「週刊現代」に掲載された〝み言批判〟の虚偽【反論1】 ――文鮮明師の思想は〝反日〟ではない

 「週刊現代」2022年11月19・26日合併号に、「統一教会・文鮮明『日本憎悪』の凄まじい未公開語録」と題する批判記事が掲載されました。その記事は、「日本への憎しみや蔑視が入り混じった文氏の複雑な心境」とコメントしながら、家庭連合(旧統一教会)創始者・文鮮明師の御言選集から一部を抜粋して批判文を書いています。これらの批判は、全体の文脈(コンテクスト)の意図を汲み取っておらず、悪意を持った批判にほかなりません。

 その批判文は「日本は一番の怨讐の国でした。二重橋を私の手で破壊してしまおうと思いました。裕仁天皇を私が暗殺すると決心したのです」(「週刊現代」168ページ)、「裕仁天皇を二重橋を越えて殺してしまおうとした地下運動のリーダーだったんです。こうした学生時代には、日本の婦人たちに無視されたこともたくさんありました」(同168~169ページ)とあります。

 これらの批判は、「週刊現代」に〝大意〟とあるごとく、文脈(コンテクスト)を考えないで批判しているものです。文師が語っている時代背景は、1941年4月から1943年10月の日本留学時代に限定されることです。この時代においては、韓半島出身者ばかりでなく、国内の共産主義者や反体制思想家、活動家などが、日本の軍国主義に対して様々な思いを抱いていたことは事実であり、文師も義憤心から戦争をやめさせるために様々な思いを持っていたことが窺われます。文師は次のように語っています。

 「日本の国もわたしと怨讐でしょう。日本がどれほど怨讐ですか。昔、日本の天皇を捕まえて殺そうと、それを皆、謀議していたのに、わたしは、『やいやい、そんなことはするな』と言ったのです。それで、日本人以上にアジアのために生きなさいというのです」(『本郷』94ページ)

 これは、文師が、日本統治時代において「愛国者」「国の忠臣」として地下運動をしたと語っておられ、「愛国」のために、韓国のみならず、日本の国、ひいてはアジアを生かすためであると語っているみ言もあることから明らかです。「週刊現代」が取り上げた文言は、日本統治時代という時代的背景を無視しています。事実、終戦後の日本に対して「天は滅んだ(敗戦)者を再び打つことはありません。滅んだ者の中で、自分の罪を自首して謝罪する者に対しては、憐れみをもって対する」(御言選集25-333)という天(神様)と同じ思いをもって対さなければならないと語っておられます。文師が語られた内容の全体を見ていないため、「週刊現代」の批判内容は〝大意〟にすらなっていません。

 文師は、さらに次のようにも語っておられます。「先生は日本人から、多くの拷問を受けました。しかし戦争が終わって、拷問をしたその特高刑事に復讐をしようとしている友達たちを集め、『かわいそうなのは負けた日本である。すでに主権を失って、膝を屈している哀れな人間を打つ者は、神様が罰せられる』と話して、また韓国において(残留し)追われている日本人をひそかに呼んで、『拷問される前に早く帰りなさい』と言って荷物をまとめることもしてあげたのです」(御言選集15-182)

 このように、文師は第二次世界大戦中、弾圧している「全体主義」国家としての日本と戦っていたのであって、それは「罪を憎んで人を憎まず」の精神からであることを知らなければなりません。「週刊現代」は、「『日本憎悪』の凄まじい未公開語録」と大げさなタイトルを銘打っていますが、決して日本という国家そのものを憎悪しているわけではありません。それはあくまでも、戦時中の「全体主義」国家としての日本に対してであり、当然、そこに天皇に対する憎しみがあったというわけではありません。

 文師は、天皇が〝万世一系〟という優れたものとして、日本の天皇を神の代身者の如く敬うことも良しとして語っています(「『反日カルト』批判の〝虚偽〟」を参照)。

 また、「先生は日本の歴史上誰よりも日本を愛した。韓国人ではないかと言うかも知れない、平面的基準はそうかも知れないが、しかし内的基準においては、日本人以上に日本を愛したのである」(1969年4月27日、「理想の基準」より)とも語っておられます。

 「週刊現代」の批判記事は、ある一部の言葉だけ抜き取り、文師を貶めようとする〝悪意〟に満ちたものと言わざるを得ません。

 ちなみに、「週刊現代」は「皇居の正門に架かっている二重橋を破壊しようとしていた」(169ページ)と述べますが、文師の留学時代には二重橋は参賀が禁止されており(参照:Wikipedia「二重橋」)、破壊することは不可能なことでした。この記事は、左翼勢力が保守派と家庭連合との〝分断作戦〟を謀ったものと言わざるを得ません。