文責:教理研究院
注、真の父母様のみ言および『原理講論』は、「青い字」で、
UCI(いわゆる「郭グループ」)側の主張は「茶色の字」で区別しています。
UCI(いわゆる「郭グループ」)側を支持する人々は、金鍾奭著『統一教会の分裂』(日本語訳)を、2016年の秋頃から日本で集会を行って広めています。その書籍は、お母様がお父様に反逆しておられるかのように述べており、「最終一体」は条件的な約束に過ぎないものであって、お父様はお母様と一体化できないことに対して苦心しておられたかのように論じています。すでに述べた反論文で、この書籍の内容が、み言の改竄や誤訳による意図的な〝虚偽のストーリー〟であることを明らかにしました。
み言改竄や誤訳のいくつかを、すでに指摘していますが、さらに金鍾奭著『統一教会の分裂』に散見するみ言改竄や誤訳による〝虚偽〟の問題を取りあげていくにあたり、今回は、まず、金鍾奭氏が述べているいくつかの「アイデンティティ」の誤りについて指摘しておこうと思います。
『統一教会の分裂』は、「救世主、メシヤ、真の父母の使命が完遂された状態は、救世主、メシヤ、真の父母の存在する必要がない」(48ページ)、「文顯進は、復帰摂理の中心が創始者(注、お父様)ではなく、創造主である神様であることを主張する」(63ページ)などと論じており、このようなみ言の理解に基づいて、「統一教会の核心アイデンティティは『One Family Under God、神様の下の一家族』という標語に集約される」と主張しています。
この〝核心アイデンティティ〟が、いかにお父様の思想と食い違っているのか、み言や『原理講論』と具体的に比較して検証しておく必要があります。
『統一教会の分裂』は、「創始者は、家庭連合創設と共に宗教時代が終わり……宗教が本然の世界を探し出す為に人間に提示した祈梼、礼拝、神様崇拝といった宗教行為は、根本的に必要なくなったというのである。統一教会の信仰者は宗教時代の卒業証書を受け取った立場なので、宗教行為に執着するのではなく……」(46ページ)、「創始者は、2001年から自分の宗教的使命が具体的に成就する国を天宙平和統一国(天一国)と名付け、『絶対者・神様を中心に……超宗教・超国家・超人種・超NGO・超国連基盤の平和統一理想天国が正に天一国』と教示した」(54ページ)、「真の父母は教会や統一教会という特定宗教を作る為に来たのではない」(73ページ)などと述べており、このような主張を検証せずに読んでいると、この書が〝真実〟を語っているかのように錯覚する人もいるかも知れません。
ですので、み言や『原理講論』と具体的に比較し、どこが誤りであるのかを明確にしておかなければ、知的に迷わされ、情的にも混沌とさせられてしまうこともあり得ます。そこで、『統一教会の分裂』が主張する「アイデンティティ」の、どこが誤りであるのかを指摘していきます。
(1)真の父母の存在しない「One Family Under God、神様の下の一家族」の主張について
金鍾奭氏が『統一教会の分裂』で述べている「統一教会の核心アイデンティティ」の部分を以下、引用します。
「統一教会の核心アイデンティティは『One Family Under God、神様の下の一家族』という標語に集約される。この標語は、統一教会全体の伝統の核心価値を圧縮する言葉として評価できるが、『神様を父母として侍る一つの血縁関係の大家族世界を志向する』という意味である。……文顯進は、統一教会の核心アイデンティティに対する見解を表明することによって、統一教会の伝統に対する自分のアイデンティティを明らかにした。第一に彼は、復帰摂理の中心が創始者ではなく、創造主である神様であることを主張する。彼の認識は、復帰された人間と創造主である神様との関係を明らかにすることによって、創始者と韓鶴子を神格化しようとする既存の統一教会神学を批判する」(62~63ページ。注、太字ゴシックおよびアンダーラインは教理研究院による)
以上のように、『統一教会の分裂』は、統一教会の核心アイデンティティを「One Family Under God、神様の下の一家族」であると規定します。そして、その一家族世界とは、「神様を父母として侍る一つの血縁関係の大家族世界を志向する」ことであると意味付けをしています。
果たして、この意味づけは正しいのでしょうか。
『原理講論』を引用します。
「天国においては、神の命令が人類の真の父母を通して、すべての子女たちに伝達されることにより、みな一つの目的に向かって動じ静ずるようになるのである」(69ページ)
「個性を完成して、罪を犯すことができなくなったアダムとエバが、神の祝福なさったみ言どおり、善の子女を繁殖して、罪のない家庭と社会とをつくったならば、これがすなわち、一つの父母を中心とした大家族をもって建設されるところの天国であった」(135ページ)
「キリスト教が他の宗教と異なるところは、全人類の真の父母を立てて、その父母によってすべての人間が重生し、善の子女となることによって、神の創造本然の大家族の世界を復帰するところに、その目的があるという点である」(161ページ)
「人類は四海同胞の兄弟愛を叫んでいる。しかし、家庭は父母がいて初めて成り立つのであり……真の兄弟愛は生まれてくるのである。したがって、今や人類の親であるイエスだけが再臨すれば、全人類は一つの庭園において、一つの大家族をつくり、一家団欒して生活し得るようになっている……人類に与えるべき一つの最後の賜物がある。それは、何らの目的なくして一つの庭園に集まり、ざわめいている旅人たちを、同じ父母を中心とする一つの家族として結びあわせることができる天宙的な理念である」(166~167ページ)
「再臨の主を父母として頂く、一つの大家族による理想世界」(603~604ページ)
続いて、お父様のみ言を引用します。
「天運は、世界が一つの垣根となり、人類が一つの地球家族になることを求めています。……全人類は、唯一なる真の父母のもと、同じ兄弟であるという自覚をもつとき、答えが出てきます。神様と真の父母のもと、人類が一つの大家族を築き、互いにために生きて和合するとき、すべての問題が解けます」(『真の父母經』4篇1章1節12、303ページ)
「メシヤを迎えて一体化させて世界的勝利圏を築くことがキリスト教をはじめとする数多くの宗教の願いであり、そのような考え方が、再臨思想なのです。中には『メシヤ無しに直接神に行けばいいではないか、なぜメシヤが必要なのか』と言う人がいるかもしれませんが、そうではありません。真の父母がいなくては、地上天国の中心が定まらないのです。地上天国ができなければ天上の天国も形成されないのです」(「ファミリー」1982年9月号、10ページ、1982年5月30日)
「神様と真の父母に侍らなければなりません。神様は縦的な父母であり、完成したアダムとエバは横的な父母であって、この二つの父母が一つになったその上で統一が成され、天国と神様が連結されるのです。ですから、神様と真の父母に侍らなくては何もできません」(八大教材・教本『天聖經』2316ページ)
「One Family Under God、神様の下の一家族」とは、もともと真の父母様の思想であり、真の父母様が示しておられた内容ですが、その世界は、上述のみ言で分かるように、〝神様と真の父母様のもとの一家族世界〟なのです。
にもかかわらず、『統一教会の分裂』は、「創始者は、家庭連合創設と共に宗教時代が終わり、本然のアダム家庭が完成して、神様の創造目的を成していく時代になったことを宣言した。……救世主、メシヤ、真の父母の使命が完遂された状態は、救世主、メシヤ、真の父母の存在する必要がないことを意味する」(46~48ページ)とか、一家族世界とは「『神様を父母として侍る一つの血縁関係の大家族世界を志向する』という意味である」(62ページ)と述べるなど、その主張は、み言や『原理講論』と異なったものになっています。
前述したように、〝統一教会の核心アイデンティティ〟を正しく表現するなら、それは〝神様と真の父母様を父母として侍る一家族世界である〟と言うことができます。
神様の復帰摂理が成就され、すべての人が原罪のない神様の血統へと転換されて人類一家族世界が実現されたならば、確かに〝救い主〟としてのメシヤ、救世主、真の父母は必要なくなります。しかし、たとえ〝救い主〟が必要のない理想世界が実現したとしても、その理想世界は神様と一体となった真の父母を礎とする世界であり、人間始祖の立場である「真の父母」は永遠に存在し続けるのです。このように見たとき、金鍾奭氏の述べる、〝真の父母の存在しないOne Family Under God〟が誤りであることが分かります。
(2)顯進様の〝統一教会の伝統〟に関するアイデンティティの問題点
【問題点その①-復帰摂理の中心が創始者ではないとする誤り】
金鍾奭氏は、〝統一教会の伝統〟に関する顯進様のアイデンティティを次のように述べています。まず、『統一教会の分裂』から、顯進様のアイデンティティを引用します。
「第一に文顯進は、復帰摂理の中心が創始者(注、お父様)ではなく、創造主である神様であることを主張する」(63ページ)
果たして、この『統一教会の分裂』がいう顯進様の主張は正しいのでしょうか。
『原理講論』を以下、引用します。
「もしユダヤ民族が、イエスを信じかつ侍り奉って、彼を神の前に民族的な生きた供え物として、み意にかなうように立てていたならば、そのときにおいても彼らが立てた『メシヤのための民族的基台』の上に来られたメシヤを中心として、復帰摂理は完成されることになっていたのである」(282ページ)
「アブラハムからイエスまでの2000年期間は、神が……自らサタンを屈伏する第一次の責任を担われ……蘇生的な復帰摂理を行われた時代であったので、この時代を『神の責任分担摂理時代』という。……イエスからその再臨期までの2000年期間は……イエスと聖霊とが、サタンを屈伏する第二次の責任を担われて……長成的な復帰摂理を行われる時代であるので、この時代を『イエスと聖霊の責任分担摂理時代』という。……イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は……地上と天上にいる聖徒たちが……第三次の責任を担って復帰摂理を完成しなければならない時代であるので、この時代を『聖徒の責任分担摂理時代』という」(286~287ページ)
次に、お父様のみ言を引用します。
「再臨主は、イエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するために来られます。すなわち、創造理想を完成すべき真の本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するために来られます」(『祝福家庭と理想天国(1)』43ページ)
以上のみ言と比較してみると、金鍾奭氏が述べる顯進様のアイデンティティとの間に、明確な〝食い違い〟があるのが分かります。
もちろん、復帰摂理は、堕落した人間を創造本然の人間に復帰していく神様の摂理であるために、そのような観点から見るとき、摂理の中心は神様であると言うことができます。しかし、注目すべき点は、金鍾奭氏の主張のうち「復帰摂理の中心が創始者ではない」と否定している部分です。
前述したように、『原理講論』は、「メシヤを中心として復帰摂理は完成される」、「イエスからその再臨期までの2000年期間は……『イエスと聖霊の責任分担摂理時代』……イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は……『聖徒の責任分担摂理時代』」と論じています。
そして、み言にも「再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するために来られます」とあり、復帰摂理の中心が、創造主である神様のみであると断言することはできません。
むしろ、アダムとエバの堕落で失った「真の父母」を取り戻すため、「真の父母」ご自身が責任を果たし、勝利しなければならないという観点から見ると、復帰摂理の中心は「真の父母」であると言えます。
事実、『原理講論』は、「人間始祖がその責任分担を全うすることができなかったために、逆にサタンの主管を受けなければならない立場に陥ってしまった。それゆえに、人間がサタンの主管を脱して、逆にサタンを主管し得る立場に復帰するためには、人間の責任分担としてそれに必要な蕩減条件を、あくまでも人間自身が立てなければならないのである」(276~277ページ)と論じています。それゆえ、人間始祖の立場で来られた「真の父母」の使命が極めて重要であるということは言うまでもありません。
ところが、金鍾奭氏は、「復帰摂理の中心が創始者ではない」と否定します。『統一教会の分裂』の述べる〝顯進様のアイデンティティ〟の主張は、お父様の目指す理想世界と異なった、〝真の父母の必要ない世界〟をつくろうとするものと言わざるを得ません。
【問題点その②-創始者を神様の実体として崇拝していると批判する誤り】
まず、『統一教会の分裂』を引用します。
「第二に文顯進は、(創始者が生涯をかけて克服しようとした)宗教的救援論の限界の中に創始者を閉じ込めてしまう統一教会の宗派的教理とアイデンティティを批判した。統一教会が創始者を創造主・神様と一体を成した存在、神様の実体として崇拝してきたのと違い、文顯進は創始者を創造主・神様の理想を実現する為に一生を捧げた『息子』として認識し、創始者をこうした次元のメシヤとして定義している」(63ページ)
さらに、金鍾奭氏は、「彼(注、顯進様)の認識は、復帰された人間と創造主である神様との関係を明らかにすることによって、創始者と韓鶴子を神格化しようとする既存の統一教会神学を批判する」(63ページ)と述べ、そして統一教会が、「創始者を創造主・神様と一体の存在、神様の実体として崇拝」(同)していると批判しています。この批判を、原理的に検証してみます。
まず、お父様のみ言を引用します。
「神様がアダムとエバを造った目的はどこにあるのでしょうか。私たち人間の形状を見てください。体をもっています。しかし、無形の神様には体がありません。体をもたなければ、霊界世界や地上世界を治めることができないのです。ですから、神様がいらっしゃるにしても、神様が人間の父母として現れるためには体をまとわなければならないのですが、その体をもった代表が誰かというと、アダムとエバなのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れるのです。それゆえアダムとエバは、人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様となるのです。実体をもった神様、すなわち永遠の無形世界の神様の形状を代わりにもって現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです」(八大教材・教本『天聖經』124ページ)
「アダムとエバが、心の中に神様をお迎えし、一体となって完成した上で、結婚して子女を生んで家庭を築いたならば、アダムとエバは外的で横的な実体の真の父母になり、神様は内的で縦的な実体の真の父母になったことでしょう。……神様は、真の愛を中心としてアダムとエバに臨在されることにより、人類の真の父母、実体の父母としておられ、アダムとエバが地上の生涯を終えて霊界に行けば、そこでもアダムとエバの形状で、彼らの体を使って(神様は)真の父母の姿で顕現されるようになるのです」(『平和神經』54~55ページ)
以上のみ言から見るとき、アダムとエバが完成し、真の父母となったなら、神様はアダムとエバに臨在され、真の父母は〝実体の神様〟の立場になるというのです。
ところが、金鍾奭氏は、「文顯進は創始者を創造主・神様の理想を実現する為に一生を捧げた『息子』として認識し、創始者をこうした次元のメシヤとして定義している」と述べており、その主張は、「アダムとエバは、人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様となる」というお父様のみ言と食い違っています。
イエス様は、「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書10章30節)、「わたしを見た者は、父を見たのである」(同、14章9節)と言われました。これと同じく、お父様は、〝真の父母は実体をもった神様である〟と語っておられるのです。
また、金鍾奭氏は、「統一教会が創始者を創造主・神様と一体の存在、神様の実体として崇拝」していると批判的に述べます。
『原理講論』を引用します。
「再臨主は、旧約と新約のみ言を完成するための、新しいみ言をもってこられる方である。ゆえに、完成復活摂理は、新旧約を完成するために下さる新しいみ言(これは、成約のみ言であるというのが妥当であろう)を、人間たちが信じ、直接、主に侍ってその責任分担を完遂し、義を立てるように摂理なさるのである。それゆえに、この時代を侍義時代ともいう」(219ページ)
金鍾奭氏は、「真の父母様を崇拝している」と批判的に述べますが、『原理講論』が論じるように、完成復活摂理とは、直接メシヤ(真の父母)に侍って義とされる侍義時代であり、侍ることで救いを完成させる時代です。それを、より的確に表現するなら、統一教会は真の父母に〝侍っている〟のであって、金鍾奭氏が述べるように、ただ単に〝崇拝している〟のではありません。
『統一教会の分裂』の内容を、検証してみると、統一教会の〝アイデンティティ〟を間違って理解している事実が明白になるばかりです。そして、同書に書かれている〝統一教会のアイデンティティ〟が、顯進様の理解する〝統一教会のアイデンティティ〟を元に構成されていることからすれば、顯進様の理解する〝統一教会のアイデンティティ〟は間違った主張であるという事実が明らかになるのです。
また、メシヤについても、「創始者を創造主・神様の理想を実現する為に一生を捧げた『息子』」であると定義します。
ここで、明確にすべきことは、神様の創造理想世界、すなわち神様の創造目的がどのようにして成されるかという問題についてです。
まず、『原理講論』を引用します。
「元来、神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。もし、彼らが堕落しないで完成し、神を中心として、真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば……神の三大祝福完成による地上天国は、そのとき、既に完成されたはずであった」(267ページ)
次に、お父様のみ言を引用します。
「皆さん各自の血統的内容が違い、背後が違っているとしても、父母と似るためには接ぎ木する役事を行わなければなりません。……接ぎ木しようとすれば、皆さん自身が残された蕩減路程をすべて清算しなければなりません。それは、父母から始めたので、父母を通して清算されなければなりません。ですから、真の父母に接ぎ木しなければならないのです。アダムは、真の父母になることができず、偽りの父母となったので、今まで神様は、真の父母を探し求めてこられたのです。再臨時代における『新郎新婦』や『小羊の婚宴』というものも、すべて父母を取り戻すためです」(八大教材・教本『天聖經』1742ページ)
「この世の中に一つの真のオリーブの木の標本を送ろうというのが、メシヤ思想です。しかし、真のオリーブの木であるメシヤが一人で来てはいけません。サタン世界がすべて、夫婦を中心として社会を築き、国家を築いたので、メシヤが一人で来ては、真のオリーブの木になれないのです。メシヤとしての真のオリーブの木と、メシヤの相対となる真のオリーブの木を中心として、これが一つになってこそ、真のオリーブの木として役割を果たすのです。実を結べるということです。ですからイエス様は、この地に新郎として来て、新婦を探し出して真のオリーブの木の畑をつくり、サタン世界の野生のオリーブの木をすべて切って、接ぎ木する運動ができるように準備しなければなりませんでした」(マルスム選集134-11、1985年1月1日)
上記のみ言を要約すると、メシヤは〝神の創造目的〟を完成するために来られるのであり、その三大祝福を完成するには、一人では成しえないということです。それゆえ、再臨主は〝小羊の婚宴〟を成して「真の父母」にならずして、創造目的を成しえないのです。
したがって、金鍾奭氏は、「文顯進は創始者を創造主・神様の理想を実現する為に一生を捧げた『息子』として認識し、創始者をこうした次元のメシヤとして定義している」(63ページ)と主張しますが、その思想は、神のみ旨を成就される「真の父母」という観点からみれば、根本的に誤った言説であると言わざるを得ません。
神様の創造理想を実現するには、真のお父様だけで成し得ません。
前述したみ言に、「神様と真の父母に侍らなければなりません。神様は縦的な父母であり、完成したアダムとエバは横的な父母であって、この二つの父母が一つになったその上で統一が成され、天国と神様が連結されるのです。ですから、神様と真の父母に侍らなくては何もできません」(八大教材・教本『天聖經』2316ページ)とあるように、理想世界を実現するには、神様だけを中心とするのでは天国(天一国)は連結されず、どこまでも「二つの父母が一つになったその上で統一が成され、天国と神様が連結される」ということを知らなければなりません。
したがって、お父様と共にお母様も「真の父母」として神様の創造理想を実現するために、一生を捧げてこられ、今なお歩んでおられるのです。このような事実を踏まえると、『統一教会の分裂』は意図的にみ言を操作し、お母様の存在をおとしめようとしているものと言わざるを得ません。
今回は『統一教会の分裂』が主張する〝統一教会のアイデンティティ〟と〝真の父母の捉え方〟に対する誤りを中心に述べてきましたが、同書籍が述べる〝統一教会のアイデンティティ〟等が顯進様の主張を元に構成され、UCI側の人たちがこの書籍を積極的に広めていることを見ると、この書籍の内容は、顯進様の主張を〝代弁〟していることが明らかと言えます。
私たちは、この書籍がそのように一方を代弁する立場で書かれていることをはっきりと知り、その内容に触れることがあったとしても、真の父母様のみ言に基づいた以上の視点を決して見失ってはならないのです。-続く-