「韓民族選民大叙事詩」批判に対する応答①

文責:教理研究院

     注、真の父母様のみ言や『原理講論』および家庭連合の出版物の引用は「青い字」で、非原理集団など主張は「茶色の字」で区別しています。

 現在、家庭連合が行っている「韓民族選民大叙事詩」教育について、それを批判する非原理集団側の言説があることから、教理研究院はそれらに対して順次、以下のとおり応答する次第です。今回は応答①です。

(1)「『韓民族セム族起源説』は学問的証拠の無い主張」という批判に対する応答

 まず、「韓民族選民大叙事詩」を正しく理解するには、「叙事詩」の意味を理解しておく必要があります。
 ソウル大学で宗教学を専攻した安姸姫教授は、「叙事詩」の意味を理解するために、まず「『神話』と『歴史』の違い」について、次のように述べています。

 ①『神話』と『歴史』の違い
 ……『叙事詩』とは歴史でしょうか? それとも神話でしょうか? 第一講で李基植事務局長が、〝これを(人間による)歴史と捉えてはならない〟と語られたと思います。宗教の歴史には、神聖な物語である『神話』があります。……その神聖な物語である『神話』を伝承しながら、信仰内容や儀礼として表現しているのです。
 一方、私たちは『歴史』というものを知っています。歴史は人間の物語です。人間が何をしたのか、ということです。その『歴史』を築いた行為者は人間です。神々が歴史をつくる行為者として登場することはありません。人間が目で確認し、記録を通して語る人間の物語が『歴史』なのです。
 一方、『神話』は神々の物語です。神話には、神格化された人間は登場しますが、『神話』の主人公・行為者は神々です」(『韓民族選民大叙事詩【補助教材】』光言社48~49ページ)

 安教授は、以上のように「神話」と「歴史」の違いについて述べています。すなわち、「神話」とは神々の物語であり、人間の物語である「歴史」と区別されなければならないものだというのです。このことを押さえた上で、安教授は「叙事詩」について次のように述べています。

 ②『叙事詩』について
 では『叙事詩』とは何でしょうか? まさに、神々が人間の歴史にどう関わったかを述べ、その中で人間も共にあってつくられる物語が『叙事詩』なのです。どの宗教が最もふさわしい叙事詩(伝承)を持っているのかと言えば、ユダヤ教です。……ユダヤ人は『歴史』と『神話』を区分しないからです。歴史の中に神が臨在し、役事されると信じる宗教なのです。ユダヤ人は『叙事詩』の様式を通して天地創造から現代までのユダヤ人の歴史を、神が選んだ『選民史』として信仰告白をするのです。……
 旧約聖書は『創世記』から始まりますが、歴史的記録としては『創世記』ではありません。それは『出エジプト記』という脱出記から始まるのです。しかし、その脱出記の記録さえ、その周辺諸国で書かれた歴史書にはないのです。旧約聖書に関わるこの話は、実証的な歴史書には記録がありません
 ところで、南朝ユダが滅亡した後、バビロン捕囚が起こりました。バビロンの大帝国(新バビロニア)の栄光の中で、ユダヤ人は〝僕暮らし〟をしていました。神が祝福した民族なのに、暗鬱で絶望的な中で、天地創造の神がユダヤ民族の神として、その先祖(族長)を通して我々を〝選民とされた〟と告白するようになったのです。それによって、天地創造から今日までのユダヤ民族史を信仰告白するのです。それが旧約聖書(モーセ五書)に出てくるユダヤ民族の話です。これこそ代表的な『叙事詩』です」(前掲書、49~50ページ)

 安教授は、「叙事詩」について以上のように説明しています。すなわち、「叙事詩」とは、神々が人間の歴史にどう関わったかを述べ、その中で人間も共にあってつくられる物語であり、その「叙事詩」である「創世記」の記述内容に関して、「周辺諸国で書かれた歴史書……実証的な歴史書には記録がないというのです。それが、ユダヤ教の持つ「創世記」です。「創世記」は、天地創造から現代までのユダヤ人の歴史を、神が選んだ「選民史」として信仰告白をしています。この安教授の説明を通して、「神話」と「歴史」と「叙事詩」の違いを理解しておかなければなりません。
 さて、統一原理は、叙事詩である「創世記」の記述を象徴的同時性の時代として解釈しています。すなわち、アダム・エバのエデンの園から始まり、ヤコブがエジプトに移住するまでの歴史的な記述は、あくまでも象徴的同時性であるというのです。
 以上のことを踏まえた上で、「創世記」について、聖書注解書は次のように説明していることを理解する必要があります。

 「創世記は……(ある一つの)企画をもって編集せられた跡が歴然と残っている。……その特徴ある定形句の10回に及ぶ、くり返しの付せられた区分によって(そのことが)伺われる。〔1〕『これが天地創造の由来である』……〔2〕『アダムの伝』(5・1)。〔3〕『ノアの伝』(6・9)。〔4〕『セム、ハム、ヤペテの伝』(10・1)。〔5〕『セムの伝』(11・10)。〔6〕『テラの子(アブラハム)の伝』(11・27)。〔7〕『イシマエルの伝』(25・12)。〔8〕『イサクの伝』(25・19)。〔9〕『エサウの伝』(36・1)。〔10〕『ヤコブの伝』(37・2)。編集者は天地の創造から筆を起し、人類初期の歴史から、諸民族の起源に書き及び、読者の注意を徐々にイスラエルに集中して行く。諸民族は漸次に放棄せられ、ただ系図だけが残される。……ノアの子孫は、セムの血統を除いて……他はことごとく放棄せられてしまう。25章12~18節においてイシマエルは見失われ、イサクだけが残存する。36章の後、エサウとその子孫の記事が放棄せられ、ただヤコブと彼の子孫だけが存続する。創世記におけるこの『放棄』と『存続』こそ編集者の意図であって、そこにイスラエル民族の選びという思想が伺われる」(『旧約聖書略解』3ページ)

 ところで、真のお父様は「人類歴史は数千万年です、数千万年。6000年ではありません」(1998年8月28日)と語っておられます(ちなみに、ヘルシンキ大学古生物学教授のビョルン・クルテン〈1924~1988〉は「人類歴史は数千万年前まで遡ることができる」と研究発表をしており、また、マイクル・クレモ、リチャード・トンプソンらは「人類の起源は5000万年前まで遡れる」と主張しています)。このお父様のみ言にあるように、人類歴史は膨大な期間を経てきたのであり、「創世記」から導かれるアダムからヤコブまでの記述はどこまでも象徴的歴史に過ぎません。しかし、その象徴的歴史が原型となって、その後のイスラエル史、さらにキリスト教史が同様のあり様で繰り返されたのです。その一点において「創世記」の歴史は、叙事詩として描かれた歴史ですが、神の啓示に基づく記述であることは明々白々です。実際の歴史と深く関わっているからです。
 さて、前述した聖書注解書にあるように、「ノアの子孫は、セムの血統を除いて……他はことごとく放棄せられてしまう」というのです。そこには「編集者の意図であって……イスラエル民族の選びという思想が伺われる」というのです。

 『原理講論』には、ノア家庭における3次の鳩の摂理について次のように述べられています。「7日を経て、ノアは再び鳩を放った。けれども、そのときにも、やはり水が乾ききっていなかったので、地上にとどまることはできなかったが、しかし、その次にはとどまることができるという表示として、オリーブの若葉を口にくわえて、再び箱舟に帰ってきたのである。2番目に放ったこの鳩は……イエスを象徴したのである。したがって、このみ言は、イエスが復帰摂理を完成なさるためにこの地上に来られるが、もし、ユダヤ人たちが不信仰に陥るならば、彼は地上にとどまることができなくなり、そのみ旨を完全に完遂することができないために、やむを得ず、彼は再臨することを約束して十字架につけられ、再び神の前に戻るようになることを予示されたのである。もちろんこの予示は両面の意味を含んでいる。……将来、ユダヤ民族がイエスをよく信じ、よく従えば、彼は決して途中で死ぬことなく、地上天国を実現するであろうが、万一彼ら(ユダヤ民族)が不信仰に陥れば、イエスはやむなく十字架にかかって死なれ、再臨せざるを得なくなることを、あらかじめ見せてくださったのである」(307ページ)
 この記述は、セムの子孫の流れから起こった西側に準備された選民・ユダヤ民族に対する予定であり、彼らが責任を果たせないときは、再臨の摂理へと移行することを述べたものです。前述した聖書注解書にあるように、セムの子孫以外はすべて放棄せられている事実から見たとき、セムの子孫のうち、東側に準備された選民・韓民族から再臨摂理が成就することは、〝神の選びの思想〟と予定論から見て当然のことと言わざるを得ません。
 すなわち、ノア家庭の3次の鳩の摂理に見るように、2番目の鳩は、万一ユダヤ民族が信仰を立てられないことを踏まえた上で、預言されていた内容です。セムの子孫以外はすべて放棄せられている事実に基づいて、ユダヤ民族が失敗したときのためにあらかじめ韓民族が準備されていたことを謳っているのが「韓民族選民大叙事詩」になります。人類の真の父母は、韓民族に顕現したのであり、それゆえ真のお母様は、「『韓民族選民大叙事詩』を作るのは、神様が堕落した人間を信じることができない一方で、神様は始まりと終わりが同じであるため、必ず成功しなければならないからです。それで、天の父母様はアジアの日が昇る国を選び、選民として育てながら、1943年に独り娘を誕生させました。韓民族の歴史は、東方の選民のストーリーなのです(2024年9月6日)と語っておられるのです。

 また真のお父様は、「ノア家庭からみた場合に、黄色人種はセム、黒人はハム、白人はヤペテなのです」(1975年2月23日「勝利の限界点」)と語っておられます。さらに、「神様の2000年の(キリスト教)歴史は、新婦を求めるための歴史です。イエス様は、真の息子の姿で現れましたが、真の娘の姿がないので、神様のみ旨を成し遂げることができませんでした。ですから、2000年のキリスト教の歴史は、娘(独り娘)を求めるための歴史です」(マルスム選集7-304)とも語っておられます。それは2000年前、ユダヤ民族が信仰を立てられなかったため独り娘が顕現できず、イエス様は真の父母になることができなかったためです。
 さらにお父様は、「イエス様は『私は神様の独り子だ』と言いました。……独り子に必要なものが何かと言えば、独り娘を探すことです。……世界を救うために出発しようとすれば、一人ではいけないのです」(マルスム選集159-192)。また「神様は、男性である独り子を先に送られました。……独り子が来たならば、その次には、何が来なければなりませんか。(「独り娘が来なければなりません」)……それでは、独り娘が生まれたという話を聞いたことがありますか。(「聞いたことがありません」)現れなければなりません」(同23-150)と語っておられるのです。
 それゆえ、セムの子孫の流れから、人類の真の父と真の母が顕現したという事実を、厳粛に受け止めなければならないでしょう。セムの子孫の流れ(これを「セム族」と名付ける)から独り娘が遣わされたことに対して批判する人がいますが、それは的外れな批判です。上記の内容を踏まえれば、セムの子孫の流れから独り娘が生まれ、そのことゆえに人類の真の父母が顕現したという事実は否定することができません。

 「『韓民族セム族起源説』は学問的証拠の無い主張」という批判は、「叙事詩」の意味も踏まえずに(『補助教材』の48~50ページを理解せず)、さらに神が「叙事詩」である「創世記」を通して啓示しようとしている内容も受容しようとしない、不信仰極まりない〝批判のための批判〟に過ぎないものです。