけなしの財産を消尽するさまを黙って見とどけ、教会ごとに実績を競い合う活動に突き進むことができたのか。世間の常識や道徳を捨てさせる教化過程がなければ、ここまで信者の認識枠組みを変えることはできなかっただろう。これを『マインド・コントロール』と言うのは簡単だが、元来、宗教は世俗的価値を超えようとするものである。日本の統一教会信者は、己をむなしくすることを信仰とした。信者は自身をメシヤによる地上天国実現のための道具、使われるものになりきることを信仰と心得て、相手を救うために情け容赦のない収奪を行ったのである。教団幹部もまた信者の実生活を顧みることなく、メシヤである文鮮明や韓国人幹部に用いられることを信仰とした。この有りようは、教祖の文鮮明やその家族、教団幹部や韓国人信者たちが強い自我を保持したままであったのとは対照的である」(317~318ページ)
 櫻井氏は、万物復帰とは「サタンの支配権から神の支配権に主管を移す」ことであるかのように述べている。しかし、この主張は、根本的に誤っている。
 ところで、「統一原理」の理論体系は、大観すれば「創造原理」「堕落論」「復帰原理」から成っている。そして、それぞれが相互間で深く関連している。ゆえに、たとえ「万物復帰」という概念が「復帰原理」で用いられていても、それを正しく理解するには、「創造原理」の観点からも見つめて検討しなければならない。つまり、復帰摂理は「創造原理」に基づいてなされる〝再創造の摂理〟なのである。ゆえに「創造原理」に無かった概念が、突如「復帰原理」に登場し、語られることはあり得ない。「万物復帰」の概念は、もともと「創造原理」の中にあったものが、人間の堕落によって失われたため、それを再創造(復帰)していくことを意味する概念である。
 では、「万物復帰」は「創造原理」のどの概念から派生しているのであろうか。それは、三大祝福のうち「万物主管」(主管性完成)から来ている。「万物主管」とは、人間が万物世界に対する本然の主管性を確立し、神の願うかたちで万物を正しく主管することをいう。したがって、「万物復帰」を丁寧に言い直せば、「万物に対する主管性の復帰」ということになる。これを「万物復帰」と呼んでいるのである。
 文鮮明師の語る「万物復帰」とは、「万物に対する主管性を復帰」することを意味しており、人間の〝内的な資質〟という心のあり方を前提に語っているものである。ゆえに、これは人の財布から人の財布にお金が移動する、単なる〝場所の移動〟ではない。実際、復帰摂理では、勝利者ヤコブの歩んだ路程は、自分が持つ全財産をエサウに与えたのである。ヤコブは、エサウとの〝一体化〟という神の摂理のため、全財産を与えたのである。
 したがって、「万物復帰」とは、櫻井氏の言うような、万物を「サタンの支配権から神の支配権に主管を移す」という意味ではない。動植物をはじめ自然環境など、すべての万物を創造本然の立場で主管することをいう概念なのである。
 また、櫻井氏は、家庭連合が「経済行為、霊感商法や高額献金、先祖解怨や各種献金摂理などがエスカレートしていく」と述べているが、家庭連合は法人の規則にしたがって運営されており、収益事業は一切行っていない。これについては、すでに(6)いわゆる『霊感商法』は家庭連合(旧統一教会)が行った販売行為ではないで反論しているので、詳細は、それを読んでいただきたい。以下、その反論の主要部分を〝抜粋〟する。
 「櫻井義秀氏は著書の中で、次のように指摘している。
 (姓名判断などの)鑑定は統一教会の教義である統一原理とは直接的な関係がない(134ページ)
 すなわち、櫻井氏自身は、一部信者が行っていた姓名判断などの行為は、『統一教会の教義である統一原理とは……関係がない』という事実を認めている。さらに、『先祖供養や因縁の清算というレトリックを使うにしても、実のところ、統一教会本体には元々ここに関わる教義も儀礼もなかった(160ページ)とも語っている。このように、櫻井氏は、統一教会本体にそのような〝教義にない〟ことを認める一方で、そのような販売行為を統一教会が行っていると述べている。その主張自体が矛盾しているのである。これらの販売行為は、あくまでも一部信者だけが〝独自の活動〟として行っていたものに過ぎないのである。日本国内を見ても、世界中を見ても、日本における一部信者が行っているようないわゆる『霊感商法』は、誰も行っていない。この事実を見ても、いわゆる『霊感商法』なるものを、統一教会が行っていないことは自明の理である」
 また、「櫻井氏は数多くの箇所で、まるで統一教会自体がいわゆる『霊感商法』を行っていたかのように述べている。実に悪意に満ちた記述と言える。前述したように、彼は(姓名判断などの)鑑定は統一教会の教義である統一原理とは直接的な関係がない』『先祖供養や因縁の清算というレトリック……統一教会本体には元々ここに関わる教義も儀礼もなかった』と結論付けているにも関わらずである。教義にないことをもって経済活動を、統一教会自体が行っていたと〝強弁〟することは、彼の主張の根本的矛盾を露呈しているものと言わざるを得ない。こういうのを〝二枚舌〟というのである。
 事実、櫻井氏は『日本では韓国の一信石材、一和といった統一教会関連企業が製造した高麗大理石壺、朝鮮人参茶などを輸入販売するようになった。これらの商品は、統一教会の幹部が設立した会社である「ハッピー・ワールド」(元・幸世商事)が輸入し、系列会社の「世界のしあわせ」が卸売りをする』(116ページ)と述べており、『統一教会の場合、形式的には霊感商法の実施主体は販社という別組織の活動だった』(278ページ)との事実を認めて述べている。すなわち、宗教法人・統一教会本体と統一教会信者が設立した〝販売会社〟は、櫻井氏の述べるように、どこまでも〝別組織〟なのである」
 次に、櫻井氏は「高額献金、先祖解怨や各種献金摂理などがエスカレートしていく」と述べているが、家庭連合における献金は、あくまで信者の自由意思に基づいて自主的に捧げるものである。そこに、献金の強制などは一切ない。
 なお、新約聖書には、イエス様ご自身が次のように語っている言葉が記されている。
 「ペテロがイエスに答えて言った、『ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなた(注、イエス)に従いました……』。イエスは彼らに言われた、『よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、……おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう」(マタイ伝19・27~29)
 さらに、次のようにも記されている。
 「イエスは彼(注、富んでいる青年)に言われた、『もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい』。 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。それからイエスは弟子たちに言われた、『よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい』」(同、19・21~24)
 こう語るイエス様に対しても、櫻井氏は「高額献金をさせていた」などと批判するのであろうか。いずれにせよ、献金をするか否かは、どこまでも信者の自由意思に委ねられていることを知らなければならない。
 また、櫻井氏は「信者たちは、目の前の主婦や高齢者が不安におののき、なけなしの財産を消尽するさまを黙って見とどけ(る)と述べるが、これらは、家庭連合を相手取って損害賠償訴訟を起こした元信者が、虚偽の証言をしているものに過ぎず、そうした事実は一切ない。
 事実として、家庭連合を訴えた裁判においては、次のような事例が存在する。
 「(1)名古屋献金事件
 元家庭連合信者のM婦人が家庭連合に対する献金を理由に名古屋地裁に提訴した損害賠償請求事件で、2003(平成15)年2月28日に名古屋地裁は原告の請求を棄却し、名古屋高裁及び最高裁も原審の判断を維持したため、家庭連合側の勝訴が確定した。
 同事件原告は訴状で、家庭連合信者らの根拠のない因縁話等の強迫により献金させられた旨主張していた。また、原告側が証拠提出した同原告名義の陳述書には、『色情因縁、殺傷因縁、水子の因縁』といった因縁の話をされ『恐怖感を植え付けられた』ために大金を献金した旨記され、家庭連合が行っているとするマインド・コントロールの恐怖について記されていた。ところが、事件係属中に原告がたまたま共同被告の関係者のもとを訪れた際、裁判のことが話題となり、原告が主体的に献金等をした事実、及び訴状で主張する『恐怖感』が実際には存在しなかった事実を原告が認めた。同発言の録音データが証拠提出されたこともあり、原告は反対尋問で『恐怖感』、『マインド・コントロール』についていずれも否定し、『色情因縁、殺傷因縁、水子の因縁』に関する陳述書の記載についても、実際には記憶にない旨認め、更には原告名義の陳述書についても、自分が書いたものではない旨供述するに至った。こうして、虚偽主張・虚偽供述であった事実が明らかとなったのである」(『家庭連合信者に人権はないのか』グッドタイム出版、112~113ページ)。
 同様の事例は、他にも数多くある。詳しくは、『家庭連合信者に人権はないのか』の「第4章 家庭連合反対派弁護士、牧師たちの欺瞞性」(93~129ページ)を読んでいただきたい。
 さらに、櫻井氏は、家庭連合の信者が「相手を救うために情け容赦のない収奪を行った」と述べるが、そのような事実はない。献金は、信者の自由意思に基づき、神に対する感謝から自発的に捧げるものであり、家庭連合の「献金袋」に文鮮明師のみ言「私は真を尽くして神様に感謝します」とあるとおりである。櫻井氏が言うような「収奪」などでは決してない。献金を「収奪」と述べるのは、家庭連合に対する差別と偏見に基づく悪意に満ちた主張と言わざるを得ない。

③「『恨』は、日本に対する恨みの心情である」との櫻井義秀氏の〝浅薄な理解〟
 櫻井氏は、「恨(ハン)」について、次のように述べている。
 「『恨』は、文鮮明のみならず韓国人幹部や朝鮮半島で生まれたこの世代の人々に共有された日本に対する恨みの心情である。日本は、東アジアにおいていち早く近代化して植民地宗主国となり、世界大戦の敗戦国でありながら戦後いち早く経済復興し、世界が瞠目する先進国になった。その間、朝鮮半島は植民地化され、光復後も冷戦体制下で分断され、同じ民族同士が現在に至るまで戦わなければならなかった。そのうえ、日本社会では在日コリアンに対する差別が残存し、政府は植民地支配に反省の弁を述べつつも、従軍慰安婦や徴用工の問題では暖昧な態度を示した。1990年代以降、韓国の市民社会の動向を見極めた韓国政府は、日本の歴史認識を問うた。軌を一にして、統一教会も日本に道義的責任と賠償を求める宗教運動を展開していった。恨の心情が神や再臨主の言葉として語られるのを前に、日本人信者は、求められる贖罪に応じるしかなかった。なぜなら、日本人信者には日韓の近現代史についての知識も歴史認識もなかったからである。統一教会問題は、日韓におけるポストコロニアルな問題なのだ」(318~319ページ)
 櫻井氏は、「恨」とは「日本に対する恨みの心情である」とし、「統一教会も日本に道義的責任と賠償を求める宗教運動を展開していった。恨の心情が神や再臨主の言葉として語られるのを前に、日本人信者は、求められる贖罪に応じるしかなかったと述べている。
 櫻井氏が「恨(ハン)」について、誤った理解をしている点については、すでに(11)日本の植民地支配に対する〝恨〟や〝贖罪意識〟で、信者を支配しているとの虚偽および(13)『蕩減』という概念に対する櫻井義秀氏の誤った理解の項目で反論済みである。詳細については、それらを読んでいただきたい。
 以下、櫻井氏の誤りについて、上記項目の中から〝抜粋〟して述べることにする。
 彼は、「恨」とは「日本に対する恨みの心情である」と述べるが、これは、「恨」に対する誤った理解である。
 ウィキペディアには、「恨」について次のように説明されている。
 「朝鮮民族にとっての『恨』は、単なる恨み(うらみ)や辛み(つらみ)だけでなく、無念さや悲哀や無常観、……悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすものであり、この文化は『恨の文化』とも呼ばれる」
 つまり、この「恨」とは、朝鮮民族の持つ独特な感情であり、怨みとは根本的に異なる。「怨み」は、敵に向かう憎しみ、仇討ちなどの思いであるが、「恨」は、外に向かう憎しみではなく、内側に向かう〝無念さ〟や〝悲哀〟の情のことを言う。すなわち、愛する人を幸せにしてあげたかったのに、幸せにしてあげられなかった〝無念〟な思い。あるいは、理想を追い求めていたのに、何らかの事情で理想にたどり着けなかったときに感じる〝悲哀〟や〝無常観〟のことである。決して、他に対する憎しみや仇討ちの心情などではない。仮に〝復讐〟したとしても、愛する人や理想を取り戻せるわけではない。そういう意味で、「怨み」とは根本的に異なるものである。櫻井氏は、このような基本的なことさえ分かっていない。
 (11)日本の植民地支配に対する〝恨〟や〝贖罪意識〟で、信者を支配しているとの虚偽で、すでに述べたように、「櫻井義秀氏は……文鮮明師や韓鶴子総裁が家庭連合信者に〝反日思想〟を植え込み、〝贖罪意識〟を持たせることで、信者を支配しているかのように述べている……しかし、このような『反日』思想的なことを、文鮮明師や韓鶴子総裁は語っていない。……事実、櫻井氏……は、文鮮明師の言葉や韓鶴子総裁の具体的な言葉の根拠を挙げることもなく、何の裏付けもしていない。実際、韓国の贖罪のために献金を捧げなさいと語った(文師ご夫妻の)言葉は存在せず、また、そのために海外宣教をしなさいと語った言葉も存在しない。今日に至るまで、長きにわたって家庭連合を批判してきた反対派は、文鮮明師や韓鶴子総裁のこのような言葉を提示したことが一度もない。事実は、むしろ反対派が批判する言葉と真逆であり、文鮮明師は次のように語っている。
 日本から来たお金は、韓国のために使ってはいけません。世界のために使っています。世界のために使わなければなりません。……そのお金を韓国のために使ってはいけません。莫大な資金をアメリカのために、自由世界のために使っています』(『神様の摂理と日本』127ページ)」
 また、「文鮮明師は、日本統治時代において悲惨な歴史を経てきた韓民族に対してさえも、次のように語って〝世界のため〟に生きるべきことを教えておられる。
 『韓民族は、今まで自分たちが愛するものをすべて奪われました。日本統治時代には大切な国を奪われ、続いて国土が真っ二つになり、愛する父母、兄弟たちと別れなければなりませんでした。そのため、朝鮮半島は涙の地になりました。しかし、今は韓民族が世界に向かって泣いてあげなければならない時です。これからは、自分たちのために泣いていた時よりも、もっと真摯に、切実に世界のために涙を流さなければなりません』(『平和を愛する世界人として』313ページ)
 このように、過去の悲しみや怨讐さえも超え、世界を愛し、世界のために涙を流して生きるべきという主旨の文鮮明師の言葉や、韓鶴子総裁の言葉は数限りなくある。櫻井氏が言うような〝反日思想〟的な言葉は存在しないのである。これが〝真実〟である」
 櫻井氏の著書『統一教会』は、家庭連合に存在していない〝虚偽の内容〟(恨や贖罪意識など)に基づいて書かれているに過ぎない。彼は、サブタイトルに「性・カネ・恨(ハン)から実像に迫る」と銘打っているが、その著書を読めば読むほどに、その内容は〝虚像に迫っている〟と断言せざるを得ないものである。
 さらに、すでに(13)『蕩減』という概念に対する櫻井義秀氏の誤った理解で述べたことであるが、「文鮮明師が語った言葉として……『蕩減とは何であるかというと、100以下のものをもって100と同じに認めてくれることです』(1980年7月1日の説教「蕩減の歴史的基準」)。『神は常に誰もが救いを受ける機会が得られるように(負債総額よりも)小さな条件を設定されています』(1981年2月10日の説教「蕩減復帰摂理歴史」)。『蕩減復帰とは、小さな条件を通して大きなことを蕩減する(赦す)ことです』(1967年6月4日の説教「蕩減が行く道」)。
 以上の文鮮明師の言葉から分かるように、『蕩減』とは、どこまでも恩寵をもって〝救いの摂理〟が行われていることを言うのである」
 ところが、「櫻井氏は、韓国語で『蕩減』という言葉は、上述した『ゆるし』の概念であることを知っていながら……日本が韓国を植民地支配したのだからその蕩減を追わなければならない』と述べて、誤った用い方をしている」
 このような矛盾したことを平然と述べるのは、櫻井氏に文鮮明師ご夫妻や家庭連合を何としてでも貶めたいという気持ちがあるためと言わざるを得ない。

 以上、数多くの項目で論述してきたが、櫻井氏の執筆した『統一教会』は、サブタイトルに「実像に迫る」と銘打っているのとは全く異なり、〝虚偽に満ちた〟ものと言わざるを得ない。一言で言えば、彼の描く家庭連合像は、その実像とはかけ離れた、嘘と偽りで塗り固められた〝虚像〟と断言せざるを得ない。

おわりに

 櫻井義秀氏の批判内容は、極めてデタラメである。
 また、拉致監禁による〝孤立無援〟となった信者を脱会させる反対派の手法は、人権無視の極めて深刻なものである。彼らは、長年にわたって拉致監禁による強制脱会説得を行ってきた。その数は4300件を超えている。こうした長年の取り組みが、数多くの元信者を生み出し、裁判闘争を起こしてきたのである
 札幌を含め「青春を返せ裁判」全体では、「札幌、新潟、東京など全国で元信者が家庭連合を提訴する『青春を返せ裁判』では、合計180名のうち数名を除いた殆どの原告(元信者)が拉致監禁され脱会した信者であった」(『家庭連合信者に人権はないのか』グッドタイム出版、97ページ)のである。いかに拉致監禁による強制脱会説得が、多くの被害者を生み出したのかが分かる。これらの裁判闘争が、マスメディアで取り上げられ、元信者の発言のみが報じられることによって、家庭連合は〝反社会的である〟という風評を作り上げてきたのである。今日の家庭連合にまつわる状況は、2000年前のイエス様を取り巻く状況と似ている。以下、『統一教会の正統性』から抜粋する。

 2000年前、イエス様は、〝群衆を惑わす者と非難され〟(ヨハネ7/12、ルカ23/2 etc.)、〝悪霊の頭ベルゼブル、悪霊に憑かれていると非難され〟(マタイ12/24、ヨハネ8/48、ルカ11/15 etc.)、〝隠蔽集団であるかのように疑われ〟(ヨハネ7/4、同14/22)、〝ローマの税金、宮の納入金を納めない人物(脱税)の罪に問われ〟(ルカ23/2、マタイ17/24、同22/17)、〝偽キリストと非難され〟(ルカ23/2)、〝貧しいナザレ(ガリラヤ)から、何のよいものが出ようかと言われ〟(ヨハネ1/46、同7/41、同7/52)、〝罪人(遊女)の仲間だと非難され〟(マタイ11/19etc.)、〝自殺でもするつもりかと中傷され〟(ヨハネ8/22)、⑨〝ユダヤ教徒から棄教を迫られるため、信徒が拉致され〟(使9/1~2、同8/3)、〝律法(旧約聖書)を廃する者と思われ〟(マタイ12/2、ヨハネ9/16)て批判された。

 同様に、文鮮明師も、❶〝世を惑わし、若者たちを洗脳していると非難され〟〝反対牧師から悪魔の化身だと非難され〟〝謀略組織・隠ぺい集団だと中傷され〟〝無実にもかかわらず脱税で訴えられ〟〝偽キリストだと非難され〟〝韓国人だと蔑視され・貧しい韓国から何のよいものが出ようかと思われ〟〝淫教の教祖と非難され、血分け儀式があると中傷され〟〝集団自殺でもやりかねないと中傷され〟〝信徒が棄教(強制改宗)を迫られるため、拉致・監禁され〟〝福音や十字架神学を排斥している〟と批判されている。

 上記のような長年の反対派の取り組みによって、イエス様の場合、「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」(ヨハネ6/66)状況が起こった。こうして追い込まれたイエス様は、ローマ総督ピラト(ローマ帝国・物質文明圏)とユダヤ教指導者らが〝結託〟することによって逮捕され、最後はピラトの法廷において有罪判決を受けて、十字架で殺害されたのである。
 今日においても、唯物論に基づく共産主義者(左翼勢力)と一部のキリスト教指導者らが〝結託〟して、家庭連合を亡き者にしようとしてきたのである。言わば、これらの左翼勢力と一部キリスト教指導者らの取り組みが、1978年に打ち出した宮本顕治路線(自民党と友好団体・勝共連合との分断作戦)を具現化してきたとも言えよう。
 さて、犯罪者と目されて殺害されたイエス様は、その後2000年にわたり、キリスト教の使徒信条において「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と謳われ続けた。果たして、今日の家庭連合に対する〝令和の魔女狩り〟とも言える迫害は、いかなる結論に至っていくのであろうか。これは、後世のみが知ることとなるが、イエス様のときと同じ結論にしてはならない。

以上

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引用資料

【資料1】(魚谷俊輔氏のブログ「『洗脳』『マインド・コントロール』の虚構を暴く」の「櫻井義秀氏と中西尋子氏の豹変」から)
 櫻井義秀氏と中西尋子氏の豹変(2012年10月24日)
 ここで、読んでおきたい文献として幾つかお薦めしておきます。先ほどご紹介した塩谷政憲氏の文献は、原理研究会や統一教会に直に接して書いた数少ない論文ですので、非常に説得力があります。さらに渡邊太氏の名前も何度か挙げましたが、彼は「洗脳、マインド・コントロールの神話」という論文を『新世紀の宗教』という本に掲載しています。これも大変良い論文ですので、ぜひ読んでいただければと思います。
 また、櫻井義秀という現在は反対派に回っている学者も、かつては大変良い論文を書いていました。彼は1996年、北海道大学の雑誌の中の『オウム真理教現象の記述を巡る一考察』という論文で西田論文を批判しています。「人間が生きるコンテキスト(背景)を捨象した実験重視なアプローチである」と問題点を批判した上で、「マインド・コントロール」の問題点を次のように鋭く指摘しています。
 「騙されたと自らが語ることで、マインド・コントロールは意図せずに自らの自律性、自己責任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある。…自我を守るか、自我を超えたものを取るかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない。…そのような覚悟を、信じるという行為の重みとして信仰者には自覚されるべきであろう」。
 これはとても素晴らしい内容で、要するに、「マインド・コントロール」とは責任転嫁の論理であることを指摘しているのです。しかしながら、近年の彼は統一教会を反対する立場に立っています。なぜ櫻井義秀氏は豹変してしまったのかご説明しますと、実は、この論文は統一教会に対する「青春を返せ」裁判の際に、被告側弁護団によって引用されており、原告側弁護団から「あなたの論文が『統一教会』擁護に使われているが、それを承知で『マインド・コントロール論』の批判をされたのか」と批判されてしまったのです。さらに、元ジャーナリストの藤田庄市氏からは「統一教会の犠牲者たちをうしろから切りつける役割をあんたはやったんだよ」と忠告されたのです。これらの様子は岩波講座の『宗教への視座』という本の中に書いてあります。
 櫻井氏は、自分の書いた「マインド・コントロール」批判の論文が、まさか統一教会を擁護するために使われるとは思っていなかったようで、彼のホームページの中にこのような表現がありました。「『マインド・コントロール』論争と裁判=強制的説得』と『不法行為責任』をめぐって」ということで、「2000年12月5日、札幌地裁の上記公判において、教会側証人として、『カルト』『マインド・コントロール』問題の専門家として魚谷俊輔氏が出廷した。…証言において、あろうことか、筆者の『マインド・コントロール論』批判の論文を引用されたが、主旨を取り違えていたように思われた。筆者の意に反して、筆者の1996年の論文は『統一教会』側が『マインド・コントロール論』を否定する際に、日本の研究者による証拠資料として提出された。だから私はこれと闘わなければならない」と述べています。
 結局、最初は「マインド・コントロール論」に対して批判的だったものの、「青春を返せ」裁判の原告側弁護士による圧力に屈してしまい、いまや彼は『統一教会』という580ページにもなる批判書の著者になってしまいました。この『統一教会』という著書には、元信者の情報や裁判資料の分析を基に、統一教会の教説や教団戦略などが書かれています。さらに、この本は共著で中西尋子氏も書いています。中西氏は韓国の現役信者の研究をしている人物で、彼女は韓国に渡った日本人の現役信者に対するインタビューと参与観察による分析、あるいは『本郷人』の記事から見た祝福家庭の現実などを担当しました。この中西尋子氏ですが、彼女も最初は統一教会に対して好意的な人物でした。
 中西氏は韓国で研究していたのですが、そこで偶然田舎にお嫁に行った祝福家庭の婦人に出会ったそうです。そして、彼女はその祝福家庭の婦人に好感を持ち、その後礼拝に参加したり、婦人にインタビューをしながら研究を続けていました。このように、最初は統一教会に対して非常に好意的な扱いをしていたのです。しかし、あるきっかけから彼女も櫻井と同じように統一教会に反対する立場に立つようになりました。そのことは、米本和広氏の著書『われらの不快な隣人』の中に、以下のように書かれています。「宗教社会学者の中西尋子が、『宗教と社会』学会で、<『地上天国』建設のための結婚≠ある新宗教団体における集団結婚式参加者への聞き取り調査から>というテーマの研究発表を行なった。…その会合に出席にしていた『全国弁連』の東京と関西の弁護士が詰問した。『霊感商法をどう認識しているのか』『(日本の)統一教会を結果として利するような論文を発表していいのか』。出席者によれば、『中西さんはボコボコにされた』という」。
 つまり、彼女は弁護士たちに徹底的に糾弾され、結局中西氏もその圧力に屈して櫻井氏と一緒に本を書いたのです。このように、今の日本の宗教学界では少しでも統一教会に有利なことを書こうとすると、統一教会に反対する人たちから圧力がかけられてしまうのです。
 終わりに
 結論に入りますが、まず「知は力なり」ということを申し上げたいと思います。このような内容を知って活動する人と知らずに活動する人では、自信や説得力に大きな違いがあります。「カルト」対策担当教授や学生課の職員以上に「カルト」や「マインド・コントロール」に関する知識を身に付ける必要があります。また、それと同時に私たちが「正体不明の団体」から「顔の見える団体」へと変わっていかなくてはなりません。つまり、CARPの学生が実際に学生課などと応対し、実体をもって「カルト」や「マインド・コントロール」のイメージを払拭する活動をするということです。そして、CARPの人たちも普通の良い学生であるということを知ってもらうのです。さらに、コンプライアンス確立による学内の信頼基盤を確立することも重要です。先ほどご説明した「青春を返せ」裁判からも分かるように、「正体隠し」「不実表示」などは讒訴されてしまいます。したがって、堂々とCARPであることを名乗って勧誘し、学内の讒訴圏を無くすことも必要であると思います。

【資料2】
 第2節 数々の不当請求、不当訴訟
 ゆがめられた最初の判決
 1996(平成8)年5月に家庭連合が献金裁判で敗訴した最初の判決が福岡地裁で下された(平成2年(ワ)第1082号事件)。当時のことを知る者達によれば、同事件の原告の1人である原告Nは、夫を亡くした後、家庭連合の教義を学んで感銘を受け、統一運動の発展に貢献するために献金した。ところが同原告は、親族等から「信仰を辞めないなら一人娘は自分達が引き取って育てる」と迫られて信仰を断念し、遂には家庭連合を被告として損害賠償請求訴訟を提起するに至った。そして法廷で同原告は、「献金しなければ霊界にいる亡夫が地獄で苦しむと言われて献金した」との主張・供述を行い、福岡地裁は同原告の供述と請求を認めた。真の事実経緯を知っている家庭連合の立場からすれば、同原告の主張・供述はあからさまな虚偽主張・虚偽供述に他ならず、判決は不当判決であった。しかし、最近の報道にもあるように、同事件以降、他の事件でも原告らは同様の手法を踏襲し、その結果、全国の裁判所が同様の判決を繰り返したのである。(前記『月刊Hanada』2023年7月号掲載記事)
 虚偽主張・虚偽供述の顕著な事例
 以下においては、家庭連合を被告とする献金裁判における原告側の主張・供述の虚偽性が顕著な事例を紹介する。

(1)名古屋献金事件
 元家庭連合信者のM婦人が家庭連合に対する献金を理由に名古屋地裁に提訴した損害賠償請求事件で、2003(平成15)年2月28日に名古屋地裁は原告の請求を棄却し、名古屋高裁及び最高裁も原審の判断を維持したため、家庭連合側の勝訴が確定した。
 同事件原告は訴状で、家庭連合信者らの根拠の無い因縁話等の強迫により献金させられた旨主張していた。また、原告側が証拠提出した同原告名義の陳述書には、「色情因縁、殺傷因縁、水子の因縁」といった因縁の話をされ「恐怖感を植え付けられた」ために大金を献金した旨記され、家庭連合が行っているとするマインド・コントロールの恐怖について記されていた。
 ところが、事件係属中に原告がたまたま共同被告の関係者のもとを訪れた際、裁判のことが話題となり、原告が主体的に献金等をした事実、及び訴状で主張する「恐怖感」が実際には存在しなかった事実を原告は認めた。同発言の録音データが証拠提出されたこともあり、原告は反対尋問で「恐怖感」、「マインド・コントロール」についていずれも否定し、「色情因縁、殺傷因縁、水子の因縁」に関する陳述書の記載についても、実際には記憶にない旨認め、更には原告名義の陳述書についても、自分が書いたものではない旨供述するに至った。こうして、虚偽主張・虚偽供述であった事実が明らかとなったのである。
(2)東京違法伝道訴訟
 2002(平成14)年8月21日に東京地裁で判決が下されたいわゆる「違法伝道訴訟」事件で(平成11年(ワ)第18400号)、原告3名のうちの1人であるTWは、家庭連合に100万円を献金した理由について、陳述書で6頁に亘って詳述した。同陳述書によると、かつて日本が朝鮮を植民地支配していた時代に同原告の叔父が朝鮮警察に勤務していたことがあり、そのことを同原告が家庭連合信徒のZに話したところ、Zは同原告の家系が「取り返しのつかない罪を犯した」などと激しく攻め、親戚の子供の病気もその叔父が朝鮮人を拷問したことが原因だとたたみかけ、「あなたの先祖は罪の清算をしてくれるように望んでいる」などと迫り、全てのお金を献金しなければ霊界に行ったとき先祖から責められ、ぼこぼこと殴られる、などと脅したとされ、このため原告は1991(平成3)年6月27日に献金したとのことであった。
 ところが、実際には、同原告の叔父が朝鮮警察で勤務していた事実を同原告が知ったのは、献金を行った後、佐賀に帰省していた際のことであった。そのことが、同月30日付で同原告が佐賀から送った葉書の記載から明らかとなった。即ち、献金の話題が出た時点で同原告の叔父が朝鮮警察に勤務していたことを原告がZに話すことなどあり得ず、Zがこのことを元に原告に献金を迫ったというのは、実際にはあり得ないことだったのである。家庭連合側からの反対尋問で同原告は遂に、Zが同原告に話した内容について、実際には「記憶にない」ことを認めるに至った。即ち、献金経緯に関する6頁に亘る陳述書の記載は、全く事実無根であったことが明らかとなったのである。
 しかし、同事件の判決は、原告の供述の虚偽性がこれほどまでに明らかとなったにもかかわらず、なお、霊界の先祖が同原告に罪の清算をすることを欲しているとZが同原告に述べたなどと認定し、Zの行為が不法行為に該当すると認定した。しかるに、一体何を「罪」として献金を迫ったというのか、朝鮮警察の話が虚構である以上、全く意味不明としか言いようがない。
 ちなみに、原告らの合同結婚式参加に向けた家庭連合信者らの行為を違法と認定したのもこの同じ判決である。
 当時の判決には、こうした「結論先にありき」的なところがあり、先に(1)で述べた「名古屋献金事件」におけるように、原告自身が原告代理人の主張の虚偽性を法廷で認めない限り、原告の主張・供述がいかに虚構であってもそのまま認定され、家庭連合側が敗訴する結果となった。即ち、家庭連合の壊滅をもくろむ左翼陣営にとって極めて好都合なシステムとなっていたのである。こうして積み重ねられた判決によって、全国弁連は家庭連合の解散を求め、全国弁連の情報を垂れ流すマスコミの扇動に狼狽した政府が質問権行使や新法制定にまで動いてしまったのであるから、極めて異常な事態であると言わざるを得ない。
 のみならず、安倍晋三元首相の事件以降、家庭連合ないし国際勝共連合と関わりのあった大臣は辞任を迫られ、国の安全と伝統を重視する保守系議員は影響力を削がれ、重大な局面を迎えている東アジアの安全保障の議論等は後回しにされるという、大多数の国民が全く願わざる状況に陥っているのである。家庭連合裁判で原告側の虚偽主張・虚偽供述を安易に認めてきた司法の責任は極めて重大であると言わざるを得ない。
(3)証拠画像改竄疑惑
 元家庭連合信者のEは、脱会後の2007年2月27日、献金を理由に家庭連合に対して損害賠償請求訴訟を福岡地裁に提訴した(平成19年(ワ)大576号)。一審の福岡地裁が原告の大半の請求を棄却したことから原告と被告双方が福岡高等裁判所に控訴した(福岡高裁平成23年(ネ)382号)。すると、控訴審で控訴人Eの代理人を務めた全国弁連の大神周一、平田広志、西岡理恵の3名の弁護士は、2000年10月14日に「聖本摂理と日本の歴史」と題して家庭連合信者のIが九州で行った講演に家庭連合の当時の代表役員大塚克己氏が映った写真を証拠提出した。ところが、家庭連合が調査したところ、講演会当日大塚氏は海外にいたことが判明した。のみならず、前記写真は、同年7月24日に大塚が参加した大会映像を元に合成して作られたものであるとの分析結果が出た。そこで家庭連合が、証拠の捏造等を理由に大神弁護士ら3名の弁護士を対象弁護士とし、福岡県弁護士会に懲戒請求を申し立てた。ところが、対象弁護士らは、Iの講演ビデオの冒頭に大塚氏が参加した大会映像が映ったビデオを証拠提出し、この映像を撮影したため、たまたま大塚氏とIの講演会が二重写しになったと弁明した。家庭連合は、同ビデオ自体が捏造されたものであること、両講演会場は全く異なり、同一の講演会であると見誤ることはあり得ないこと、二重写ししても前記証拠写真は撮影できないこと、仮にそのような写真が偶然撮影できたとしても、これを証拠提出すること自体が重過失に当たることを主張して反論した。しかし、福岡県弁護士会は、ここまでのリスクを冒して証拠を捏造する動機はなかったはずであるなどの理由により懲戒請求を認めなかった。
 裁判では他にも、不可解な証拠が提出されたため、家庭連合側は異論を述べたが、結局福岡高裁は家庭連合側の主張を意に介さず、地裁判決を変更して原告の請求を大幅に認めた。地裁判決を変更するという重大な動機があった以上、「ここまでのリスクを冒して証拠を捏造する動機」が弁護士らにはあったと言えるはずである。弁護士会は弁護士らに対して身びいきな判断をしたと言わざるを得ない。また、事実と全く異なる画像を証拠提出する側をどこまでも勝訴させようとする高等裁判所の判断に対しても大いに疑問が残る。
(4) 浦和献金事件
 元家庭連合信者のSが家庭連合に献金したことを理由に、家庭連合及び信者らを被告として東京地裁に提訴した損害賠償請求事件で東京地裁は、2021(令和3)年3月1日、請求の一部について訴えを却下し、残部について請求を全面的に棄却し、家庭連合側が全面勝訴した。
 同事件原告は訴状において、統一教会の信者が先祖因縁を用いた脅しにより畏怖した原告に2100万円を献金させたと主張した。また、原告の陳述書において原告は、殺傷因縁、色情因縁を説かれ、因縁を祓わないと毎晩枕元に先祖が現れて責められるなどと言われて恐れ、献金しなければ病気や事故などの不幸が起こると思って2100万円を支払わされたと述べていた。しかし、同原告が2006(平成18)年1月13日付で、同原告の世話をしていた家庭連合の信者に宛てて書いた手紙には以下の記載があった。

 M子さんとめぐり会えてからの1年間は本当に心が安定し、幸せ感を味わっております。
 私のつまらないお話をいつもニコニコ笑顔で聴いてくださりありがとうございました。何もかもはだかで話せることの喜びを体験できましたことは本当によかったです。この世の中で恨みや苦しみをかかえて生きていたらきっと病気になっていたと思います。今の気持ちは重荷を少しずつおろしていくような心地で快いです。「今に、わかりますから…」というM子さんの言葉に誘導されつつ、1つずつわかってきました。
 誰もがもつ悩みをこのような形で解決するなど想像もしておりませんでした。神を信じるということはこれほどまでに心が解放されるなど信じてみなければわからないことでした。今にわかりますという言葉は「あなた自身にあることですよ」「あなたが感じることですよ」という思いの世界である信仰の世界を教えていただき本当によかったと思っています。

 こうした証拠の積み重ねにより、原告の主張・供述の虚偽性が明らかとなったのであった。
 なお、同事件では原告は、原告の手書きメモが書き込まれたノートや金融機関の通帳等の証拠を複数提出した。これらメモにつき原告は陳述書では、「基本的にその都度記入した」と述べ、献金等を行った当時に書き込んだメモであるとの趣旨を供述した。しかし、家庭連合がこれらを分析した結果、これら手書きメモが当時書き込まれたものではなく、最近になって裁判を有利に進めるために書き込まれたものであることが判明し、家庭連合はその論証に努めた。
 この結果判決は、「本件ノートの記載については、原告自身、後に加筆した部分があることを(尋問で)認めており、原告が被告らへの返還請求を考えるようになった後に自己の都合が良いように書き加えた可能性が否定できず、これを直ちに信用することもできない」、「カードの履歴に記載された手書きの記載についても・・・原告が被告らへの返還請求を考えるようになった後に記載したものであることが明らかであって、その正確性には疑問があり、直ちに信用できるものとはいえない」と認定するなど、同事件原告の手書きメモの信用性の欠如を繰り返し認定した。
 裁判に不慣れな原告が自らこうした改竄を行ったとは考え難く、代理人弁護士らの指導に基づきこうした改竄が行われた可能性は否定できない。
 なお、同事件では、原告が家庭連合の現役の信者であった頃、夫からの信仰に対する反対及び献金返還の強要を恐れ、自身が自由意思で献金等を行った事実を念書に記し、公証役場で署名する手続(私署証書の認証)を行っていたことも家庭連合が勝訴した大きな要因となった。ところが、裁判で同事件原告は、この念書の効力を否定するため様々な虚偽主張・虚偽供述を積み重ねた。
 例えば、原告は陳述書で、2007年4月、夫が癌の手術に成功して退院した翌週に被告信者から手術の成功のことを引き合いに出されて念書作成を迫られたと供述していた。ところが、実際には夫が癌の告知を受けたのは2009年3月3日であり念書作成の約2年後であったことが明らかとなった。にも関わらず、癌の手術が成功したこと引き合いに出されて念書作成を迫られたというのはどういうことか。
 なお、念書作成経緯に関する原告Sの供述の矛盾は夫の手術の件だけに止まらない。判決も、同原告の供述の矛盾を複数詳細に列挙した上で、「念書作成に関する原告の供述は、それ自体、相矛盾する点を多く含むため信用できない」旨結論づけている。
(5)長野献金事件
 家庭連合信者であったTとその後見人でTの長女Hは、Tの家庭連合に対する献金を理由に家庭連合及び信者らを被告として東京地裁に損害賠償請求訴訟を提起した。これに対して東京地裁は2021年5月14日、家庭連合に対する訴えを全面的に却下し、また被告信者らに対する請求を全面的に棄却した。2022年7月7日には控訴審の東京高裁でも原審判断が維持され家庭連合及び被告信者らが全面勝訴した。既に最高裁への上告も却下されており、2023年5月時点では、上告受理申立事件について最高裁の判断を待っているところである。
 本件事案の概要は以下のとおりである。
 原告Tは三女からの誘いで家庭連合の教義を勉強し、創始者文鮮明師が世界平和実現のために貢献してきたことを学び、自身も同じような生き方をしたいと欲し、家庭連合に献金した。ところが、2015年8月に帰省した原告H(長女)が母である原告Tに対して「お母さん私に何か隠していることあるでしょ」と言って、原告Tから家庭連合に対して献金した事実を聞き出した上、その奪還をほのめかした。心配になった原告Tは同年11月、家族との関係で同様の悩みを抱えていた友人信者と共に、家庭連合に対していかなる請求も行わない旨約束する念書を作成して公証役場で認証を得る手続(私署証書の認証)を行い、紛争を未然に防止しようとした。また、自身が自由意思によって献金してきたことを書き記した陳述書に公証役場で確定日付を受け、更には自身の証言をビデオ映像に残した。
 同年11月12日、原告Hは原告Tを松本市の実家から和歌山の親戚の家に連れ出した。三女は原告Tと連絡を取ることができなくなったことから心配し、原告Tと原告Hとを相手方として家庭裁判所に家族関係調整調停を申し立てた。ところが原告Hは、調停には出席しない旨伝える書類を同家裁に提出し、家裁からの呼出を無視した。同書類には原告Tの自筆書簡が添付されており、そこには、三女が原告Tの土地を売却させ献金させたとか、三女が預貯金を献金させたなど、実際の経緯と全く異なる記載がなされた上、心の整理ができるまで当分三女に会うつもりはないなどと書かれていた。
 一方、原告Hは原告Tとの間で任意後見契約を締結し、原告Tがアルツハイマー型認知症であるとの2016年5月27日付診断書を元に家裁に申立てを行い、同年7月より任意後見を開始した。診断書の「計算力」に関する欄には、「計算は全くできない」と記されていた。
 その後、原告Hは原告Tを長野県の老人福祉施設に隔離した。同年11月30日、同所を探り当てた三女が同施設を訪問したところ、原告Tは三女の来訪を大変喜び、本音を語った。その要旨は以下の通りである(この内容は録音され法廷に提出されている)。
 ①土地は自分の意思で売却した。家庭連合に献金したのも自分の意思だった。教会での勉強は楽しかったし、文鮮明師のことは尊敬している。
 ②家庭連合に献金したことが長女(原告H)に知れると長女から酷く怒られた。和歌山の親戚の家や長野の施設は、自分の意思に反して長女によって入れられたのであり、本当は自宅に帰りたい。
 ③一番親孝行なのは三女だ。自分は三女のことが「大好き」で、縁を切りたいなどとは思っておらず、会いたいと思っていたが長女が三女との「絶交」を指示した際、長女が恐くて嫌だと言えなかった。また長女が携帯を解約したため三女に連絡できず切なく思っていた。長女は怒ると鬼みたいに恐ろしく、自分を施設に入れた後は会いにも来ない。
 ④長女が家庭裁判所に提出した私の自筆書面は長女が書いたものを写しただけだった。
 ⑤長女の請求により仮に家庭連合から献金が返金されたら3人の娘に分けたい。

 なお、三女が原告Tに対して3×3、1+10といった計算問題を次々と出したところ、同原告は素早く回答した。この結果、家裁による後見開始決定の資料となった前記診断書の「計算は全くできない」との「計算力」に関する所見も、かなり怪しいものであることが判明した。
 三女の来訪から1週間後に、原告Tは「私の真実」と題する手書きの書面を書かされている。そこでは、因縁話を聞かされ恐怖心を感じて献金したこと、三女が施設に来て怖かったこと、2度と三女に来て欲しくないといったことなどが書かれていた。後日同書面は裁判所に証拠として提出されたが、上記録音データによりその内容の虚偽性が明らかとなった。
 2017年3月16日、原告T及び原告Hが前述の通り家庭連合等を被告として訴訟提起した。裁判で原告側は、家庭連合の信者らが原告Tに先祖因縁を説いて因縁を解放しなければ夫の病気は悪化すると繰り返し述べ、原告Tの判断能力が著しく低下していたのに乗じて献金させたと主張した。一方、被告側は、原告Tは信仰心から自由意思に基づき献金したにもかかわらず、十分な意思能力のある原告Tを原告Hが被後見人に仕立て上げて原告Tの意に反して同原告を施設に隔離し、同原告が大好きで最も親孝行だと思っていた三女との面会を妨げつつも、自身は原告Tの面倒を看ず、同原告の意に反して裁判を起こし、自身の相続財産を確保しようとしたと主張した。遂に原告Tは一度も法廷に姿を現さなかった。同年6月12日、原告Tは公正証書遺言を作成した。その中で、家庭連合に対する損害賠償請求権についてはすべて原告Hに相続させる旨の記載がなされていた。この内容は、家庭連合から献金が返金されたなら3人の娘達で分けたいと欲しているとの原告Tの前記発言とは全く矛盾するものであった。
 上記録音データなどの証拠によって原告主張の虚偽性を立証することができたため、被告家庭連合及び被告信者らは全面勝訴することができた。また、本件でも原告Tが作成した念書の効力が問題となったが、裁判所は、原告らの主張を排斥し念書の効力を認めた。
 全国弁連の弁護士らは上記事件の最高裁における巻き返しを図り、メディアを通して信者が書いた念書の効果を否定する方向で世論を扇動した。この結果、遂に岸田首相は2022年11月29日、新法を巡る衆議院での審議の中で、「自主的に献金した」という念書にサインさせられた場合にはむしろ違法性を示す要素となり、損害賠償請求が認められやすくなる可能性があるとの認識を示した。しかし、実際に裁判で判明した事実は上記のとおり、むしろ原告側の主張・供述の虚偽性こそが問題となったのであった。岸田首相は、メディアにせき立てられる余り、十分な事案の検討もしないまま軽々に上記発言をしたのではないかと疑わざるを得ない。

民事訴訟で「カルト宗教」は勝たせない傾向
 上述の通り、全国弁連には、家庭連合信者を拉致監禁して脱会強要を行う脱会専門業者らを家庭連合信者の親族に紹介するなど常軌を逸した活動を行う弁護士らがいたことが明らかとなった。この点全国弁連の山口広弁護士は拉致監禁が行われていたとの認識はなかったと証言するが、少なくとも後藤徹事件に関する宮村峻氏の関与が裁判で違法と認定されたことは動かしようのない事実である。また、全国弁連弁護士らが原告代理人を務める献金訴訟における原告側の虚偽主張、虚偽供述についても、先に挙げた事例に見られるとおりである。そもそも全国弁連は被害者救済のためではなく、スパイ防止法制定阻止など、一定の政治的目的から設立されたことも最近報道されるに至っている(『月刊Hanada』2023年1月号掲載記事「統一教会問題の黒幕」・福田ますみ氏)。
 全国弁連が家庭連合を貶める手法は、実際には「被害者」など殆ど存在しないにもかかわらずメディアを動員して反家庭連合キャンペーンを行い、人々を不安に陥れて被害意識を殊更に煽るというものである。安倍晋三元内閣総理大臣に対する銃撃事件後においても、全国弁連は、家庭連合こそが事件の元凶であるかの論調を作り出し、家庭連合信者やその親族を不安に陥れ、「被害者」造りに奔走した。
 メディアは、家庭連合を「反社会的団体」であるとして攻撃したが「反社会的団体」だとする根拠は、民事裁判で敗訴しているからだと言う。しかし、①多くの原告が拉致監禁・脱会強要といった人権侵害によって、あるいは、家族らからの反対によって人為的に作出された被害者であり、②裁判では原告側に虚偽主張・虚偽供述が散見され、③裁判所の判断も極めて不公正と見られる場合、果たして、家庭連合は裁判で敗訴しているから「反社会的団体」である、との論調は成り立つのであろうか。
 なお、裁判所の判断の不公正は家庭連合側だけが主張していることではない。かつて全国弁連に所属していた伊藤芳朗弁護士の前記供述によれば、民事訴訟では「カルト宗教だと負け」という裁判所の枠組みがあり、「他の事件では認められないような請求も相手がカルト宗教だと安易に認められてしまう、という裁判所の傾向」があるというのである。実際、こうした傾向があったからこそ、全国弁連側も不当請求、不当訴訟を継続することができたのである。
 2021年には、家庭連合を被告として下された3件の判決のうち、前記浦和献金事件及び長野献金事件の2件の事件で家庭連合側が全面勝訴を収めた。また、2022年には東京高裁で勝訴し、今年2023年にも家庭連合側は1件の献金裁判で全面勝訴を収めた。
 家庭連合に対してであればどのような不当請求も認めるという、従前の裁判の傾向に変化が見られるのである。したがって、こうした点からも、家庭連合は民事裁判で敗訴しているから「反社会的団体」だとする論調は全く通じなくなっていると言える。

【資料3】

【資料4】
(4)元赤旗記者の萩原遼氏の著書『淫教のメシア・文鮮明伝』のデタラメぶり
 反対牧師が1980年代、脱会説得に用いた書籍に萩原遼著『淫教のメシア・文鮮明伝』(晩聲社)がある。反対牧師は、この書籍を根拠に〝血分け〟の中傷を行ってきた。
 例えば、日本基督教団・機関紙「教団新報」1986年4月26日号に、川崎経子牧師が、親族によって監禁された家庭連合信者を脱会説得するとき、萩原遼氏の書籍を読ませて動揺させたとある。同様の記事が「教団新報」1987年4月4日号の第2面、同1987年11月7日号の第1面にも記載されている。
 反対牧師は、この萩原遼氏の著書を読ませながら、家庭連合信者を脱会させるための説得を行ってきた。このデタラメな内容の『淫教のメシア・文鮮明伝』によって、脱会させられた元信者がいることは、実に寒心に堪えない。
 では、萩原氏は何をもって〝血分け〟があると言うのであろうか?
鄭鎮弘氏の〝推論〟に基づいた論文
 萩原氏は、まず韓国神学研究所の研究誌「神学思想」75年秋号掲載の鄭鎮弘氏の論文「宗教祭儀の象徴機能」をその根拠としている。萩原氏は、次のように述べる。
 「血分けは、統一協会発祥の日より今日まで25年にわたって連綿とうけつがれてきたのだ。その事実がわかったのは、ソウルから筆者の手もとに届いた一冊の学術雑誌からだった」(10ページ)
 「240ページにおよぶ朝鮮語の学術誌を読みすすめるなかで、『宗教祭儀の象徴機能』の論文にきて、筆者はおどろきから声をあげそうになった。……集団結婚式こそ血分けの儀式にほかならないとはっきりと書かれているのである」(16ページ)
 萩原氏は、鄭鎮弘氏の論文をベースに、統一教会では〝血分け〟をやっているという著述を進めている。
 では、果たして萩原氏がいうように、この論文が、〝血分け〟をしているという明確な証拠を提供しているのであろうか。実は、この萩原氏の発言には、〝虚偽〟が含まれている。
 萩原氏は『淫教のメシア・文鮮明伝』の資料篇に、〝その証拠〟とする鄭氏の論文を翻訳して、収録している(144~166ページ)。それを読むと、鄭氏自身は、「聖婚」や「祭儀的両性具有化」という観点から推論してみるときに、「少なくとも一定の段階までは(例えば3子女聖婚式や33組聖婚式までは)そうした『儀礼的性交』がおこなわれたであろうという可能性を完全に排除できない」(160ページ)、「『血分け』の現実性が推測される……」(164ページ)と述べているにすぎない。つまり、鄭氏は「『儀礼的性交』がおこなわれたであろうという可能性を完全に排除できない」と推論しているにすぎず、具体的証拠は全くないのである。
 ところが、萩原氏はそこから一気に飛躍して、血分けの事実が「はっきりと書かれている」というのである。これは捏造とも言える行為である。
 鄭氏の「少なくとも一定の段階までは(例えば3子女聖婚式や33組聖婚式までは)そうした『儀礼的性交』がおこなわれたであろうという可能性を完全に排除できない」とする主張について、後述するようにこの聖婚式に参加した韓国の古参の元信者(36家庭)も「血分け」はなかったと否定している。
元信者の筆記ノート
 次に萩原氏は「朝日ジャーナル」1978年10月6日号記載の和賀真也牧師の文章を証拠にしている(30ページ)。
 和賀牧師のニュースソースは元信者の筆記ノートである。そこには、萩原氏が憶測する「文師と肉体関係を持たなければならない」という内容は一切なく、何ら証拠になっていない。しかもそれは、萩原氏が問題にしたがっている〝血分け〟に関するものではなく、あくまでも〝夫婦間だけ〟で行われる「三日行事」について、ある元信者がノートに書きまとめたものと思われる。これも、〝血分け〟の証拠には何らなっていない。
 ところで、和賀牧師は、その著書『統一協会と文鮮明』(新教出版社)で、夫婦間だけで行う「三日行事」に関する質疑応答と思われる内容に、卑猥な表現と補足を勝手に書き加えて掲載している(292~296ページ)。
 また、川崎経子牧師は、「初夜の一つ一つの動作まで詳細な規定があるようだが、それが真実であるとすれば、とてもイヤラしくて、私にはそれを書く勇気がない」(『「原理に入った若者たち」――救出は早いほどいい』42ページ)と述べている。萩原氏自身も『淫教のメシア・文鮮明伝』で、この三日行事を「醜悪な儀式」(29ページ)と決めつけている。
 しかし、夫婦の性生活について述べることが果たしてイヤラしいことであろうか。一般キリスト教でも信徒の信仰指導として、テオドール・ボヴェー著『真実なる結婚』(ヨルダン社)、同著『性と愛の発見』(YMCA出版)、H・P・ダン著『愛と性と結婚生活』(サンパウロ)など、夫婦の性生活を具体的に指導した書籍が数多く出版されている。
 家庭連合の「三日行事」は、夫婦として原罪から解放されるための家庭出発時の重要な宗教儀式である。儀式である以上、その手順に間違いがあってはならず、丁寧にその内容が説明されることは当然のことである。それを川崎牧師のように宗教儀式であることを考慮せず「イヤラし」と俗世的判断をするのは、宗教人として余りにも見識がないと言わざるを得ないのである。
名誉毀損となった元信者・金明煕の証言
 また、萩原氏は〝血分け〟に関する内部告発があったとして、金明煕氏(男性の元信者)の発言を証拠としている(34~40ページ)。しかし、金氏はこの件で、韓国の裁判所によって「名誉毀損」などの罪状で裁かれ、1年6か月の実刑に処されている人物である。萩原氏はその事実を知っていながら、あえてそれを証拠としているのである。
 しかも、『淫教のメシア・文鮮明伝』のあとがきの末尾には〈補遺〉として、小さな文字で「告訴人金明煕氏は、訴状提出後、統一協会より名誉毀損で逆告訴され、敗訴し姿を消したといわれる。韓国中央情報部(KCIA)が背後にある統一協会を訴えることの困難さをあらためて示したと言える。だが、この『敗訴』がそのまま金氏の主張を無効とするものでないことはいうまでもない。……金氏の告訴も、韓国の民主化の進展とあいまって、もう一度問い直される日がくると思う」(193ページ)と平然と述べている。さすが元赤旗記者と言わざるを得ない悪意に満ちた記述である。韓国の大法院が〝虚偽の判決〟をしたと言わんばかりの問題発言で、韓国の法廷への侮辱と言うべきものである。
 結局、萩原氏が〝血分け〟の証拠として取り上げた、元信者・金明煕氏の発言自体も、何ら証拠になっていない。
卓明煥氏の証言
 さらに、萩原氏は〝血分け〟の証拠として、「韓国の研究者による研究成果によってあとづけてみよう」(『淫教のメシア・文鮮明伝』44ページ)と述べ、拉致監禁による強制脱会説得の草分け・森山諭牧師の著書と同様に、卓明煥氏の証言を盛り込みながら、独自の論述をしている。
 この卓明煥氏の〝血分け〟の中傷が事実に反し、何の根拠もないことを統一教会側が追及した際に、卓氏は1978年9月、統一教会への「謝罪文」を発表している。萩原氏はそのことを知っており、そのためか個別の名前を明記せず、あえて「韓国の研究者」とあいまいに表現している。また、前掲書の巻末の〈補遺〉で「卓明煥氏が、その後、『あれはおどされて書いたものだ』とそのいきさつを公表し、反撃に転じた」(193ページ)と述べ、卓氏を擁護している。
 しかしながら、1993年10月27日放送の某テレビ局のワイドショーで、卓明煥氏自らが「統一教会は教理的にはセックス教理だが、今まで実際には証拠がなかった(朴正華著『私は裏切り者』224ページ)と真相を激白しており、そのような情報をいくら書き綴ったところで、何ら証拠にはなっていない。ちなみに、このワイドショーに一緒に参加した36家庭の元信者・劉孝敏氏が、番組で〝血分け〟を否定したことを朴正華氏は次のように書いている。
 「テレビでは、『血分け』の話がでてきたので、36家庭の劉孝敏氏に注目が移り、劉氏の妻が文氏とセックスをして『血分け』をしたのか、という(司会者の)質問が出た時は緊張した。……大方の期待を裏切って、劉氏は『血分け』を否定した。自分たち(劉孝敏氏夫婦)が祝福を受けたとき、文先生との『血分け』はなかったといったのである」(同、223ページ)
 萩原遼著『淫教のメシア・文鮮明伝』は、「36組の結婚式までは文鮮明がじきじきに新婦に血分けをおこない、その女性たちを新郎に与えていた」(24ページ)と書いているが、そのような事実はないのである。
金景来著『原理運動の秘事』について
 さらに、萩原氏は事もあろうに、萩原氏自らが「批判に急なあまり……文筆家の守るべき初歩的なルールに反した部分が少なくない」(96~97ページ)と批評している金景来著『原理運動の秘事』をその証拠として挙げている。自らが〝問題あり〟とする書から、わざわざ引用している萩原氏自身にこそ、問題ありと言わざるを得ない。
 しかも萩原氏は、金景来氏の著書を引用しながら、そこで改竄とも言える行為をしている。萩原氏は(文師は平壌で)広海教会という名称の教会を建て、その中心に納まった」(64ページ)と書いているが、金氏の著書には、「文師が広海教会の中心に納まった」とは、どこにも書いていないのである。
 金景来氏の著書には、「彼ら(李龍道牧師、黄国柱牧師の弟子)は広海教会という看板を掲げ、昼夜となく集まっては手を叩きながら賛美歌を歌うのであった。李、黄の両人が分裂して引退した後、つまり8・15解放を前後した時期にこの集団に1人の青年が登場したが、それが文鮮明であった。文は、その当時、国内で一流に属する富豪朴某氏の姑と、いわゆる彼らのいう清潔な性交をすることによって混淫派の上座につくようになった。ここで、彼らの元祖である李、黄と文鮮明の中間には当然無名の混淫派10人余りが介在したとみるべきである」(『原理運動の秘事』43ページ)とあるだけである。
 つまり、そこに書かれていることは、萩原氏が言うような、文師が「広海教会という名称の教会を建て、その中心に納まった」のではなく、広海教会の信徒が、李牧師、黄牧師の分裂後に、断定することはできないにしても、文師のもとに幾人かが集まってきたと推測される、としか読めない文章なのである。
 萩原氏は、特定の意図に合わせるために、著者の言っていないことまでも、そこに読み込んで曲解しており、それこそ「文筆家の守るべき初歩的なルールに反した」ことを自ら行っているのである。
 しかも、李龍道牧師と黄国柱牧師は共に活動したことがない別の集団であるにもかかわらず(閔庚培著『韓国キリスト教史』日本基督教団出版局、132~136ページ、および同著『韓国キリスト教会史』新教出版社、342ページ)、金景来氏は、李牧師と黄牧師が一緒に活動していたかのように書いており、金氏の著述自体の信憑性が問われてしかるべきなのである。そのような事実関係を確かめずに引用する萩原氏の著作も、「血分け教にたいする批判に急なあまり、金景来のいっていないことを勝手につけ加えたり……文筆家の守るべき初歩的なルールに反した部分が少なくない」類のものでしかない。
 ちなみに、萩原氏は、統一教会に〝血分け〟があったことの傍証として、張愛三というクリスチャン女性の証言を挙げている(69ページ)が、これも疑問符のつく金景来氏の著書からの引用である。しかも、その証言の使われ方が、金氏サイドにも、萩原氏サイドにも問題があり、二重、三重の疑問符を付さなければならないものとなっている。
 張女史は牧師夫人であったとされるが、金景来氏の『原理運動の秘事』によれば、張女史は1957年3月18日付け「世界日報」(注、現在の「世界日報」とは異なる別の新聞)に自らの罪の告白を掲載した。その中で張女史は、自分が牧師夫人でありながらいわゆる『血分け』を受けたとしている。ところが、この告白文の中で張女史が批判しているのは、その当時、教勢を拡大し、かつ多くの批判も受けていた朴泰善牧師(の集団)に外ならない。文師については、風聞に基づいた間接的批判しか展開していない。
 張女史は直接的には、朴泰善牧師との間でイザコザが生じたのに、これを萩原氏は統一教会との問題であったことに〝すり替え〟ようとしているのである。金景来氏によれば、それは張女史の夫の経営する孤児院への寄付問題であったとされる(『原理運動の秘事』28~38ページ)。
 金景来氏は、この部分の書き出しで、張女史が統一教会の李泰允牧師と霊体を交換(注、血分け)したことを、張女史の夫である白英基牧師が聞いたことから始めているが、もしこの李泰允牧師が統一教会の人物であったならば、白牧師は統一教会と争うはずなのに、その後に続く文章は白牧師が朴泰善牧師と利害関係が対立したとの説明になっている。
 したがって、張女史と霊体を交換したとされる李泰允牧師は、朴泰善牧師側の人物でなければつじつまが合わないのである。ここにも、金景来氏の記述の信憑性のなさが伺われるのである。
 ちなみに、この牧師夫人の〝血分け〟告白の件について、森山諭牧師著『現代日本におけるキリスト教の異端』は、情報の出所を明確にしないで、文師と牧師夫人が〝血分け〟をしていたとして、「韓国でこの運動が問題化したのは、文氏がある牧師夫人と血分け行為中、主人に発見されました。主人は牧師の立場上、苦しみながらも不問に付しましたが、その夫人は良心の呵責に耐えかね、公けの席上でそれを告白したことから、世論のひんしゅくを受け、マスコミを沸かしました」(114ページ)と書いている。
 この情報は、内容から見て、張女史の告白が他の風聞と混ざり合って、かたちを変えたものと思われる。森山牧師は、すでに文師との間で〝血分け〟があったと決めつけており、風聞は人から人へ伝わるうちに〝事実へと変貌を遂げる〟恐ろしさを感じるものである。
 以上のように、改めて検証してみると、萩原氏が証拠として挙げているものは、すべて証拠になっていない。これでは、萩原氏の論述のすべてが〝捏造〟と疑われても仕方がないのである。
萩原氏の驚くべき〝事実の捏造〟
 萩原氏の著書にはさらに驚くべき〝事実の捏造〟がある。実は、萩原氏は、文師が李龍道牧師から直接〝血分け〟を教わったかのように書いているのであるが、李龍道牧師は、文師が故郷・定州におられた13歳の時、すでに客死しており、2人は直接会ったことはない。それにもかかわらず、萩原氏は次のように書いている。
 「文は混淫・血分けという醜悪な教義とその実技を学んで目を開かれた。……1946年6月6日、またも〝神の啓示〟で文は北朝鮮の平壌に行く。平壌は当時、混淫・血分けの本拠であり、李龍道や黄国柱というこの道では知られた〝教祖〟たちがいた」(52ページ)
 「この李龍道の集会では『汎性欲主義的な原理を集会のたびごとにひそかに教えた』のであった。ところが、10代半ばのころの文鮮明の経歴を統一協会はひた隠しにしており、霧につつまれている」(55ページ)
 「10代半ばの文は、李龍道の説く『愛の講論』にすっかり酔いしれてしまい、はじめてきかされる未知の世界にがく然として異常な興味を覚えたのである。そして、学業もそっちのけでこの教理に沈溺した」(56ページ)
 「統一協会の公式文献によると、10代のころの文鮮明はいったいなにをしていたのか。学校に通っていたことと16歳のときの神の啓示しか出てこない。まして、このころに、血分け教の開祖である李龍道のもとに通っていたことなどおくびにも出していない」(57ページ)
 萩原氏は、まるで文師が李龍道牧師と直接会ってでもいるかのように滔々と書き連ねている。ここで、萩原氏は〝完全な創作〟をし、すでに死んでいる李龍道牧師が生きているものとして〝事実を捏造〟しているのである。これでは、萩原氏の著作全体に信憑性がないことが強く疑われても致し方ないことである。
 (注)文師がソウルへ行かれたのは、1938年春、京城商工実務学校電気科に入学されたときで、満18歳であった。ところが、萩原氏は54ページで、1934年春、ソウルの五山高等普通学校に編入したと書いている。これも明らかな間違いで、文師が1934年に編入されたのは、定州にある私立五山普通学校で、このような間違いを平然と犯している。いずれにせよ、この時すでに李龍道牧師は死去していた。
 萩原氏は、日本共産党機関紙「赤旗」の元記者である。如何に「赤旗」の元記者であろうと、〝事実を捏造〟することは許されることではない。この著書が出版された1980年ころは、日本共産党が連日、「赤旗」で統一教会を誹謗中傷していた時期である。
 統一教会に対して敵意を抱いていた萩原氏は、その延長上で、言わば「初めに結論ありき」の立場から〝血分け〟の中傷をしているのである。
 客観的証拠が一切なく、ただ悪意から書かれた〝虚偽の内容〟の悪本を用いた脱会説得によって、家庭連合信者が脱会させられてきた事実は、極めて遺憾である。

【資料5】
(5)反対派に乗せられて書いた朴正華著『六マリアの悲劇』の真相
 家庭連合(旧統一教会)に対する〝血分け〟の中傷は、1950年代半ばから絶えず行われてきた。しかし実際には、卓明煥氏が日本の某テレビ局のワイドショーで、「今まで実際には証拠がなかった」(1993年10月27日)と自白したように、証拠は何もないにもかかわらず、反対派が語り続けてきた〝虚偽〟なのである。
 家庭連合を貶めるため、何としてもその証拠になるものを提示したいと切望していたところに、問題の書、朴正華氏の『六マリアの悲劇』(恒友出版、1993年11月4日刊)が登場してきたのである。
 朴正華氏は、その後、悔い改め、『六マリアの悲劇』で書いた文師のセックス・スキャンダルは、すべて〝でっち上げだった〟として、真相告白の書『私は裏切り者』(世界日報社、1995年11月1日刊)を出版した。
 では、著者の朴正華氏が〝でっち上げ〟であることを自ら暴露した、問題の書『六マリアの悲劇』は、どのようにして出版されることになったのか。その経緯について、朴正華氏自らが『私は裏切り者』の「はじめに」で、次のように述べている。長文になるが、重要なので次に引用する。
 「当時(1993年)、日本では、韓国で行われた3万双国際合同結婚式以来、統一教会に異常な関心が集まっていた。そこに、教会の草創期を先生とともに歩んだ男が、『真のサタンは文鮮明だ』と銘打って、ありもしない先生の『セックス・スキャンダル』をブチ上げたのだから、これは一大事件である。統一教会批判のネタ漁りに余念のない反統一教会ジャーナリストが、黙って指をくわえたまま放って置くはずがない。
 たちまち私は、〝統一教会バッシング〟に便乗、相乗りした週刊誌やテレビ・ワイドショーの寵児となってもてはやされた。なぜ、大恩ある先生をマスコミに売るような信義に悖ることをしたのか。それは先生に対する憎しみ、抑えることの出来ない私憤のためである。私は『六マリアの悲劇』を、先生と差し違える覚悟で書いた。先生の宗教指導者としての生命を断ち、統一教会をつぶして俺も死ぬ、そんな破れかぶれな気持ちだった。だから、ありもしない『六マリア』までデッチあげたのである。
 昔から宗教指導者を陥れるためには、セックス・スキャンダルほど効果的なものはない。聖なるものを泥まみれにして叩きつぶすには、その最も対極にあるセックス・スキャンダルほど有効な手段はない。そのことは誰もが知るところで、私もその卑劣な手段に手を染めた。
 『生きるも死ぬも一緒』とまで誓った男と男の約束を、自ら裏切るほどの憎しみが生じたのは、なぜか。その赤裸々な告白が、この本の一つのテーマであるが、ここでかいつまんでお話しよう。
 私は夢で、文先生が『再臨のメシア』だと教えられ、一緒に生活する中で、多くの奇跡を体験してきた。だから、先生が再臨のメシアであると確信できたのである。ところが、人間とはおかしなもので、いくら夢のお告げを聞いて体験しても、めまぐるしく移り変わる現実生活がだんだん自分中心になっていくと、それにつれ自分自身も見失っていく。そうなると、神の摂理のために公的に生きる先生まで、自分中心にしか見られなくなる。統一教会の教勢が発展していくにつれ、優秀な人材が教会に入ってくる。摂理を進めるために、先生がその人たちを活用する。
 そういう時、私は何か自分が疎外されているのを感じ、愛の減少感にとらわれ、孤独の淵に落ち込む。そうなると、なかなか立ち直れない。真理を学ぶ気持ちもおきないし、祈る気持ちにもなれない。ただ、寂しさだけがひたひたと募ってくる。自分だけのことしか意識のいかない、そんな世界を乗り越えることは難しいことだ。その時、自分の心に何かが囁きかけてくる。あなたは正しいんだ。あなたを認めない相手が悪いんだ。そんな相手は倒さなければならない―と。強烈な自己正当化と相手に対する批判と憎悪。
 聖書には、イエス様を裏切る前のイスカリオテのユダに『サタンが入った』と書かれているが、そのような得体の知れない冷たい思いこそ、サタンの囁きかも知れない。これにとらわれると、だんだん居ても立ってもいられなくなる。お前を裏切ったのは文先生の方だ。お前は先生にだまされている。先生は身内のものを身近におき、先生のために苦労したものを無慈悲にも捨て去った。その証拠に、お前も追い払われたではないか。憎め!悔しがれ!復讐だ!彼を倒すために何でもやれ…。
 こんな時に限ってよくしたもので、日本の出版社から〝おいしい〟出版話が持ちかけられた。金に困っていた当時の私には、願ってもない話だった。『朴先生の本だったら20万部は売れますよ』と。〈定価1500円の印税10%、一部につき150円で、20万部だと3000万円(韓国のウォンで約2億1000万ウォン)が手に入る計算になる〉と、ついその気になり、とんでもない本を出してしまった」(2~5ページ)
 朴正華氏は、家庭連合(旧統一教会)の草創期を歩んだ、数少ないメンバーの一人である。しかも、興南の徳里特別労務者収容所で文師とめぐり会った、古参信者の一人であった。ところが、後から入教してきたメンバーが自分より優遇されて用いられていく姿を見て、寂しい思いにとらわれ、やがてその寂しさが憎しみへと変貌を遂げていったのである。
 その憎しみに取り憑かれた朴正華氏は、まさに〝魔がさした〟ように文師を貶めてやろう思っていたのである。朴正華氏が文師を憎んでいることを知った反対派の人々が、朴正華氏を放っておくはずがない。願ってもない獲物が来たと言わんばかりに、朴正華氏に急接近し、うまい出版話を持ちかけていったのであった。
 こうして、朴正華氏は家庭連合反対派のジャーナリストおよびキリスト教関係者らから持ち上げられ、センセーショナルにマスコミでも取り上げられるようになった。そして出版されたのが『六マリアの悲劇』(恒友出版)だったのである。
 しかし、朴正華氏はその後、『六マリアの悲劇』の内容は、〝文師に対する個人的な恨みからでっち上げた作り話で、真相はこうである〟として、約2年後の1995年11月1日、『私は裏切り者』(世界日報社)を出版したのである。そうなった経緯を、朴正華氏は次のように語っている。これも長文になるが、次に引用する。
 「『六マリアの悲劇』を出版した後、私は本の販売キャンペーンのため日本全国の反統一教会グループの集会に顔を出し、本のPRをして歩いた。キャンペーンの反応は悪くなかったので、私の期待は膨らんだ。しかし、意気込みに反して本はあまり売れなかった。
 そんなある日、ソウルの安炳日氏から仁川の自宅に電話が入った。会いたいというので、気軽にOKをした。仁川から電車でソウルに出て、待ち合わせたロッテホテルのコーヒーショップで彼と会った。私は当然、彼が私の本の出版を非難してくると思っていた。そうしたら、その場ですぐ殴ってやろうと思った。そして、この本をさらに英訳して世界に公表しようと思っていた。たまたま、日本の反統一教会グループから、再び全国巡回講演の依頼を受けていた時でもあった。
 『朴先生、お元気ですか』
 にこにこして挨拶する彼に、私は『あーっ』とあいまいな返事をしながらコーヒーを飲み始めた。私は、先生を裏切る行為に出た理由を、一つ一つ語った。
 『捿鎮鉱山に追いやられ、何の援助もなかった』こと。
 『教会に戻ろうとしたが、組織が出来上がっていて、もう自分の位置がなかった』こと。
 『後から来た者に「はい、はい」と頭を下げることができない』ことなどである。
 さらに『ダンベリーに7回も手紙を出したのに返事がこない』こと。
 『一和の金元弼社長に20回も電話したが、返事もこない』ことも付け加えた。
 自分の主張をまくしたてたあと、教会を出た後に反教会グループの者から聞いた悪口も、怒鳴るように大声を出して吠えた。彼は、私の話をたっぷり2時間の間、黙って聞いてくれた。それで、私の心はすっきりした。安氏はそれから、問題の一つ一つについて丁寧に説明してくれた。
 彼とは、金徳振氏の一件で一緒に仕事をしたことがある。心の中で、統一教会にもいい人がいるんだな、とかつて抱いた思いがよみがえってきた。本の出版前に彼に会っていれば、こんな馬鹿なことはしなかったかも、という悔悟の気持ちがわいてきた。
 その日はそれで別れ、その後彼と2、3回会って話をした。彼は最後に会ったとき、日本の兄弟たちが(朴正華)先生の本で相当苦しめられている、とポツリと言った。私は〈何言っているんだ。今まで俺を疎外したくせに。日本の兄弟が苦しむのは、(文鮮明)先生に対する復讐なのだ。ざまあみろ〉という気持ちに戻った。
 それから少し経ったある日、安氏から電話が入った。また会いたいという。会ってみると、彼は真剣な表情でこう切り出してきた。
 『朴先生と一緒に日本で本を出版した人たちが、政府のある高官と手を組んで、朴先生の本を韓国語に翻訳し、2、3百万部を韓国中にばらまき、統一教会を壊滅状態に追い込む。それをやめさせてやるから、2、3百億ウォンを自分たちに払えと脅迫してきた』
 驚いた私は、彼の顔をじっと見つめていると、『自分は、政府の関係者を通して、金大統領がそのようなことをするのかと尋ねたところ、そういうことはないと言われた。もし、それが本当なら恐喝で彼らを牢屋に入れる、と言われたそうだ』
 私は、心臓が止まるほどの驚きを覚えた。
 『朴先生は、その一味に加担しているのですか』
 たしかに、私は、(文鮮明)先生をやっつけようとしたが、それは私憤からである。それが、仲間に利用されて統一教会を恐喝し、金儲けの道具にされていることを知り、義憤と落胆が交錯した。だが、安氏は私を咎めなかった。彼は、逆に私をなぐさめてくれた。人間とはおかしなものだ。悪口を言われると、『何を!』と対決する力が出るが、過ちを怒らないでかえって慰められると、何か悪いことをしたような反省の気持ちにさせられる。
 さらに、少し日が経って、安氏ともう一度会った。
 『日本で反対派が、先生の本を利用して兄弟たちを苦しめている』
 最初にそれを聞いた時は、〈ざまあみろ〉という気持ちだったが、それが金儲けのための道具に利用されていると聞いた後なので、私の心は複雑だった。ちょっと可哀想な気がして、良心の呵責を覚えた」(231~234ページ)
 朴正華氏は、〝個人的恨み〟を晴らそうとする動機から『六マリアの悲劇』を出版しようとした。ところが、その本を、心ない一部の反対派の人たちに悪用され、しかも自分を出し抜いて、本人の知らない水面下で家庭連合に〝脅迫まがい〟のことをしているのを知って興ざめしたというのが、朴正華氏が悔い改めた第一の理由だったのである。
 おそらく、孤独な自分の味方だと思っていた反対派からの、いわば「裏切り行為」に遭い、統一教会にいたときに感じた「愛の減少感」以上の疎外感や空虚感を感じたのであろう。もちろん、そこに至るまでには、嘘をついてしまったことに対する良心の阿責から来る「後ろめたさ」と、安炳日氏の、心温まる〝心のケア〟があったのは言うまでもない。
 そして、朴正華氏が悔い改めた2つ目の理由は、『私は裏切り者』の中に書いていることであるが、安炳日氏から紹介されて日本の世界日報社社長の石井光治氏と会い、統一運動の現状を聞かされ、さらにアメリカに渡って統一運動を視察して回ることで、かつて興南の収容所で文師から聞かされていたことが現実のものになっている状況をまざまざと見せつけられ、深く感動したことが挙げられる(参照、『私は裏切り者』237~248ページ)。
 そして、第3の理由として、太田朝久著『統一教会の正統性』を読み、特にイエスの歩まれた生涯と文師の歩まれた生涯路程が、あまりにもよく似ていることを知ったことが一因でもあったとのことである(『私は裏切り者』248~251ページ)。
 このように、朴正華氏は悩んだり苦しんだり、また仲間から裏切られたりして、心の傷を受け、安炳日氏の〝心のケア〟を受けて、立ち直ることができたのであった。
 それにもかかわらず、浅見定雄氏は、(朴正華氏は)日本で本を出したりすれば大金が入ると思っていた期待が裏切られたため、再び統一教会へ寝返ったというだけの話」(『統一協会ボディコントロールの恐怖』かもがわ出版、37ページ)と切り捨てている。これは、あまりにも人の心を踏みにじる発言としか言いようがない。
 『六マリアの悲劇』(恒友出版)は、家庭連合反対派の人々の甘い誘いに乗せられてしまった朴正華氏が〝魔がさした〟かのように出版してしまったデッチ上げの書である。
 ところが、日本で出版された『六マリアの悲劇』が、反対派の策略によって韓国語に翻訳される作業が行われ、韓国にて1996年3月1日付けで『野録統一教會史』(큰샘출판사)という題名で出版された。
 この『野録統一教會史』の出版は、朴正華氏の本意ではなかった。悔い改めて家庭連合に再び帰った朴正華氏に〝秘密〟にして、反対派が出版に漕ぎ着けたものである。事実、この『野録統一教會史』に掲載されている朴正華氏の「前書き」部分は『六マリアの悲劇』(日本語版)の「あとがき」を一部削除して転載したものであり、著作日付も1993年10月の古いままになっている。これは、著者の意向を完全無視して出されたためである。
 韓国で出版された事実を知ったとき、朴正華氏は「その出版は、本人の許可なくして出したもので、違法に当たる」として法的訴えを起こしたのである。
 しかし、満83歳という高齢であった朴正華氏は、係争中、志半ばにして、1997年3月26日に亡くなった。その2か月前の1月に、彼が念願し続けてきた家庭連合の「祝福結婚式」を受けている(「ファミリー」1997年5月号、4ページ)。
 ところが、反対派はそれらの事の成り行きを知らない家庭連合信者に対し、『私は裏切り者』が1995年11月1日に世界日報社から出された後で、1996年3月1日、韓国語訳の『野録統一教會史』が出版されていることから、〝この韓国語の出版が新しい事実から見ても、『私は裏切り者』は家庭連合側がかってにでっち上げて出版したものだ〟と脱会説得をすることもあったのである。これは、反対派のあくどさを表すものである。『私は裏切り者』の出版に際して、朴正華氏自身が日本の教会を巡回し、涙ながらに〝この書籍の内容が真実である〟と語った証拠の映像もある。
 このような出版事情をひた隠しにする手法は、反対派全体に見受けられる傾向である。例えば、1997年8月20日付で出版された浅見定雄監修『統一協会ボディコントロールの恐怖』(かもがわ出版)でも、こういった出版事情のあることを無視し、さも『六マリアの悲劇』には真実が書かれてあるかのごとき思わせぶりで、文師に対するゆがんだ情報を垂れ流し続けている。
 浅見定雄氏は、『六マリアの悲劇』について「この本の最大の意義は、著者の朴正華氏が統一協会の創立前から文鮮明の片腕だった人であり、文鮮明の『血分け』(『復婦』という)の乱行の生き証人であるという点にある。著者は自分自身も文鮮明の指示で血分けを実行させられたと告白している。この本で明らかになったことはたくさんある……」(『統一協会ボディコントロールの恐怖』14ページ)と記述しているが、著者の朴正華氏本人が1995年11月1日に『私は裏切り者』を出版して『六マリアの悲劇』の内容は〝でっち上げた作り話〟であると告白し、すでに取り消しているにもかかわらず、1997年8月20日に『統一協会ボディコントロールの恐怖』を出版し、前述のように述べるのは、事実を蔑ろにした実にあくどい手口と言わざるを得ない。
 これが反対派の手口である。まさに「嘘も百回言えば真実になる」を地で行っている。文師や家庭連合は長い間、証拠もないのに、キリスト教関係者や反対派グループから〝淫行の教祖〟〝血分け教〟と言われ続けてきた。それは、初代キリスト教会時代においても同様である。極めて古い初期の頃からユダヤ教側が、「イエスを私生児、姦婦の子としてはげしい批判をあびせており、『聖母』マリアとローマ兵士とのゴシップもユダヤ人の間に広くばらまかれていた。二世紀の哲学者ケルズスは、イエスは大工の許婚マリアとローマの兵士パンテラとの間にできた私生児であるとして、はげしくキリスト教を攻撃した」(土井正興著『イエス・キリスト』三一新書、10ページ)と噂し始め、その噂はなかなか止まず、オリゲネスがAD248年頃に書いたとされる『ケルソス駁論』においてさえ、まだ弁明し続けなければならなかったほどである。
 キリスト教会も、近親相姦をしているとか、いかがわしい儀式をしているとか、長い間、噂された歴史的事実があるが、それと同じ状況を家庭連合に対する〝血分け〟の中傷にも感じざるを得ない。

【資料6】
(1)文師の北朝鮮での2度の拘束事件における「血分け批判」の〝虚偽〟
 浅見定雄氏は『統一協会=原理運動――その見極めかたと対策』「性のスキャンダル」という小見出し部分で、以下のように述べている。
 「文鮮明は1944年、日本敗戦の前の年にソウルへ戻り、さらに46年には北の平壌へ帰る。ところがそこで、1946年8月には『混淫』による『社会秩序混乱』の容疑で大同保安所(警察署)に3ヶ月収容される。また48年2月には、ある実業家の人妻との『強制結婚』の現行犯となり、興南刑務所で懲役5年(または5年半)の実刑(相手の人妻も10ヶ月の実刑)に服する。文のセックス教祖ぶりの初めである。(統一協会側はこれらの事件を共産主義権力の謀略だったと抗弁するが、かれの罪名は共産主義への『反乱罪』でも何でもなく、簡単明瞭にセックスに関するものである。)」(72ページ)
 橋爪大三郎氏は、浅見氏の著書から無批判で引用し、『日本のカルトと自民党』「『血分け』の儀式」という小見出し部分で、次のように述べている。
 「文鮮明が信徒の女性と性行為を行なうことは、統一教会の教義からすれば、当然のことなのだ。これを、『血分けの儀式』という。文鮮明は、宗教活動を始めたころから、性的スキャンダルの噂にまみれていた。1946年に収監されたのは、『混淫』の容疑である。1955年の梨花女子大の事件も、被害女性の手記などで内実が明らかになっている(浅見、72~76頁)」(236ページ)
 しかし、浅見定雄氏および橋爪大三郎氏のこれらの記述は、事実に反する〝虚偽〟である。文師が北朝鮮に行った1946年6月の翌月、文師の弟子になった金元弼氏は、1946年8月11日、文師が大同保安署に連行され、拘束された事件について次のように証言している。
 「先生が46年に北に来られてから……毎日のごとく礼拝や集会をもたれ、朝早くから夜遅くまで涙に満ち、霊的雰囲気が高まっていました。それで静かではなかったのです。村の人たちは、この集団はどういう人たちが集まって、何をしている人だろうと相当気を付けて見ていました。
 先生は南から北に来られた時に、身分証明書も何も持っていなかったので、村の人たちは、李承晩大統領が外形は牧師というかたちで密使(スパイ)として送ってきたのだという疑いをもち、46年8月11日、先生は保安署(警察署)に連行されるようになりました」(『伝統の源流』光言社、38ページ)
 文師は、李承晩政権(韓国側)が送ってきたスパイであるとの嫌疑をかけられ連行されたのである。1946年8月11日は日曜日であった。文師と弟子が礼拝を行うために集まっているところを、確実に文師を連行できる日を狙って警察が踏み込んだのである。
 ところが、ルポライター山口浩氏はその著書『原理運動の素顔』で、「1948年8月17日、文鮮明が平壌の大同保安署(警察)に逮捕された。新興宗教問題研究家、卓明煥氏(在韓国)によれば、逮捕理由は『社会秩序混乱容疑』だという。卓氏は、あの当時、社会常識では考えられない乱交を行なったからだとする」(エール出版、168ページ)と述べている。山口浩氏の著作は、逮捕された年月日が間違っているのみならず、礼拝を行っている日曜日に「乱交を行ったからだ」と述べ、デタラメな記述をしている。
 また、1948年2月22日、文師は北朝鮮・内務省に連行され、拘束されたが、この事件に関して、金元弼氏は次のように証言している。
 「48年の2月22日の日曜日でしたけれども、官憲がやってきて、先生の牢屋の生活が始まっていくのです。日曜日には10時に礼拝が始まります。その2時間前に来てお祈りの準備をしていました。食口たちが相当来ていたのですが、官憲たちが入ってきました。……先生が連行される時に、私は先生の隣を歩きました。電車の通る市街を通りかけた時でした。色々な音がするのですけれども、私の耳には、先生をやゆする声が聞こえてきました……そのようにして、先生と私と女性食口2人(総計4人)が共産党当局の内務省に連れて行かれました。女性食口は2日目に拘束が解け、私は4日目に出獄しました。先生だけを残すようにして、ついていった人は全部帰ってきたのです」(71~72ページ)
 北朝鮮・内務署に拘束された事件も、日曜日の礼拝が行われるのを狙って共産党当局が踏み込んだのである。拘束された理由は、キリスト教牧師から共産党当局に80通を上回る投書があったためである。牧師から当局に「80通の投書(があり)先生は魔術をする人だといううわさが出ていました。それは一般の教会で一生懸命やっていた中心的な信者が、先生の話を聞いてからは牧師のいうことを聞かなくなって、何十年間も因縁をもってきた教会をきっぱりと切ってしまい、すぐ私たちの教会へ来るようになったからです」(同)と、金元弼氏は証言している。
 ところが、浅見定雄氏は「48年2月には、ある実業家の人妻との『強制結婚』の現行犯となり、興南刑務所で懲役5年(または5年半)の実刑(相手の人妻も10ヶ月の実刑)に服する。文のセックス教祖ぶりの初めである。(統一協会側はこれらの事件を共産主義権力の謀略だったと抗弁するが、かれの罪名は共産主義への『反乱罪』でも何でもなく、簡単明瞭にセックスに関するものである)」(『統一協会=原理運動』72ページ)と述べている。これは、浅見定雄氏のデタラメな記述である。
 山口浩氏は『原理運動の素顔』で次のように述べている。
 「1949年5月、北朝鮮の傀儡集団の警察は、文鮮明を混淫罪のかどで逮捕した。今もソウルに居住している金某女史の夫が告発したためであるが、当時、文は神の啓示を受けたとして、本妻がいたにもかかわらず、女性信徒金某女史と強制的な婚姻式ごとをやっていたところを警察に踏み込まれて逮捕されたのである。金某女史は懲役10カ月、文は5年6カ月の実刑を言い渡された」(163~164ページ)
 山口浩氏は、このように述べていながら、わずか数ページ後では次のように述べている。
 「卓氏の調査によれば……女性信者金某女史と結婚式を挙げたので、1949年2月22日、重婚罪で再び文は逮捕された。重婚罪は罪が重い。5年の刑を課せられ、文は興南刑務所に服役した。この卓氏説以外にも、重婚罪ではなくて、混淫罪で逮捕されたのだ、という説がある。それは前に公開した『社会悪と邪教運動』(日本訳=原理運動の秘事)である」(169ページ)
 以上のように、山口浩氏は、1948年2月22日の事件について、163ページで「1949年5月」と述べているが、169ページでは「1949年2月22日」と述べるなど、いずれも年数が間違っているだけでなく、163ページでは、月までも間違うという基本的な点で情報が誤っており、その記述内容自体もいい加減で信用性がないことが明らかである。
 1948年2月22日は日曜日である。まさに礼拝を行おうとする時、共産党当局が踏み込んだのである。日曜日に踏み込んだのは文師を確実に連行するためである。連行された4人のうち、女性信者2人は2日後に釈放され、金元弼氏も4日後に釈放され、文師一人だけが残されたというのが事実である。
 そして、文師は同年4月7日の公判で「5年の刑」を宣告されたのである。女性信者2人は連行後、2日後に釈放されており、女性信徒が実刑判決を受けた事実はない。
 ところが、浅見氏は「相手の人妻も10ヶ月の実刑」、山口浩氏は「金某女史は懲役10カ月」と述べているが、10カ月の実刑判決を受けた女性信者は存在しない。
 ちなみに、元赤旗記者の萩原遼氏の著書『淫教のメシア・文鮮明伝』は、実刑判決を受けた女性信者がいるとの記述は何もない。
 これほどに浅見氏や山口氏の記述内容は根拠のない、いい加減でデタラメな情報の垂れ流しなのである。
(2)梨花女子大事件(1955年)に関連した「血分け批判」の〝虚偽〟
 橋爪大三郎氏は、『日本のカルトと自民党』で浅見定雄氏の著書を引用しながら、次のように述べている。
 「文鮮明は、宗教活動を始めたころから、性的スキャンダルの噂にまみれていた。……1955年の梨花女子大の事件も、被害女性の手記などで内実が明らかになっている (浅見、72~76頁)」(236ページ)
 この梨花女子大事件について、浅見定雄氏は『統一協会=原理運動』で、次のように述べている。
 「文も自由の身となって再び南へ戻る。ところがここでも文は、いわゆる『梨花女子大事件』のような凄まじいセックス事件を引き起こす。これについては和賀氏や萩原氏のほか、山口浩氏の『原理運動の素顔』(エール出版社)を参照してほしい。そこには、文の餌食となった元梨花女子大英文科4年生の生々しい告白も載っている」(72~73ページ)
 後述するが、梨花女子大事件は、兵役法違反で起訴された事件であり、「セックス事件」などではない。また、和賀真也氏の記述は、「血分け」などではなく、信者夫婦が家庭を持つときに夫婦間で行う宗教的儀式である「三日行事」(注、この意味は後述する)の内容に他ならない。また、萩原遼氏の著書のデタラメぶりや虚偽についても後述する。
 ところで、山口浩氏は『原理運動の素顔』で次のように述べている。
 「55年7月4日のことだった。罪名は『不法監禁嫌疑』と『兵役嫌否』。当時の新聞は一斉に書き立てた。〝婦女を弄絡した文教主の行状〟〝猟色行為、文教主は夫のある金順昌(仮名36)と同協会単間房(注:一間の部屋)でけしからん行為に及んだ〟」(186ページ)
 山口浩氏は、さらに次のように述べている。
 「文教祖に青春を捧げたある婦人の告白
 李夏姫さん(仮名)は質素な煉瓦色のセーターに黒っぽいスカート、束髪にした地味な中年婦人だった。化粧気のないうりざね顔は、典型的な美人顔で、若いころはさぞ綺麗であったろうと思われる。だが、その顔には、1日の疲れが淀んでいた。彼女は職業婦人であり、1日の勤めをおえた夜に会ったからだ。以下、一問一答をする。
 ――貴女は当時、梨花女子大生でしたか?
 李 ハイ。
 ――何年生でしたか?
 李 4年生です。
 ――文鮮明に血分けをされた事実はたしかですか?
 李 ……(黙って頷く)
 ――それまで貴女は男性関係は?
 李 ……ありません。
 ――それでは処女を文鮮明に捧げたことになりますネ。
 李 ……(黙って頷く)
 ――あげてよかったのだとその時思いましたか?
 李 その時は、そう思いました。
  ……文が逮捕されたことがきっかけで、李さんは統一教から離れた」(192~193ページ)
 この李夏姫(仮名)に対する山口浩氏のインタビュー記事は、萩原遼著『淫教のメシア・文鮮明伝』77~78ページにも引用されている。
 ところで、梨花女子大事件の真相を『受難の現場』(光言社)がまとめている。当時、世間を賑わせたこの事件を、新聞は頻繁に記事として報じている。『受難の現場』から、当時の主な新聞記事を以下、取り上げる。
 「不法監禁等の嫌疑――統一教会教主を逮捕(『京郷新聞』1955年7月6日付)
 ……宗教界に大きな波紋を投げかけ、一部の教会では、邪教だとさえいうなど、少なからず、人々の目を引いてきたが、かなり前から、治安局、特殊情報課は、検察側と協議のもとに、同教に対する内偵を続けてきたところ、4日午後5時、ついに、同教教主・文鮮明(36)氏を、兵役法違反および不法監禁等の嫌疑で逮捕した」(123ページ)
 「文教主等、逮捕起訴(『平和新聞』1955年7月30日付)
 ……統一教会事件は、検察捜査が一段落し、29日、教主・文鮮明氏をはじめとする劉孝元、劉孝敏、金元弼氏等4名は、兵役法違反および徴発特別措置令違反で、劉孝永氏は兵役法違反で、各々逮捕起訴された」(124ページ)
 「文教主に懲役2年――昨日、統一教事件求刑(『平和新聞』1955年9月21日付)
 ……この日、公判場は、同統一教の男女信徒たちで、立錐の余地なく超満員であったが、話題の焦点となっていた教主・文被告の姦通嫌疑は、告訴権者の告訴がなかったため、やむを得ず、公訴を維持する理由がなくなり、前記の罪目だけで起訴されたものである」(124~125ページ)
 「文教主だけは無罪――統一教会事件言い渡し(『京郷新聞』1955年10月5日付)
 統一教会事件が、4日、ソウル地方法院でついに判決を受けたが、当事件の主人公である教主・文鮮明被告は無罪となり、その他4名の被告は、有罪と判決された。これらはみな、兵役法違反で起訴されたものだ」(126ページ)
 以上のように、梨花女子大事件は、兵役法違反で起訴された事件であり、浅見定雄氏が述べる「セックス事件」ではない。また、山口浩氏が述べる「血分けをされた事実」という「姦通嫌疑」自体がなかった裁判である。しかも、起訴された兵役法違反においても、文師は無罪であった。これが真実である。
 それにも関わらず、山口浩氏はこの事件をきっかけに脱会した李夏姫(仮名)という元信者の女性をとり上げている。「姦通嫌疑」自体がないのに、どうやって被害者だという女性を探し出したというのか? 大いに疑問である。この元信者の女性は、梨花女子大事件をきっかけに脱会したとしており、そのような素性の女性であれば、訴えてしかるべきなのに、辻褄の合わない証言である。すべてが作り話だと疑わざるを得ない。しかも、そういう女性を探し出したにも関わらず、その女性の証言が、実にあいまいな記述で終わっている。山口浩氏は、その女性が「黙って頷く」としか書いていないのである。
 なお、山口浩氏は『原理運動の素顔』「裁判では無罪となったが、火のない所に煙は立たない」(189ページ)と述べるが、ドライアイスに湯水をかければ火はないのに煙らしきものがモクモクと立ちのぼる。そして〝煙〟が晴れた後には何も残っていない。それと同じで、悪意があれば、火はなくてもいくらでも〝煙〟は立つのである。そしてこれは最近のマスコミ報道に指摘される事実を無視した〝印象操作〟と同じことなのである。

【資料7】
卓明煥氏の証言
 さらに、萩原氏は〝血分け〟の証拠として、「韓国の研究者による研究成果によってあとづけてみよう」(『淫教のメシア・文鮮明伝』44ページ)と述べ、拉致監禁による強制脱会説得の草分け・森山諭牧師の著書と同様に、卓明煥氏の証言を盛り込みながら、独自の論述をしている。
 この卓明煥氏の〝血分け〟の中傷が事実に反し、何の根拠もないことを統一教会側が追及した際に、卓氏は1978年9月、統一教会への「謝罪文」を発表している。萩原氏はそのことを知っており、そのためか個別の名前を明記せず、あえて「韓国の研究者」とあいまいに表現している。また、前掲書の巻末の〈補遺〉で「卓明煥氏が、その後、『あれはおどされて書いたものだ』とそのいきさつを公表し、反撃に転じた」(193ページ)と述べ、卓氏を擁護している。
 しかしながら、1993年10月27日放送の某テレビ局のワイドショーで、卓明煥氏自らが「統一教会は教理的にはセックス教理だが、今まで実際には証拠がなかった(朴正華著『私は裏切り者』224ページ)と真相を激白しており、そのような情報をいくら書き綴ったところで、何ら証拠にはなっていない。ちなみに、このワイドショーに一緒に参加した36家庭の元信者・劉孝敏氏が、番組で〝血分け〟を否定したことを朴正華氏は次のように書いている。
 「テレビでは、『血分け』の話がでてきたので、36家庭の劉孝敏氏に注目が移り、劉氏の妻が文氏とセックスをして『血分け』をしたのか、という(司会者の)質問が出た時は緊張した。……大方の期待を裏切って、劉氏は『血分け』を否定した。自分たち(劉孝敏氏夫婦)が祝福を受けたとき、文先生との『血分け』はなかっといったのである」(同、223ページ)
 萩原遼著『淫教のメシア・文鮮明伝』は、「36組の結婚式までは文鮮明がじきじきに新婦に血分けをおこない、その女性たちを新郎に与えていた」(24ページ)と書いているが、そのような事実はないのである。

【資料8】
文師の発言:「6マリヤ」「血分け」は存在しない
 文師は、いわゆる「6マリヤ」について、次のように語っておられる。
 「この者たち、『6マリヤ』だなんだという朴正華の言葉は、すべて嘘です。うわさになったことを(もって)勝手につくり上げて、ありとあらゆることをしたのです」(マルスム選集306-241、1998年9月23日)
 「統一教会の先生の息子娘を〝たちの悪い人間〟に仕立てようとする人々は、堕落した人々です。統一教会から追い出された人々が友人をつくり、そのような人(元信者)を立てることによって、生き残れる道があるといって、ありとあらゆる話をみな作るのです。何ということですか! 私も知らない『6マリヤ』の話、先生が女性たちを中心としてありとあらゆることをするという話、ありとあらゆる話を想像して、しゃべったのです」(マルスム選集462-219、2004年8月21日)
 「崔元福が統一教会において女性を代表して苦労したのです。今回の裁判事件(青春を返せ裁判)のゆえに、崔先生の名前が完全に肥溜めに落ちたようになりました。文社長まで(性関係があったと)そのように考えなかったですか。文社長!(『はい』)崔先生が全部、誤ったと考えたでしょう。率直に話してみなさい。(『確定的に崔先生が間違ったというよりも……』)そのような話はやめて答えだけいいなさい。みんな知っていることです。(『はい。疑いました』)疑うというより、そのように思っていたじゃないですか。私に対しても何回も話をしませんでしたか。私が『違う』といったのにです」(マルスム選集170-302、1987年12月4日)
 文師は、反対派のいう「文鮮明と崔元福との間で〝性関係〟があり、隠し子までいる」という風聞に対し、そのような事実はないことを明確に語っておられる。
 また、祝福家庭の〝核心メンバー〟である3家庭の夫人に対しても、文師は次のように語っておられる。
 「史吉子さんも、『原理講論』を中心として、『覚えて何々をしなければならない』と言っていますが、それは『原理講論』です。実体はどこに行きましたか? 自分はかかしのようなことをしているのです。かかしに頼って生きるのではありません。……主人になろうと史吉子さんも考えるでしょう? 『本体』である真のお母様以上の位置に立とうという話です。自分が、お母様のように堕落していない本然の息子、娘を生むことができますか? それは真の父母の種を受けて一体圏にいなければ不可能です。永遠にありえないことだというのです」(「ファミリー」2009年1月号、48ページ)
 文師は、3家庭の史吉子氏に対して、「真の父母の種を受けて一体圏」になったことのない人が「真のお母様以上の位置に立とう」と考えることがあったとしても、それは永遠にできないことだと語っておられる。さらに「本然の息子、娘を生むことができますか?」とも語っておられる。
 このように、文師は、史吉子氏が、文師との関係において、性関係がなかったことを、みんなの前ではっきりと語っておられる。前述したが、元信者の36家庭の劉孝敏氏も、「血分け」がなかったことを証言しており、反対派が長年言い続けてきた「最初の3組と33組は、実際に文鮮明の血分けを受けたと指摘されている」(川崎経子著『統一協会の素顔』235ページ)という批判は、何の根拠もない中傷にすぎないのである。
 さらに、文師は次のように語っておられる。
 「堕落とは何ですか。神様の最も貴いものを盗んだのです。悪魔の行為です。最も貴いものとは何かというと、愛と生命と血統ですが、これを汚したというのです。ですから、歴史時代において神様が最も嫌うものは淫乱です。……人類が世界的に淫乱の風に巻き込まれていくときは、鉄槌が加えられるのです。教団がそのようになるときは、教団が滅びていき、国がそのようになるときは国が滅びていき、歴史がそのように誤れば、その歴史の方向がみな壊れていくのです」(天一国経典『平和經』445ページ)
 また、韓鶴子総裁も文師について次のように語っておられる。
 「キリスト教が私の夫(文鮮明師)と一つになっていたなら、地上世界はもちろん、天上世界までも天国を成したはずです。新約時代が終わる1945年から1952年までの7年間に、神様の摂理に従って全世界が一つに統一されていたはずです。彼ら宗教指導者は、私の夫と一つになることはおろか……話を聞くこともせず、盲目的に反対しました。甚だしくはうそまでつきました。彼らは人格を抹殺しようとして、私の夫の教えとは正反対の淫乱の教祖と強欲の中傷を広めたのです」(天一国経典『平和經』961ページ)
 さらに、文師は16万訪韓セミナーにおいて、次のように語っておられる。
 「今も独りで結婚しないでいる女性もいます。『祝福を受けるように』と言っても、祝福を受けないのです。『自分は先生を慕った者です。誰と結婚するのですか』と言って、大変です。もし、先生がキスでも握手でもしてあげたら、大変なことになります。これはもう間違いなく、『関係を持った』と言う人(女性)が出てくるのです。そういう環境を通過しながら、よくも女に引っ掛からないでここまで来たものです。……もし先生がキスでもしてあげたら大変です。握手でもしてあげたら、それを条件としてどんなことでも引っ掛けてきます。ですから、……(韓鶴子総裁が)お母様として立つまでには、相当な心の苦労があったということを知らなければなりません。……『原理』を知らなければ大変なことになるのです。統一教会という存在もなくなってしまいます。正しく『原理』を知っているから、そういうことをコントロールしてきたのです。……でなければ、(女性を対象とする)こういう集会などできないのです」(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』287~288ページ)
 以上のように、「6マリヤ」や「血分け」という反対派による中傷と違って、文師は、軽々しく女性の手さえも握ってこなかったと語っておられる。これらの内容で分かるように、文師ほど〝純潔〟を重要視され、〝貞操〟を生命視してこられたかたはいない。
 さらに、文師は「天法三ヶ条」という最も重要な鉄則を、三つ挙げておられる。
 「今から、守るべき鉄則とは何かというと、一番目は、いかなる死ぬような出来事があったとしても、血統を汚してはいけない、ということです。……二番目は、人事処置を間違ってはいけないのであり、人権を蹂躙してはいけない、ということです。……三番目は何かというと、公金を盗んではいけない、公金を自分勝手に使ってはいけない、ということです。この三つです」(『ファミリー』2001年3月号、44~45ページ)
 どこまでも、血統の重要性を強調されるのが文師である。事実、文師は祝福家庭に対して、次のように語っておられる。
 「原理からすれば、一人の男(メシヤ)が二人の女とつきあうことはできないから、……(祝福を受ける女性の)旦那さんを、アダムを、接ぎ木して、ハンダ付けしてつくってあげるのです。先生は完成された旦那さん(真のアダム)の立場ですから、弟の立場、第二番目のアダムをつくるのです。あなたたちの旦那さんたち、天使長(祝福を受ける男性)を連れて来て、昔16歳の時に堕落した、その堕落前の基準が残っているから、そこに完成されたアダムの勝利の実体を接ぎ木するのです」(『祝福』1994年春季号、26ページ、1994年1月2日)
 「生殖器が、なぜ生まれたのでしょうか? 愛のため、生命のため、血統のため、良心のために生まれたのです。生殖器を通さずしては、愛も生命も血統も良心もないのです。……男性の生殖器は、男性のために生まれたのではありません。……それがだれのためのものであるのかといえば、女性のためです。ひとえに主人は、一人の女性です。二人ではありません。絶対に主人は一人です
 神様は、そのようなたったひとつの目的のために創造されたので、それを変えることはできません。男性の生殖器の目的は、永遠に唯一絶対の一人の女性のために存在し、女性の生殖器は、永遠に、唯一絶対の、一人の男性のために存在します。それは根本的公式であり、どんな力をもってしても変えることはできないのです。……男性の生殖器は、だれと一つになるようにできているでしょうか? 妻とです。単に女性というのではなく、妻とです。永遠に、たった一人の妻とだけです」(『ファミリー』1997年4月号10~11ページ、1997年2月13日)
 「男性の生殖器の目的は、永遠に唯一絶対の一人の女性のために存在し、女性の生殖器は、永遠に、唯一絶対の、一人の男性のために存在します。それは根本的公式であり、どんな力をもってしても変えることはできないのです」という教えは、『原理講論』にも重要な教訓として、次のように述べられている。
 「篤実な信仰者たちが、アダムとエバの堕落直前の心霊基準まで成長して霊通すれば、アダムとエバが克服できずに堕落したのと同じ試練によって、堕落しやすい立場に陥るようになる。したがって、原理を知らない限り、このような立場を克服することは、非常に難しいことなのである。今日に至るまで、多くの修道者たちが、この試練の峠を克服できずに、長い間修道した功績を一朝一夕に台無しにしたことは、実に惜しんでもあまりあることである」(222ページ)
 このように、男女問題は「功績を一朝一夕に台無しに」し得るほど大きな問題である。家庭連合は、どこまでも〝純潔〟〝貞操〟を守るというのが教えの真髄である。

【資料9】
二、反対派による「血分け」の言説の〝虚偽〟――反対派の誤った「統一原理」理解
橋爪大三郎氏のデタラメな「血分け」批判
 橋爪大三郎氏は、『日本のカルトと自民党』「『血分け』の儀式」という小見出し部分で、家庭連合には「血分け」があると述べているが、家庭連合には「血分け」は存在しない。これは、橋爪大三郎氏のデタラメな説明である。彼は、次のように説明している。
 家庭連合では、「メシアが信徒の女性すべてと性行為をしなければならない。……文鮮明が信徒の女性と性行為を行うことは、統一教会の教義からすれば、当然のことなのだ。これを、『血分けの儀式』という」(236ページ)などと述べているが、そもそも家庭連合には「血分け」は存在しない。
 橋爪大三郎氏は、堕落とは「(堕落)サタンがエバと性行為⇒正しくない結婚と家族⇒罪の血統が全人類に」(235ページ)とし、「これを打ち消すため」に、「(復帰)メシアが信徒の女性と性行為⇒正しい結婚と家族⇒神の王国を建設」(236ページ)などと述べているが、これは彼の歪んだ「統一原理」解釈に他ならない。
 以下、橋爪大三郎氏の著書から引用する。
 『血分け』の儀式
 統一教会の教義にとって、『血分け』が重要になる。
 『原理講論』の堕落論と、そこからの復帰の教義を考えてみると、それがわかる。
         *
 人類が堕落から復帰できるためには、
 (1)メシアが地上に送られ、結婚して、真の父母となる。
 (2)真の父母が、人びとの罪の血統をぬぐい清め、神との関係を正しくする。
 の手順が必要である。メシアは、神のもとから人間のかたちをとってやって来るので、罪の血で汚れていない。そして、イエス・キリストと違って地上で結婚し、地上で真の父母として神の王国を建設する。
 では、真の父母はどうやって、人びとの罪の血統をぬぐい清めるのだろうか。
 それには、堕落の出来事を打ち消す必要がある。
 エバが堕落したのは、サタンと性行為を行なったからだった。そこで罪の血がエバに入り、アダムに伝わり、血統を通じて人類一人ひとりに伝わっている。
 (堕落)サタンがエバと性行為 ⇒ 正しくない結婚と家族 ⇒ 罪の血統が全人類に
 これを打ち消すためには、メシアが信徒の女性すべてと性行為をしなければならない。するとその結婚は正しいものとなる。こうして罪の血統をぬぐわれた人びとが、神の王国を地上に建設することができる。
 (復帰)メシアが信徒の女性と性行為 ⇒ 正しい結婚と家族 ⇒ 神の王国を建設
 文鮮明が信徒の女性と性行為を行なうことは、統一教会の教義からすれば、当然のことなのだ。これを、『血分けの儀式』という」(234~236ページ)
 橋爪大三郎氏が、曲解した内容を述べるのは、『原理講論』の述べる「罪」と「堕落」の意味をまったく理解していないところからきている。
 橋爪大三郎氏は、彼の著書229ページで次のように述べている。
 「第一に、(統一原理は)罪=堕落、だとする。キリスト教(一神教)では、罪=神に背くこと、である。神との関係で、罪が定義される。それは、堕落ではない。統一教会では、罪は堕落である。神との関係でなく、サタンとの関係で、罪が定義されているからだ」
 ここで、橋爪大三郎氏は「統一原理」に対する〝無知〟を露呈している。彼は、「罪=堕落」だと述べるが、『原理講論』は「罪」と「堕落」を明確に区別して論じている。
 「罪」について、『原理講論』は罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう」(121ページ)と定義している。すなわち、罪とは「天法に違反する」ことであり、これは、神との関係において定義されている。
 「堕落」について、『原理講論』は「人間始祖が天使長と血縁関係を結ぶことによって、すべての人類はサタンの血統を継承して、みな悪魔の子女となってしまったのである(マタイ三・7、マタイ二三・33、ヨハネ八・44)。それゆえ、人間始祖は神と血縁関係を断ちきられた立場に陥ってしまったのであるが、これがすなわち堕落である(429ページ)とあるように、堕落とは、人間が神と血縁関係を断ちきられ(神の血統の喪失)、〝サタンの血統〟になったことをいうのである。ちなみに、新約聖書のマタイ3章7節では、洗礼ヨハネがユダヤ人に対し「まむしの子らよ」と述べ、マタイ23章33節では、イエスが律法学者らに向かって「へびよ、まむしの子らよ」と叱責し、さらにヨハネ8章44節でイエスが「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者……彼〈悪魔〉は偽り者であり、偽りの父であるからだ」と述べている。これらの聖句は、堕落によって人間の血統が、神の血統からサタンの血統に変わったことを示唆している。
 このように、『原理講論』は「罪」と「堕落」を明確に区別している。両者は同じではないにもかかわらず、橋爪大三郎氏は「罪=堕落」であるとして統一原理を曲解し、両者を混同している。この混同から、橋爪大三郎氏のデタラメな「血分け」批判が生じている。橋爪大三郎氏は、『原理講論』をまともに読んでもいないし、ましてや理解もしていないのである。
人間は堕落によって、どのようにサタンの血統につながったのか?
  ―― 橋爪氏の誤った解釈「性行為を行ったから……罪の血がエバに入った」
 文師は、人間始祖が堕落することで、どのようにサタンの血統につながったかを解き明かしている。橋爪大三郎氏は、「エバが堕落したのは、サタンと性行為を行なったからだった。そこで罪の血がエバに入り」と的外れなことを述べている。しかし、このエバの堕落時点では、まだ「罪の血がエバに入(って)いない。これは橋爪氏のかってな解釈に過ぎない。
 『原理講論』は、霊的堕落について次のように述べる。「非原理的な愛の力は、彼ら(天使長ルーシェルとエバ)をして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである」(109ページ)。天使長ルーシェルは肉体を持っていないため、この霊的堕落の関係は〝肉体関係〟ではない。また、これは〝偽りの夫婦関係〟である。
 文師は次のように語っておられる。
 「愛には、縦的愛と横的愛があるのです。父子関係は縦的愛であり、夫婦関係は横的関係です。縦的愛は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません(『文鮮明先生の日本語による御言集・特別編1』17~18ページ)
 文師は、「夫婦関係は血統的につながりません」と述べているが、霊的堕落におけるエバと天使長ルーシェルとの関係は、あくまでも〝偽りの夫婦関係〟であり、血統はつながらないのである。
 この天使長ルーシェルがサタンとなったのであるが、天使長は霊的な存在であり、肉体を持っていない。そのため、霊的堕落の時点で、人間と血統的につながりようがない。では、どうやって人類は、サタンの血統に結ばれたのであろうか。サタンの血統になったことを、悪なる「血統転換」という。
 文師は、次のように語っておられる。
 「堕落の責任は、サタンを中心としてエバから始まり、アダムに移りました。すなわち、(霊的堕落によって)偽りの生命の種を受けたエバの立場からすれば、神様に代わってサタンが父の位置でエバと一体となって、アダムを生んだ立場となり堕落がなされました。こうしてエバは、天使長とアダムを各々父と息子のような立場に立てて堕落した(天一国経典『平和經』908ページ)
 ここで、文師が「エバは、天使長とアダムを各々父と息子のような立場に立てて堕落した」と語っているように、堕落エバとアダムの肉的堕落(=肉体関係)によって、天使長とアダムが「父と息子」(=偽りの父子関係)の立場となり、〝偽りの血統〟がつながったのである。肉的堕落は、偽りの関係であっても〝偽りの父子関係〟という縦的愛の関係を結ぶことで〝偽りの血統〟がつながったのである。すなわち、「父子関係は縦的愛であり……縦的愛は血統的につなが(る)ことで、人間は偽りの父(=サタン)と血統的につながったというのである。それゆえ、イエスは「彼〈悪魔〉は偽り者であり、偽りの父である」(ヨハネ8・44)と語っているのである。この肉的堕落によって、〝サタン側への血統転換〟が起こり、人間始祖はサタンと血統的につながったのである。
 すなわち、堕落エバが天使長とアダムを「父と息子のような立場」に立てて堕落した時、この偽りの「縦的愛」の関係によって、アダムは〝サタンの血統〟に連結された。この偽りの「縦的愛」の関係によって、人間始祖は、神の血統からサタンの血統に転換されたのであるが、これが悪なる「血統転換」なのである。
神側への「血統転換」はいかになされるか?
 文師は『平和神経』で次のように語っておられる。
 「生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです」(28ページ)
 前述したとおり、肉的堕落によって、堕落エバがアダムを〝サタンの息子〟の位置に生み変えたとき、彼女は〝偽りの母〟の役割を果たしたのであった。ゆえに、肉的堕落における、堕落エバと堕落アダムの関係は〝偽りの母子関係〟である。エバは、悪なる「母子協助」をしたというのである。堕落エバもまた、このとき偽りの母子関係という〝縦的愛の関係〟によって、サタンの血統につながったのである。
 したがって、神側に血統転換するとき、女性が〝母親の役割〟を果たして男性を生み変えなければならない。サタン側への血統転換は、あくまでもエバとアダムの肉体関係、すなわち肉的堕落によって起こったので、それを元返すための神側への血統転換は、あくまでも祝福を受けた「妻」と「夫」との関係によってのみなされるのである。これは、堕落のとき、エバとアダム(夫婦の関係)の肉的堕落によってサタン側への血統転換が起こった(注、霊的堕落によるのではない)ため、神側に帰るときも祝福を受けた女性と男性(夫婦の関係)の間でのみ行われる「三日行事」によって、神側への血統転換が起こるのである。
 ゆえに、橋爪大三郎氏の言う「メシアが信徒の女性すべてと性行為をしなければならない」という反対派の主張する「血分け」理論は、家庭連合の一連の祝福行事において入る余地は全くないのである。
 ちなみに、復帰摂理において、母が神の摂理のため、神側に立つ息子に善なる「母子協助」しなければならないのが復帰摂理の原則になっているが、それは堕落の時にエバが悪なる「母子協助」をしたためである。
 ところで、前述したように、文師が「愛、生命、血統」について語っているように、「霊的堕落と肉的堕落」(107~111ページ)という二段階の堕落行為で、サタンの〝偽りの愛〟を中心に、エバが〝偽りの生命〟となり、その堕落エバが肉的堕落によってアダムをサタンの息子に生み変えることで、〝偽りの血統〟がつながったのである。すなわち「偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統」である。文師が、「生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです」と語っているごとく、偽りの関係であっても、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の〝実り〟として、堕落人間は、肉的堕落によって〝サタンの血統〟に連結されたのである。
 霊的堕落は、あくまでも天使長ルーシェルとエバの〝霊的性関係〟であり、肉体関係ではない。ところが、肉的堕落の場合、それはエバとアダムの〝肉体関係〟である。
 この人間始祖エバとアダムの肉体関係で〝サタン側への血統転換〟が起こったため、それを蕩減するのが、祝福を受けた家庭における「夫」と「妻」の肉体関係による〝神側への血統転換〟なのであり、それが「三日行事」という家庭連合の宗教的儀式である。
理論上、まったくあり得ない「血分け」
 文師は、約婚式、聖酒式、結婚式の一連の「祝福の過程とその意義」について、次のように語っておられる。
 「皆さんが約婚式をしたのちには、聖酒式があり、その次に結婚式があります。それではこの約婚式と聖酒式、そして結婚式とは一体何でしょうか。これはある典礼に従って行われる式ではありません。堕落したすべての内容を、もう一度象徴的に再現させ、それを蕩減するために行う不可避の行事なのです」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』905ページ)
 祝福結婚式の一連の行事(約婚式、聖酒式、結婚式、祝祷)は、堕落の内容を象徴的に再現させ、反対の経路で蕩減復帰する行事であるというのである。すなわち、霊的堕落の土台の上で肉的堕落によって起こった〝サタン側への血統転換〟を、反対の経路で清算するということである。
 一連の行事で、まず、約婚式と聖酒式を行うのであるが、その儀式は原罪を清算する式であるとして、文師は次のように語っておられる。
 「堕落によって汚された血統を継承したので、それを転換しなければなりません。これ(聖酒式)をしなければ原罪を脱げず、原罪を脱がなければ真の子女として祝福を受けられる段階に上がることができません。原理がそのようになっています。堕落によって生じた原罪を脱ぐ血統転換、すなわち血肉を交換する式が聖酒式です」(同、906~907ページ)
 聖酒式は、堕落によって血統的に汚されたサタンの血を抜いてしまうものです。言い換えれば、原罪を抜いてしまう式だというのです」(同、907ページ)
 「約婚式と聖酒式は、サタン世界で生まれた人間が、真の父母によって再び生まれるという条件を立てる蕩減儀式なのです。女性が先に堕落したので、女性が先に復帰され、男性を再び産むようにする過程を内的に通過する式が聖酒式なのです。そして結婚して40日以後に、それを外的に通過する式(三日行事)があります。これらが全部蕩減儀式なのです」(921~922ページ)
 以上の内容から分かるように、聖酒式は〝原罪清算〟の儀式である。原罪清算は、霊的堕落と肉的堕落によるアダムとエバの〝天法違反〟に対する〝罪の清算〟であるため、真の父母と祝福を受ける女性(=堕落エバ)と男性(=天使長の立場)の三者間で〝天法違反〟の罪を清算しなければならない。これが、聖酒式による原罪清算である。
 しかしながら、〝堕落の問題〟(=サタン側への血統転換)は、肉的堕落によって生じたものなので、まず聖酒式によって三者間で原罪清算した土台の上で、肉的堕落(=サタン側への血統転換)の問題を解決し、神側への血統転換をしていかなければならない。
 すなわち、「女性が先に堕落したので、女性が先に復帰され、男性を再び産むようにする(神側への血統転換の)過程を内的に通過する式が聖酒式でもあると語っておられる。この霊的堕落による天使長ルーシェルとエバの関係は、あくまでも〝霊的性関係〟であり、肉体関係ではない。しかも、霊的堕落の時点では、サタン側への血統転換は起こっていない。サタン側への血統転換は、肉的堕落によるのである。
 したがって、「天の血統」をもってこられた真の父母による〝約婚式〟〝聖酒式〟および〝結婚式〟と〝祝祷〟によって、真の愛、真の生命が伝授され、そして真の血統を〝内的に伝授〟されるのが、一連の聖酒式を中心とした儀式である。これが血統転換を「内的に通過する式」となる。
 この場合、サタンの〝偽りの愛〟〝偽りの生命〟を受け継いだ「霊的堕落」を元返すために、今度は、神側の〝真の愛〟〝真の生命〟を伝授されるには、教祖(メシヤ)との肉体関係は全く必要ないのである。これは、どこまでも真の父母を中心とする約婚式、聖酒式、結婚式、祝祷によってなされるものであり、肉体関係は不要である。
 すなわち、サタン側への血統転換は、堕落エバとアダムの関係における肉的堕落の問題によって、アダムがサタン側へ血統転換がされたため、その肉体関係(=夫婦関係)を元返すには、あくまでも〝偽りの愛〟〝偽りの生命〟を伝授された祝福を受けた女性と男性の関係においてなされるものである。すなわち、祝福を受けた男性を、サタンの血統から神側の血統へと生み変える「血統転換」は、「結婚して40日以後に、それを外的に通過する式、すなわち三日行事なのである。したがって、肉体関係を持つのは祝福を受けた「夫」と「妻」との夫婦間だけでなされるのである。これが、〝サタン側への血統転換〟を起こした「肉的堕落」を元返しするための〝神側への血統転換〟である。
 したがって、教祖(メシヤ)との間で行う性的関係、いわゆる反対派がいう「血分け」なるものは存在しないのである。
文師の発言:「6マリヤ」「血分け」は存在しない
 文師は、いわゆる「6マリヤ」について、次のように語っておられる。
 「この者たち、『6マリヤ』だなんだという朴正華の言葉は、すべて嘘です。うわさになったことを(もって)勝手につくり上げて、ありとあらゆることをしたのです」(マルスム選集306-241、1998年9月23日)
 「統一教会の先生の息子娘を〝たちの悪い人間〟に仕立てようとする人々は、堕落した人々です。統一教会から追い出された人々が友人をつくり、そのような人(元信者)を立てることによって、生き残れる道があるといって、ありとあらゆる話をみな作るのです。何ということですか! 私も知らない『6マリヤ』の話、先生が女性たちを中心としてありとあらゆることをするという話、ありとあらゆる話を想像して、しゃべったのです」(マルスム選集462-219、2004年8月21日)
 「崔元福が統一教会において女性を代表して苦労したのです。今回の裁判事件(青春を返せ裁判)のゆえに、崔先生の名前が完全に肥溜めに落ちたようになりました。文社長まで(性関係があったと)そのように考えなかったですか。文社長!(『はい』)崔先生が全部、誤ったと考えたでしょう。率直に話してみなさい。(『確定的に崔先生が間違ったというよりも……』)そのような話はやめて答えだけいいなさい。みんな知っていることです。(『はい。疑いました』)疑うというより、そのように思っていたじゃないですか。私に対しても何回も話をしませんでしたか。私が『違う』といったのにです」(マルスム選集170-302、1987年12月4日)
 文師は、反対派のいう「文鮮明と崔元福との間で〝性関係〟があり、隠し子までいる」という風聞に対し、そのような事実はないことを明確に語っておられる。
 また、祝福家庭の〝核心メンバー〟である3家庭の夫人に対しても、文師は次のように語っておられる。
 「史吉子さんも、『原理講論』を中心として、『覚えて何々をしなければならない』と言っていますが、それは『原理講論』です。実体はどこに行きましたか? 自分はかかしのようなことをしているのです。かかしに頼って生きるのではありません。……主人になろうと史吉子さんも考えるでしょう? 『本体』である真のお母様以上の位置に立とうという話です。自分が、お母様のように堕落していない本然の息子、娘を生むことができますか? それは真の父母の種を受けて一体圏にいなければ不可能です。永遠にありえないことだというのです」(「ファミリー」2009年1月号、48ページ)
 文師は、3家庭の史吉子氏に対して、「真の父母の種を受けて一体圏」になったことのない人が「真のお母様以上の位置に立とう」と考えることがあったとしても、それは永遠にできないことだと語っておられる。さらに「本然の息子、娘を生むことができますか?」とも語っておられる。
 このように、文師は、史吉子氏が、文師との関係において、性関係がなかったことを、みんなの前ではっきりと語っておられる。前述したが、元信者の36家庭の劉孝敏氏も、「血分け」がなかったことを証言しており、反対派が長年言い続けてきた「最初の3組と33組は、実際に文鮮明の血分けを受けたと指摘されている」(川崎経子著『統一協会の素顔』235ページ)という批判は、何の根拠もない中傷にすぎないのである。
 さらに、文師は次のように語っておられる。
 「堕落とは何ですか。神様の最も貴いものを盗んだのです。悪魔の行為です。最も貴いものとは何かというと、愛と生命と血統ですが、これを汚したというのです。ですから、歴史時代において神様が最も嫌うものは淫乱です。……人類が世界的に淫乱の風に巻き込まれていくときは、鉄槌が加えられるのです。教団がそのようになるときは、教団が滅びていき、国がそのようになるときは国が滅びていき、歴史がそのように誤れば、その歴史の方向がみな壊れていくのです」(天一国経典『平和經』445ページ)
 また、韓鶴子総裁も文師について次のように語っておられる。
 「キリスト教が私の夫(文鮮明師)と一つになっていたなら、地上世界はもちろん、天上世界までも天国を成したはずです。新約時代が終わる1945年から1952年までの7年間に、神様の摂理に従って全世界が一つに統一されていたはずです。彼ら宗教指導者は、私の夫と一つになることはおろか……話を聞くこともせず、盲目的に反対しました。甚だしくはうそまでつきました。彼らは人格を抹殺しようとして、私の夫の教えとは正反対の淫乱の教祖と強欲の中傷を広めたのです」(天一国経典『平和經』961ページ)
 さらに、文師は16万訪韓セミナーにおいて、次のように語っておられる。
 「今も独りで結婚しないでいる女性もいます。『祝福を受けるように』と言っても、祝福を受けないのです。『自分は先生を慕った者です。誰と結婚するのですか』と言って、大変です。もし、先生がキスでも握手でもしてあげたら、大変なことになります。これはもう間違いなく、『関係を持った』と言う人(女性)が出てくるのです。そういう環境を通過しながら、よくも女に引っ掛からないでここまで来たものです。……もし先生がキスでもしてあげたら大変です。握手でもしてあげたら、それを条件としてどんなことでも引っ掛けてきます。ですから、……(韓鶴子総裁が)お母様として立つまでには、相当な心の苦労があったということを知らなければなりません。……『原理』を知らなければ大変なことになるのです。統一教会という存在もなくなってしまいます。正しく『原理』を知っているから、そういうことをコントロールしてきたのです。……でなければ、(女性を対象とする)こういう集会などできないのです」(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』287~288ページ)
 以上のように、「6マリヤ」や「血分け」という反対派による中傷と違って、文師は、軽々しく女性の手さえも握ってこなかったと語っておられる。これらの内容で分かるように、文師ほど〝純潔〟を重要視され、〝貞操〟を生命視してこられたかたはいない。
 さらに、文師は「天法三ヶ条」という最も重要な鉄則を、三つ挙げておられる。
 「今から、守るべき鉄則とは何かというと、一番目は、いかなる死ぬような出来事があったとしても、血統を汚してはいけない、ということです。……二番目は、人事処置を間違ってはいけないのであり、人権を蹂躙してはいけない、ということです。……三番目は何かというと、公金を盗んではいけない、公金を自分勝手に使ってはいけない、ということです。この三つです」(『ファミリー』2001年3月号、44~45ページ)
 どこまでも、血統の重要性を強調されるのが文師である。事実、文師は祝福家庭に対して、次のように語っておられる。
 「原理からすれば、一人の男(メシヤ)二人の女とつきあうことはできないから、……(祝福を受ける女性の)旦那さんを、アダムを、接ぎ木して、ハンダ付けしてつくってあげるのです。先生は完成された旦那さん真のアダム)の立場ですから、弟の立場、第二番目のアダムをつくるのです。あなたたちの旦那さんたち、天使長(祝福を受ける男性)を連れて来て、昔16歳の時に堕落した、その堕落前の基準が残っているから、そこに完成されたアダムの勝利の実体を接ぎ木するのです」(『祝福』1994年春季号、26ページ、1994年1月2日)
 「生殖器が、なぜ生まれたのでしょうか? 愛のため、生命のため、血統のため、良心のために生まれたのです。生殖器を通さずしては、愛も生命も血統も良心もないのです。……男性の生殖器は、男性のために生まれたのではありません。……それがだれのためのものであるのかといえば、女性のためです。ひとえに主人は、一人の女性です。二人ではありません。絶対に主人は一人です
 神様は、そのようなたったひとつの目的のために創造されたので、それを変えることはできません。男性の生殖器の目的は、永遠に唯一絶対の一人の女性のために存在し、女性の生殖器は、永遠に、唯一絶対の、一人の男性のために存在します。それは根本的公式であり、どんな力をもってしても変えることはできないのです。……男性の生殖器は、だれと一つになるようにできているでしょうか? 妻とです。単に女性というのではなく、妻とです。永遠に、たった一人の妻とだけです」(『ファミリー』1997年4月号10~11ページ、1997年2月13日)
 「男性の生殖器の目的は、永遠に唯一絶対の一人の女性のために存在し、女性の生殖器は、永遠に、唯一絶対の、一人の男性のために存在します。それは根本的公式であり、どんな力をもってしても変えることはできないのです」という教えは、『原理講論』にも重要な教訓として、次のように述べられている。
 「篤実な信仰者たちが、アダムとエバの堕落直前の心霊基準まで成長して霊通すれば、アダムとエバが克服できずに堕落したのと同じ試練によって、堕落しやすい立場に陥るようになる。したがって、原理を知らない限り、このような立場を克服することは、非常に難しいことなのである。今日に至るまで、多くの修道者たちが、この試練の峠を克服できずに、長い間修道した功績を一朝一夕に台無しにしたことは、実に惜しんでもあまりあることである」(222ページ)
 このように、男女問題は「功績を一朝一夕に台無しに」し得るほど大きな問題である。家庭連合は、どこまでも〝純潔〟〝貞操〟を守るというのが教えの真髄である。
「三日行事」における「女性上位」の意味するもの
 橋爪大三郎氏は、『日本のカルトと自民党』で次のように述べている。
 「1960年に韓鶴子と結婚してから、合同結婚式が始まった。ごく初期には、初夜の前に文鮮明が花嫁一人ひとりと交わったという。その後、結婚式で飲むぶどう酒に、文鮮明の体液を混ぜることにしたともいう。のちにはそれもやめ、ただの祝福になった。合同結婚式のあとの初夜は、女性上位、など詳しく次第が決まっている。血を清める儀礼が、統一教会の教義の中心だから、そんなことを細かに決めているのだ」(236~237ページ)
 橋爪大三郎氏が「初夜の前に文鮮明が花嫁一人ひとりと交わったという」と述べる風聞については、すでに反論済みである。文師が花嫁一人ひとりと交わる(いわゆる「血分け」)というものは存在しない。
 次に、「結婚式で飲むぶどう酒に、文鮮明の体液を混ぜることにした」というが、これについても「金明煕氏(男性の元信者)への『有罪判決』」と題して、『ファミリー』1993年7月号に、「金明煕氏の言動は、文師が36家庭夫人と性関係を持ったとか、崔元福先生と血分けをしたとか、聖酒に精液を入れたとか、多数の梨花女子大学生と性関係をもったとか、あまりにも、文師と統一教会を誹謗するでたらめなものであったので……ソウル刑事地方法院は一審、二審を通じて、徹底的な検証を行い、同氏が主張したこれらの項目について、虚偽の事実を記載あるいは摘示した、と有罪判決を下しました。最終的に大法院まで争って、金明煕氏は『名誉毀損』などの罪で、1年6か月の実刑に処されました(96ページ)とあり、「結婚式で飲むぶどう酒に、文鮮明の体液を混ぜる」という事実は存在しない。
 ところで、橋爪大三郎氏は「合同結婚式のあとの初夜は、女性上位、など詳しく次第が決まっている」と述べるが、これは、前述したように、合同祝福結婚式に参加した夫婦の間だけで行われる「血統転換」のための重要な儀式(三日行事)である。
 すでに説明したように〝サタン側への血統転換〟は、エバとアダムの関係、すなわち〝肉的堕落〟によって起こったのである。それを元返すための〝神側への血統転換〟は、祝福を受けた「妻」と「夫」の関係によってのみなされるものである。これは、堕落のとき、エバとアダム(夫婦の関係)による肉的堕落によって〝サタン側への血統転換〟が起こった(決して霊的堕落によるのではない)ため、神側に血統転換されるときも祝福を受けた女性と男性(夫婦の関係)の間で行われる「三日行事」によって、〝神側への血統転換〟が起こるのである。このような重要儀式であるが故に、手順が決まっていてもそれは当然のことである。手順を間違えると、儀式自体が失敗となるからである。
 それゆえ、橋爪大三郎氏の言う「メシアが信徒の女性すべてと性行為をしなければならない」という、いわゆる「血分け」の理屈は、一連の祝福行事に入る余地は全くない。すなわち、「血分け」は存在しないのである。
 ところで、堕落のとき〝サタン側への血統転換〟は、堕落エバがアダムと関係を持つことでサタンの息子として生み変えることになったたため、それを象徴するのが三日行事の1日目の「女性上位」の意味するものである。すなわち、堕落エバは母親のような役目を果たして、アダムを〝サタン側の息子〟として生み変えたのである。これを元返すための〝神側への血統転換〟も、女性が男性を生み変えることでなされるため、それを象徴するのが三日行事の2日目の「女性上位」の意味するものである。すなわち、女性が母親のような役目を果たして、男性を〝神側の息子〟として生み変えるという意味なのである。そして、三日行事の3日目には「男性上位」で夫婦関係を持つが、これは復帰されたアダムとエバが、神の血統圏へと復帰して、本然の夫婦として出発したことを意味するのである。これは、どこまでも〝夫婦の間〟のみで成されるものであることは言うまでもない。家庭連合の教えは純潔を重んずる教えである。

【資料10】
いわゆる「失楽園」を性的に解釈することは「牽強付会」と述べる橋爪氏の無知
 橋爪大三郎氏は、『日本のカルトと自民党』で次のように述べている。
 「『原理講論』は、この聖書・創世記の記述を、文字どおりではなく、つぎのように比喩的に解釈する。
 a. エバを誘惑したヘビの正体は、大天使ルシフェル(ルーシェル)だった。
 b. 実を食べたとは、ヘビとエバが汚れた性交渉をもったということだ。
 c. アダムも実を食べたとは、エバと汚れた性交渉をもったということだ。
 d. こうして堕落した人類は、汚れが血統により遺伝するので、罪をまぬがれない。
 こうした比喩的な解釈は、聖書のテキストに根拠があるのではなく、かなり無理をした『牽強付会』である」(226ページ)
 橋爪大三郎氏は、このように述べ、上記のa~dの内容に対し「かなり無理をした『牽強付会』である」と述べている。しかしながら、まずaについて述べると、Wikipediaの「堕天使」の項目には、「聖書中の堕天使」として次のように説明している。
 「『旧約聖書』中、堕天使(悪魔)としてのルシフェルの記述とされるのは『イザヤ書』14章12-15である」とある。ここで述べるルシフェルというのは、堕天使(悪魔)のことであり、この解釈は古くからなされている解釈である。橋爪大三郎氏は、「牽強付会」であるとして、「エバを誘惑したヘビの正体は、大天使ルシフェル(ルーシェル)だった」と批判的に述べているが、ルシフェル(ルーシェル)は堕天使であり、悪魔となった天使のことと理解されている。
 また、bとcについて述べると、いわゆる「失楽園の物語」を性的な問題として解釈することは古くからなされてきた解釈である。カトリック教会のA・ローテル氏は「禁断の木=正しくない恋愛」として、次のように述べている。
 「人祖(人間始祖)にはただ一本の禁断の木が植えられてあっただけですが、私たち現代の人間の周囲は、ごらんの通り禁断の木ばかりの世界なのです。これらの禁断の木にはいろいろ種類がありますが、中でも、昔楽園にあった木に特別よく似た一種の木があり、それが強烈な魅力をもって若い青年男女をひきつけています。この木は外の木にくらべて一層大きな危険をもたらしやすいのです。その禁断の木とは、すなわち、正しくない恋愛、これをさしているのであります」(A・ローテル著『禁断の木の実』ドン・ボスコ社、5ページ)
 さらに、カトリック司祭のピーター・ミルワード氏も、次のように述べている。
 「アダムとエバの罪が反抗以上のものであるとしても、ふたりの罪が禁断の実を食べたという暴食だったと説明するのはあたらない。いろいろな点を勘案すると、これは聖書にいう『肉体の知識』(すなわち性交)の木の実を取って食べる性的欲望の罪をさしているように思われる。まず第1に、男と女としてのアダム対エバという明らかな関係がある。つぎに、彼らは裸だったばかりでなく、その実を食べるまでは裸であることを知らなかったという事実がある。第3に、蛇がエバをそそのかし、好奇心に訴えるやり口は暗に性的な歓びを語っている」(『旧約聖書の智慧』37ページ)
 さらに、ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』(ヨルダン社)は、パウロからアウグスティヌスまでの時代における「楽園神話」解釈の変遷について著述し、この「楽園神話」を性的に解釈してきたことを述べている。
 橋爪大三郎氏は、「牽強付会」であるとして「b. 実を食べたとは、ヘビとエバが汚れた性交渉をもったということだ。c. アダムも実を食べたとは、エバと汚れた性交渉をもったということだ」などと批判的に述べるが、キリスト教において「失楽園の物語」を性的に解釈することは、伝統的に行われてきた解釈なのである。
 次に、橋爪大三郎氏は「d. こうして堕落した人類は、汚れが血統により遺伝するので、罪をまぬがれない」と批判的に述べている。
 しかしながら、「原罪」という言葉を最初に使ったのはアウグスティヌス(AD354~430)であるが、彼は「アダムの罪は、人類の末端にまで及んでいる。子孫は、性を通して生まれるがゆえに、性は二重の意味において罪の根源となっている。すなわち、一人ひとりの人間が、性を通して生まれたということが、すでに罪に満ちていたし、罪を犯す傾向性も、実は先天的な弱さとして、受けつがれてきている」(W・E・ホーダーン著『現代キリスト教神学入門』46ページ)と考えているのである。「アウグスティヌス以降、原罪の遺伝は、カトリック教会の公的教義となっている」(ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』279ページ)。このように、人間始祖アダムとエバが犯した原罪が、遺伝するという考え方はアウグスティヌス以来、伝統的なキリスト教における理解なのである。
 橋爪大三郎氏は、a~dについて、これらは「牽強付会」だと批判するが、この批判は橋爪大三郎氏の無知からくるものに他ならない。
 ちなみに、キリスト教神学に多大な影響を与えたアウグスティヌスは、「性的欲望それ自体を原罪の証拠および罰と同一視」(ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』237ページ)して解釈したが、プロテスタント教会では、宗教改革者ルター以来、ローマ・カトリック教会と神学論争をする中で、性的解釈を棄てたのである。カトリック神学(特に中世期)においては、アウグスティヌス以来、「性の欲望を罪悪視し、結婚生活よりも独身生活を優位におく」教理を作り上げた(岩村信二著『キリスト教の結婚観』101ページ)。
 今日でもカトリック教会は、教皇をはじめ司祭が生涯独身を貫くなど、聖職者の独身制を確立している。これは堕落の問題を〝性〟と結びつけて解釈したことにも影響されてのことである。
 このアウグスティヌスの「原罪=性欲」という考え方は行き過ぎだといえる。「統一原理」は、性欲そのものを原罪だとは考えていない。
 『原理講論』に、「神が人間始祖に、『食うべからず』と言われた信仰のための戒めは、いつまでも必要であったのだろうか。……人間が完成すれば、『食う』のは原理的なものとして、当然許されるように創造されていた」(114ページ)とあるように、子女繁殖をなすために性欲はもともと原理的なものとして神から賦与されているものである。
 この堕落の問題に対する解釈や、結婚観などをめぐって、カトリック教会とプロテスタント教会は神学論争をし、長い間、対立関係にあった。それは、カトリック教会が伝統的に原罪について「性的解釈」をし、聖職者の独身制を維持してきたのに対し、プロテスタント教会では「原罪」を、あくまでも神の戒めに対する不従順、高ぶりと解釈したためである。これは、ルターの原罪を〝利己心〟(Selbstsucht=ゼルプストズフト)とする考え方に基づいている。このようにプロテスタント教会は、原罪に対し「心的解釈」をする。
 「統一原理」は、自己中心の動機による不従順という「心的解釈」に基づきつつ、人間始祖は「性的形態」を通して堕落したと説いており、その意味では、今日まで対立してきたカトリック教会の神学とプロテスタント教会の神学を和解させるものがあると言える。
 さて、反対派は、堕落を〝性的に解釈〟することは間違いだと批判し、家庭連合信者を脱会説得してきた。しかし、この問題については、以下のように反論済みである。
 「失楽園を性的に解釈したカトリック神学に対抗し、それを性的に解釈しようとしないプロテスタント神学があります。創世記2章24節の『結婚賛歌』と、創世記3章の『失楽園』の関連性をめぐって、聖書の記述順序を、そのまま時間的経過と同一視したルターは、結婚賛歌に『妻』という言葉があることから、アダム・エバは堕落(失楽園)前にすでに性交していたとして、次のように解釈しました。
 『原人アダムとイブ(エバ)とはその堕落の以前にすでに性の交わりを行っており、それは二人の貞節ときよき愛のしるしでもあった。彼らは裸であって、性に対しても自然な開放的な態度をとっていた』(岩村信二著『キリスト教の結婚観』122ページ)
 反対牧師は、このルターの聖書解釈に基づいて、『妻』の言葉に注目させ、アダム・エバの堕落の原因は、統一教会がいうような『性的問題』ではなかったとします。そして、ルターが、原罪を『自己中心』『高慢』と見て、心的解釈をした見解を利用しながら、統一原理の『堕落論』は間違いであると批判し、統一教会信者を脱会説得するのです。
 しかし、ルターとは違って、聖書の記述順序をそのまま時系列とはとらえない解釈も存在しているのです。カトリック聖書(ウルガタ)を校訂した教父ヒエロニムスは、次のように述べます。
 『アダムとエバに関しては、堕落以前の彼らは楽園で純潔であったと主張しなければならない。しかし、罪を犯し楽園を追放されてからはただちに結婚した。それから「それ故に人はその父と母とを離れて、妻と結び合い、そして彼らは一つの体となる」の(創世記2章24)節がくる』(ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』203ページ)
 人間始祖アダムとエバの堕落を性的に解釈することは正しいというのです。
 創世記2章2節で、神は天地創造を終えて休まれたと書かれているにもかかわらず、2章4節から、再び、違ったかたちの天地創造が記されています。ですから、ルターのように、聖書の記述順序をそのまま時間的経過と同一視するのは単純すぎて、問題があります。
 いずれにせよ、カトリックとプロテスタントは、失楽園解釈をめぐって対立しています。統一原理は『堕落論』において、ルターのように『自己中心』の動機で、アウグスティヌスのように『性的形態』を通じて堕落したと見ており、その意味では、カトリック神学とプロテスタント神学を和合させる観点を持っていると言えます」(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』295~297ページ)
 以上のように、反対派は、悪意に基づいた偏った批判をし、〝脱会説得〟をしてきたという事実を踏まえておかなければならない。