UCI側が広める金鍾奭著『統一教会の分裂』の〝虚偽〟を暴く(9)―― 金鍾奭氏が主張する「アイデンティティ」の誤り・その6

文責:教理研究院

注、真の父母様のみ言や『原理講論』及び教理研究院が発表した内容は「青い字」で、
UCI(いわゆる「郭グループ」)側の主張は「茶色の字」で区別しています。

「顯進様を支持する有志の会」による「教理研究院への公開質問および櫻井夫人に関する公文への反論」の誤りについて・続き

 UCI(いわゆる「郭グループ」)側が、2016年の秋頃から日本で集会を行って広めている金鍾奭著『統一教会の分裂』(日本語訳)には、真のお母様をおとしめる〝み言改竄〟や〝誤訳〟〝文脈を無視したみ言引用〟が散見します。
 教理研究院では、この〝虚偽〟を暴くシリーズの反論文で、金鍾奭氏が主張する「顯進様のアイデンティティ」の誤りを明らかにしてきました。
 教理研究院が、既に発表した 「UCI側が広める金鍾奭著『統一教会の分裂』の〝虚偽〟を暴く(3)」 で、「桜井節子氏による『信仰告白』の映像の問題点」について指摘しましたが、それに対して「顯進様を支持する有志の会」が、「教理研究院への公開質問および櫻井夫人に関する公文への反論」を発表したため、 「UCI側が広める金鍾奭著『統一教会の分裂』の〝虚偽〟を暴く(6)」 で、さらにUCI側のその反論の誤りを指摘しました。
 今回は、その続きとして「櫻井夫人に関する公文への反論」の誤りについて述べます。

(1)UCI側の「実体的三位一体」の定義に関する誤り
①『原理講論』が定義する「三位一体」とは何か?

 彼らの言説の問題点は、「実体的な三位一体」の概念に対する〝誤った観点〟からみ言を解釈し、「真の家庭」の定義を述べているところにあります。
 まず、問題となる「顯進様を支持する有志の会」(UCI側)による反論の箇所を以下、引用します。

 「最近の家庭連合では『三位一体』という言葉を持ち出して真の父母様の価値のみを大きく強調しますが、『三位一体』の目的は、実体の四位基台を完成させることではないですか? そして、家庭連合では真の子女様の価値をどのように考えるのでしょうか?」

 このように、UCI側は「三位一体」の目的を「実体の四位基台を完成させること」であると述べ、家庭連合では「真の父母様」の価値のみを大きく強調し、「真の子女様」の価値に対してはどのように考えているかわからないと反論しています。この批判は「三位一体」の不正確な理解から生じたものと言わざるを得ません。
 そこで、まず、『原理講論』が定義する「三位一体」について引用します。

 「イエスと聖霊は、神を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである」(267ページ)

 「イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった」 (268ページ)

 「ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らをして原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである」 (同)

 『原理講論』は、〝霊的三位一体〟の定義を「イエスと聖霊は神を中心として一体となる」ことであると述べています。すなわち、神を中心としたイエス様と聖霊の一体に対して、それを〝霊的三位一体〟と定義しています。ところが、霊的三位一体は「霊的真の父母の使命」を果たしただけで終わってしまったというのです。それゆえ、「堕落人間を霊肉共に重生させ」るには、「実体的な三位一体」である霊肉共の「真の父母」が再臨されなければならないと論じています。
 したがって、「実体的な三位一体」とは、イエス様の再臨として来られる「真のアダム」(第三アダム)と、聖霊の実体として来られる「真のエバ」(真の母)が、神様を中心として一体をなすことを意味しているのです。
 以上のように、『原理講論』が述べる「実体的な三位一体」の定義においては、真の子女様の存在について述べられていません。

②「重生論」と密接に関係する「三位一体」

 真の子女様の価値について、それを『原理講論』の「三位一体論」から見れば、以下のようになります。『原理講論』を引用します。

 「元来、神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て……神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。もし、彼ら(アダムとエバ)が堕落しないで完成し、神を中心として、真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば、彼らの子孫も、やはり、神を中心とする善の夫婦となって、各々三位一体をなしたはずである。したがって、神の三大祝福完成による地上天国は、そのとき、既に完成されたはずであった」 (267ページ)

 『原理講論』は、まず、 「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て……神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった」と論じます。その場合、アダムとエバが「神を中心として真の父母としての三位一体」をつくり、そして「善の子女」を生み殖やしたなら、その子孫も「神を中心とする善の夫婦」となって「各々三位一体をなしたはず」であると述べています。この〝三位一体論〟に基づいて、真の子女様の価値を原理的に見れば、 「神を中心とする善の夫婦となって、各々三位一体」をなす存在であると言えます。
 上述のことから、「実体的な三位一体」とは、「真の父母様」を指しており、それに続く「各々三位一体」とは、「真の子女様家庭」や「祝福家庭」であることが分かります。

 当然のことながら、ここに真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば…云々」と論じられているように、アダムとエバは〝三位一体〟を成した上で、善の子女を生み殖やさなければなりませんでした。ゆえに、UCI側が述べる「『三位一体』の目的は、実体の四位基台を完成させることではないですか?」という内容も、三位一体を成した上でそこに含まれてきます。
 しかしながら、そのことは、単に子女を生み殖やすということなのではありません。まずは、神様を中心とした実体的な三位一体を成した上で、子女を生み殖やさなければなりません。『原理講論』が述べる「実体的な三位一体」とは、前項でも述べたように、それは、イエス様の再臨として来られる「真のアダム」(第三アダム)と聖霊の実体として来られる「真のエバ」(真の母)が、神様を中心として一体をなすことを意味しているのです。そのことを踏まえた上で、『原理講論』は次のように論じます。

 「もし、彼ら(アダムとエバ)が堕落しないで完成し、神を中心として、真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば、彼らの子孫も、やはり、神を中心とする善の夫婦となって……地上天国は、そのとき、既に完成されたはずであった。しかし、アダムとエバが堕落して、サタンを中心として四位基台を造成したので、サタンを中心とする三位一体となってしまった。ゆえに彼らの子孫もやはり、サタンを中心として三位一体を形成して、堕落した人間社会をつくってしまったのである」 (267ページ)

 この論述は極めて重要です。人間始祖アダムとエバが、神様を中心として〝三位一体〟をつくるのか、それとも彼らがサタンを中心として〝三位一体〟をつくるのかによって、天国になるのか、地獄になってしまうのかが決定されるというのです。
 すなわち、アダムとエバが、神を中心に〝三位一体〟をつくれば、遺伝の法則によって、そこから生まれてくる子孫は〝神の血統〟になるのであり、反対に、サタンを中心に〝三位一体〟をつくれば、遺伝の法則によって、その子孫は〝サタンの血統〟となってしまうというのです。結局、天国になるか、地獄になるかのその分岐点となるのが、人間始祖アダムとエバにおける〝三位一体〟の問題だったのです。そういう意味で、人間始祖アダムとエバは〝特別な使命〟をもった人物であったのであり、彼らがどういう立場の〝三位一体〟をつくるかによって、み旨が立ちもすれば倒れもするのです。
 したがって、UCI側が述べる「最近の家庭連合では『三位一体』という言葉を持ち出して真の父母様の価値のみを大きく強調しますが、『三位一体』の目的は、実体の四位基台を完成させることではないですか?」という主張は、三位一体に対する〝表層的な理解〟に過ぎない言説なのであり、人間始祖が「実体的な三位一体」をつくって人類の真の父母になるということの重大性が、ほとんど認識できていないものと言わざるを得ません。
 以上の内容を踏まえた上で、『原理講論』は、堕落人間に対する「重生」について次のように論じています。

 「イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。したがって……信徒たちも……霊的子女の立場にとどまっているのである。ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らをして原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである」(268ページ)

 真の父母様が、神を中心として「実体的な三位一体」をつくり、「霊肉共の真の父母」となることによって、「堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らをして原罪を清算」させて、「神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨される」というのです。

 以上のように、「重生論」と「三位一体論」は密接に関係しているものであり、両者は切り離して論じることができない内容であることを知らなければなりません。
 『原理講論』の論じる〝三位一体の目的〟とは、UCI側が述べるような、単に「実体の四位基台を完成させることではないですか?」というものではありません。

③創造目的のその中心は「真の父母」である

 人間始祖アダムとエバが完成して、神様を中心とした「実体的な三位一体」を成したならば、彼らは子女を繁殖し、家庭的な四位基台を築かなければなりませんでした。お父様は、神のみ旨に対して次のように定義しておられます。

 「私(お父様)が神様のみ旨に対して定義をしてみましょう。私は、神様のみ旨とは『創造理想を完成すること』だと定義を下します。……統一教会の言葉を使って言うならば、神様のみ旨は四位基台を完成することです。

 統一教会で見る神様のみ旨、すなわちレバレンド・ムーンが知っている神様のみ旨とは何でしょうか。それは神様が宇宙をつくった創造理想、すなわち創造目的を完成することです。神様はすべての被造万物を創造するとき、必ず目的をもって創造されたので、そのような神様の創造目的を成すことが神様のみ旨です。その目的の中心は誰でしょうか。アダムとエバでした。それゆえに私は、創造の理想を実現すること、すなわちアダムとエバを中心とした理想を実現することが、神様の創造目的だと見るのです。

 では、その理想実現とは何でしょうか。それはまさに四位基台を成すことです。四位基台とは、神様を中心とするアダムとエバが、神様の愛の圏で離れようとしても離れられないように完全に一つとなり、理想的な夫婦となり、彼らが子女を繁殖することによってつくられる神様中心の家庭の基台をいいます。この四位基台が造成されれば、神様を中心としてアダムとエバが夫婦の愛で一体となり、神様の愛の圏から離れられなくなります」 (『祝福家庭と理想天国(1)』402~403ページ)

 このみ言で注視すべき点は、お父様がその目的の中心は誰でしょうかと問われ、「アダムとエバでした」と語っておられる箇所です。アダムとエバとは「真の父母様」のことです。したがって、〝神様のみ旨〟である創造目的の中心アダムとエバの完成にある、すなわち真の父母様の完成にあるということです。
 そして、お父様が「神様を中心としてアダムとエバが夫婦の愛で一体となり、神様の愛の圏から離れられなくなります」と語っておられるように、神様を中心として、まず〝夫婦〟が完全一体(実体的な三位一体)とならなければなりません。
 当然、真のお父様が「神様のみ旨は四位基台を完成することです」と語っておられるように、四位基台が重要であることは言うまでもありません。しかし、神様が願う四位基台を成し遂げるには、「実体的な三位一体」が最も重要なのです。そして、四位基台完成における子女は、真の夫婦、真の父母である勝利したアダムとエバの願いを完全に受けられてこそ、その価値を現すことができるのです。子女が、その父母の願いを受けることができないならば、神様の願う四位基台の完成とは言えないのです。
 さらに、『原理講論』でも、アダムとエバが〝夫婦〟として完成したその位置について、次のように論じています。

 「人間始祖として創造されたアダムがもし完成したならば、彼は被造物のすべての存在が備えている主体的なものを総合した実体相となり、エバが完成したならば、彼女は被造物すべての存在が備えている対象的なるものを総合した実体相となるという結論を、直ちに得ることができる。……彼らが夫婦となって一体となったならば、それがまさしく、主体と対象とに構成されている被造世界の全体を主管する中心体となるべきであったのである。……アダムとエバが、完成されて夫婦になってから、彼らがお互いに和動して一体となったときに、初めて二性性相として創造された全天宙も和動することができるのである。このように、アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置、正に愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。ここにおいて、初めて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。このときこの中心は、神の永遠なる愛の対象であるために、これによって、神は永遠に刺激的な喜びを感ずるようになる。また、ここにおいて初めて、神のみ言が実体として完成するので、これが正に真理の中心となり、すべての人間をして創造目的を指向するように導いてくれる本心の中心ともなるのである」 (60~61ページ)

 以上のように、『原理講論』は、完成したアダムとエバ(夫婦)の位置は「被造世界の全体を主管する中心体」「創造目的を完成した善の中心」「(神が)永遠に安息される」「神のみ言が実体として完成」 「真理の中心」「本心の中心」等々と論じています。
 したがって、実体的な三位一体を完成したアダムとエバ(夫婦)の位置は、強調しても強調し過ぎることはないほどに、極めて〝重要な位置〟であるという事実を知らなければなりません。
 したがって、UCI側が述べる「最近の家庭連合では『三位一体』という言葉を持ち出して真の父母様の価値のみを大きく強調」するという批判は、「真の父母」という概念がもっているその意義と価値が、いかに大きいものであるのかという事実を分からずに、それを批判しているものと言わざるを得ません。

(2)UCI側の言説は、家庭の概念に「夫婦」の存在が欠けている
①家庭とは、「子女があっての父母」なのか?

 UCI側が主張する〝家庭〟の概念には、「夫婦」というものがありません。まず、問題となる彼らの反論における〝家庭の定義〟の箇所を引用します。

 「家庭と言うものは父母があっての子女であり、子女があっての父母です」

 『平和神經』は次のように論じています。

 「絶対『性』を中心とするアダムとエバが、神様のみ旨のとおりに個人完成、すなわち人格完成を成し、神様の祝福の中で夫婦関係を結び、神様と完全一体を成し遂げていたならば、神様が彼らの中に臨在なさることができる因縁が決定していたでしょう。さらには、彼らの子女にも、神様と直接的に父子の因縁を結び得る愛の基準が連結されていたでしょう」 (203ページ)

 本来、アダムとエバが、神様の祝福の中で「夫婦関係」を結んで、「神様と完全一体」を成していたなら、善の子女が繁殖するようになっていました。このことから見ても、UCI側が主張するような「父母があっての子女、子女があっての父母」という家庭の定義は、〝夫婦〟の重要性を欠落させているものであって、的確な表現とは言えません。
 もちろん、子女が存在することによって父母となることが出来ますし、父母が存在することで子女の立場になることは出来ます。しかしながら、それはどこまでも、子女が誕生した結果としての家庭を定義し、説明しているものにすぎません。子女が誕生する出発点やその過程とは、どこまでも「夫婦関係」を結ぶことによってなされるのです。
 このことは、「実体的な三位一体」でも述べたことですが、第二祝福である「家庭的四位基台」を成すことを意味しています。それゆえ、アダムとエバが結婚し、 「神様の祝福の中で夫婦関係を結び、神様と完全一体」(『平和神經』)を成すことが「実体的な三位一体」を完成することであり、かつ、「家庭的四位基台」を成すことであると言えます。したがって、家庭とは、三位一体を成した「夫婦」こそが、その家庭の最小単位であると言えるのです。たとえ、子供を産めない夫婦であったとしても、その夫婦が神様を中心として一つになった状態が、既に〝家庭である〟ということになります。
 すなわち、 「実体的三位一体」とは、〝夫婦〟が一体となって「家庭的四位基台」(注、統一思想でいう「自同的四位基台」)を成して完成されるのであって、子女が誕生して「実体的三位一体」が完成されるのではありません。どこまでも、『平和神經』で語られているように、 「神様の祝福の中で夫婦関係を結び、神様と完全一体」を成すことで「実体的三位一体」は完成されるということです。
 したがって、〝夫婦〟の存在を軽視した立場から論じている彼らの言説である「家庭の定義」は、誤りであることが分かります。

②夫婦不在の「真の家庭」の誤った定義

 さらに続いて、UCI側の「真の家庭」の誤った定義の箇所を引用します。

 「真の父母だけでもなく、真の子女だけでもなく、真の家庭が完成しなければみ旨は成就できないという根本的な原理」

 「神様の創造目的は真の父母ではなく、真の家庭を『モデル平和理想家庭』として完成させ」

 UCI側は、前述したように、その反論文で「父母があっての子女、子女があっての父母」であると述べています。したがって〝真の家庭〟の定義においても、 「真の父母だけでもなく、真の子女だけでもなく」などと述べています。さらに、神様の創造目的は「真の父母ではなく」と述べて、それを否定しながら、 「真の家庭を『モデル平和理想家庭』として完成」させることであると主張しています。
 前項において、家庭の最小単位は「夫婦」であると述べたように、真の家庭の定義における最小単位も「夫婦」であることを知らなければなりません。

 『平和神經』からお父様のみ言を引用します。

 「神様が人間を創造した究極的な目的はどこにあると思われますか。それは真の愛を中心とした理想家庭の完成を通して喜びを感じることでした。では、理想家庭とはどのような姿でしょうか。神様が創造された最初の人間は、男性格を代表したモデルとしてのアダムと女性格を代表したモデルとしてのエバでした。彼らが真の愛の見本となる人格者、主人になる道とはどのような道だったのでしょうか。一言で言えば、神様を父として侍って生きていける父母と子女の関係を確保するモデル平和理想家庭でした。神様と一つの家族を成し、永遠に喜びを感じて生きる道であるという意味です」 (24ページ)

 続いて、既に引用した『原理講論』の部分からも以下、引用します。

 「アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、正に愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。ここにおいて、初めて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである」 (61ページ)

 上述の『平和神經』のみ言で分かることは、神様の創造目的とは「男性格を代表したモデルとしてのアダム」(独生子)と「女性格を代表したモデルとしてのエバ」(独生女)が「モデル平和理想家庭」を成すことでした。
 また、『原理講論』でも、男性格を代表したモデルとしての「アダム」と女性格を代表したモデルとしての「エバ」「一体」となった位置こそが、 「創造目的を完成」した「善の中心」の位置であると述べています。
 ところで、UCI側は、その反論において「神様の創造目的は真の父母ではなく」と述べていますが、この主張は、既に前項でも述べたように、原理を歪曲したものであり、誤った解釈です。
 お父様ご自身は、 「神様はすべての被造万物を創造するとき、必ず目的をもって創造されたので、そのような神様の創造目的を成すことが神様のみ旨です。その目的の中心は誰でしょうか。アダムとエバでした。それゆえに私(お父様)は、創造の理想を実現すること、すなわちアダムとエバを中心とした理想を実現することが、神様の創造目的だと見るのです」 (『祝福家庭と理想天国(1)』403ページ)と定義しておられるように、 「その目的の中心は誰でしょうか。アダムとエバ(真の父母)」であり、その「アダムとエバを中心とした理想を実現することが、神様の創造目的だ」と語っておられるのです。
 これらの上述したみ言を総合してみると、神様の創造目的とは、神様の二性性相が実体的に一体となった「夫婦」によって完成すると見ることができます。したがって、お父様が語っておられる「モデル平和理想家庭」とは、「男性格を代表したモデルとしてのアダム」「女性格を代表したモデルとしてのエバ」が夫婦として一体となって「モデル平和理想家庭」を完成することであると言えるのです。
 すなわち、神様の創造目的は「真の家庭」(家庭的四位基台)を築くことですが、その家庭とは、まず「真の夫婦」のことであり、同時に「真の父母」のことでもあるのです。このようにして、その実体的三位一体を成した上で、そこから、子女を繁殖していくということが必要であるというのです。お父様は次のように語っておられます。

 家庭天国は、男性と女性が完全に一つとなってこそ完成するのであり、個人天国は、体と心が完全に一つとなってこそ完成するのです。家庭天国は、神様のみ旨を中心として夫婦が一つとなり、子女と一つとならなければなりません。そのみ旨の目的は、万民のためのものです。そして、そのみ旨の中心は神様です。それゆえ、神様を中心として万民のために生きるところから、家庭天国が連結されるのです。神様のためだけに生きるのではなく、神様を中心として万民のために生きなければなりません」 (八大教材教本『天聖經』1447ページ)

 結局のところ、UCI側が述べる「真の家庭」とは、〝真の夫婦〟の概念をそこから欠落させてしまっていることを知らなければなりません。
 私たちは、UCI側が〝夫婦〟の概念を軽視しており、それゆえ「真の母」を軽んじ、神様を中心とした〝夫婦〟の無い家庭の定義によって「真の家庭」を主張し、み言を歪曲しているという事実を明確にし、彼らの言説に惑わされないようにしなければなりません。