文責:教理研究院
注、真の父母様のみ言や『原理講論』は「青い字」で、サンク
チュアリ教会側の主張は「茶色の字」で区別しています。
(1)〝常軌を逸した行動〟を取り続けるサンクチュアリ教会
サンクチュアリ教会は、ライフル銃を聖書の黙示録にある〝鉄の杖〟と称してそれを携帯し、弾丸ベルトを王冠と称して被ったりして、『原理講論』の教えからも完全に逸脱した〝常軌を逸した行動〟を今なお取り続けています。
そのような非原理集団に追従する澤田地平氏は、2018年2月27日付けの「内容証明郵便」で、徳野英治会長(世界平和統一家庭連合)宛てに、以下のような真のお母様のみ言を批判する文書を送付してきました。
「韓鶴子氏は本年2月21日天正宮で行われた天地人真の父母様御聖誕記念敬礼式で、『創造主である神様は万物世界を見たとき、人間世界を見たとき、男性格の主体ではなく天の父と天の母として存在され、生命体が誕生したということを皆さんははっきりと知らなければなりません』と語りました。すなわち『神様は男性格主体ではない』ということです。
しかし、原理講論には『このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである』とあります。すなわち『神様は男性格主体である』ということです。
ですから原理講論によれば、それは文鮮明師の立場からすればということですが、韓鶴子氏の『神様は男性格主体ではない』という発言は明らかに間違っています」
澤田地平氏は、上述のように述べ、真のお母様(韓鶴子女史)のみ言を批判しますが、この批判は、み言の全体像を把握せず、いわゆる〝言葉の揚げ足取り〟をしているものに過ぎません。このような〝言葉の揚げ足取り〟に対し、まともに相手にする必要はないものと考えますが、澤田氏は執拗なことに、再度、徳野英治会長宛てに4月19日付けの「内容証明郵便」を送付して、同じ質問を繰り返してきたことから、教会員の皆さまにもこの件で理解を深めて頂くために、今回は、教理研究院として、以下のように応答をする次第です。
(2)「神様は父母であられる」ことを強調されたお母様
―「神様は男性格主体ではない」と否定したとの批判は〝言葉の揚げ足取り〟
『原理講論』に、「被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかった」(47ページ)と論じられているように、主体であられる神様は「被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられた」のであり、神様が創造された被造世界は「形状的な女性格対象」であるというのは言うまでもありません。
澤田氏の問題点は、み言の〝文脈〟を無視して論旨を汲み取らず、ある一部の言葉尻をとらえて批判に終始することです。今回の批判も、〝言葉の揚げ足取り〟に過ぎないものであり、これは澤田氏の〝悪癖〟とも言いうるものです。
お母様のみ言全体に目を向けると、お母様は、まず「神様が天地創造をされるとき、ご自身の形状、ご自身の姿に似せて被造世界を創造し始められました。鉱物世界のプラスとマイナス、植物世界の雄しべと雌しべ、動物世界の雄と雌、最後に人間始祖となりうる男と女、聖書でいうアダムとエバを創造されました」(『世界家庭』2018年5月号、2ページ)と語っておられます。その前提とするみ言の流れの中で、「神様が創造された万物世界を見て、人間世界を見て」(同)と述べられた後で、「今まで宗教人たちは一つの面だけを見詰めました」(同、3ページ)と語っておられるのです。
ここで、お母様が「今まで宗教人たちは一つの面だけを見詰めました」と語っておられることで分かるように、お母様は、当然ながら、神様が「男性格主体」であられることを前提とした上で、その考え方は「一つの面だけ」を見詰めているものに過ぎないと指摘しておられるのです。
事実、『原理講論』は、「神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである」(47ページ)と論述し、神様の中に男性と女性の原因があることを明示しています。私たちは「神様は性相的な男性格主体」であると同時に、「神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給う」(46ページ)存在であられることを明確に認識しなければなりません。
したがって、被造世界に現れた〝現象面〟すなわち「鉱物世界のプラスとマイナス、植物世界の雄しべと雌しべ、動物世界の雄と雌、最後に人間始祖となりうる男と女」を見たときに、第一原因であられる神様が〝陽性・陰性〟であられることは明らかであり、それゆえ、お母様は「天の父と天の母がいらっしゃって生命体が誕生するようになったということを、皆さんははっきりと知らなければなりません」(『世界家庭』2018年5月号、2~3ページ)と指摘しておられるのです。
澤田氏の批判は、み言の文脈を見ず、一部の〝言葉尻〟をとらえて批判しているものに過ぎません。このときのお母様のみ言の〝要旨〟を伝えた「中和新聞」2018年2月27日号は、「ですから、万物世界や人間世界を見て、創造主・神様は、男性格・主体としてだけではなく、天の父・天の母としていらっしゃり、生命体が誕生するようになった」とその意味を文脈から見て〝要約〟して記述しています。
「中和新聞」の要旨として「男性格・主体としてだけではなく」と書かれている意味こそが、お母様が語っておられるみ言を的確に伝えるものであり、これがこの時のみ言の真意、かつ、正しいみ言理解なのです。
(3)「神様は父母であられる」ことを述べている『原理講論』
澤田地平氏が強調している「神様は男性格主体である」という考え方は、『原理講論』の一点を見つめているだけの近視眼的思考であり、今回、お母様が指摘された、まさに「今まで宗教人たちは一つの面だけを見詰めました」という短絡的見つめ方そのものであると言わざるをえません。
実際、『原理講論』を注意深く読んでみると、次のような記述が散見します。
「神を父母として侍り……」(33ページ)、「神御自身が父母となられ……」(34ページ)、「父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息される」(61ページ)、「人間の父母としていまし給う神」(92ページ)、「天の父母なる神」(235ページ)、「神の創造目的を、心情の因縁を中心として見るならば、神は、霊的な父母として、人間を実体の子女として創造された」(429ページ)、「神は、あたかも我々人間の父母がその子供たちに対するように、だれにも均等な環境と平等な生活条件とを与えようとされる」(506ページ)、「神は子女を失った父母の心情をもって悲しまれながら悪逆無道の彼らを救おうとして、罪悪世界をさまよわれた」(591ページ)
以上のように、『原理講論』は多くの箇所で、神様が「父母」であられることを述べています。神様は「男性格主体」であるという記述より、むしろ「父母」という記述のほうが数が多いのです。
お父様も、み言で「神様は縦的な真の父母であり、アダムとエバは横的な真の父母です」(八大教材教本『天聖經』1660ページ)と語っておられ、神様が「父母」であられることを明確に述べておられます。
(4)人類は、今「父なる神」という認識から「父母なる神」へと飛躍すべき時である
お父様は、その生涯路程において、最後の〝摂理機関創設〟となった「アベル女性UN創設大会」の講演において、〝神観〟の問題について重大発言をされました。
お父様は講演文を読まれる前、約30分間、講演の前提としての話をすると述べられ、次のようにみ言を語っておられます。
「今に至るまで、数多くの宗教がありますが、父なる神様を信じる宗教にはなりましたが、母のいない宗教を信じてきたという恥ずべき、恥ずかしさをこの時間に爆発させ、その歴史的な、あってはならないその悲運の痕跡を取り消すために……私の歩む道は、平和な道ではありませんでした」
「母(なる神)がいません。父なる神様は知っていますが、母のいない父を自分の神様だといって争い、奪い合う戦いをするこの教団どもの愚かさと国の権威の喪失を、誰が是正してあげるのですか」
以上のように、お父様は、今までの宗教が、神様を「天の父」としてのみ捉え、「母なる神様」でもあられることを理解してこなかった事実に対して、「恥ずかしさをこの時間に爆発させ」と訴えられ、「母のいない父を自分の神様だといって争い」合ってきたことを「愚かさ」と表現されました。
お父様は、「母のいない宗教」を信じてきたことを、「あってはならないその悲運の痕跡」とも語っておられ、母なる神様でもあられる事実を明確にするため、お父様は「私の歩む道は、平和な道ではありませんでした」と回顧しておられます。
このような、お父様の切実なる思いを誰よりもご存じであられるお母様は、「基元節」を期に、神様を「天の父母様」と呼び掛けるようにされました。この「天の父母」という呼び名は、すでに『原理講論』に明示されており、韓国語の『原理講論』210ページには、神様の呼び名として「하늘 부모로 계신 하나님」と書かれています。これを日本語に直訳すると「天の父母であられる神様」になります。まさしく「天の父母様」なのです。このことで、どれほど神様と真のお父様が慰めを受けられたことでしょうか。
お父様は、「母のいない宗教を信じてきた」という「あってはならないその悲運の痕跡を取り消すために」全生涯を神様のために捧げて歩まれたのです。
私たちは、そのようなお父様の生涯路程に思いを馳せるとき、人類が神様に対していつまでも旧態依然として「天のお父様」と呼び続ける時代を卒業して、一刻も早く「天の父母様」と呼び掛けることのできる時代圏を迎えていかなければならないと言えるでしょう。
澤田地平氏は、お父様のこのような神様に対する切実な思いが分からずに、ただ批判ばかりに終始しているのです。
澤田氏の言動には常軌を逸するものがあり、毎週毎週、近隣の人々や礼拝参加者の迷惑を顧みることなく、一見するとコックのような特異な装いで大声を張り上げる秋月俊三氏と共に〝礼拝妨害〟を1年3か月以上にもわたって続けています。このように、常識の全く通じない言動を取り続ける人たちの主張に耳を傾ける人は、おそらくいないことでしょう。
私たちは、澤田地平氏の〝言葉の揚げ足取り〟に基づく近視眼的な批判が、『原理講論』の内容とも、お父様のみ言ともかけ離れたものであることを知り、彼らの愚かな言動に惑わされてはなりません。