再臨主は行かれたように来られる――〝罪人の立場〟で逝かれたイエス

 キリスト教の教えに「贖い(あがない)」の思想があります。イエスは罪なき方(無原罪)として生まれましたが、人類の罪を身代わりに背負って〝罪人の立場〟で十字架に架かって亡くなられたというのです。そのイエス・キリストの〝代贖〟によって人類は救われるというのです。
 今回は、ルターやカルヴァンの神学的主張を織り交ぜながら、キリスト教の「贖い」の思想を取り上げ、み言に基づいてイエスの十字架と再臨の問題について考察します。

文責:教理研究院

                  注、真の父母様のみ言は「青い字」で表記しています。

 一、イエスの再臨はいかになされるか
 『原理講論』は、神の復帰摂理について次のように述べています。
 「再臨主はいくら険しい苦難の道を歩まれるといっても、初臨のときのように、復帰摂理の目的を完遂できないで、亡くなられるということはない。その理由は、神が人類の真の父母を立てることによって、創造目的を完遂なさろうとする摂理は、アダムからイエスを経て再臨主に至るまで三度を数え、この三度目である再臨のときには、必ず、その摂理が成就されるようになっている」 (428ページ)

 人間始祖アダムとエバの堕落によって成就できなかった神のみ旨は、延長されたとしても、必ず成し遂げられるように神は摂理されます。そして、摂理的使命を果たせなかった人物は、同じ使命をもつ別の人物に再臨し、み旨成就のための〝善なる協助〟をするようになります。
 『原理講論』に「地上で自分の使命を完成できずに去った霊人たちは、各々自分たちが地上で受けもったのと同じ使命をもった同型の地上人に再臨して、そのみ旨が成就するように協助するのである」 (231ページ)とあるとおりです。

(1)エリヤ再臨の事例
①使命を中心として見れば、洗礼ヨハネはエリヤと同一人物
 エリヤは地上にいる洗礼ヨハネに再臨して、彼が使命を全うするように協助して、自分が地上の肉身生活で果たせなかった使命を、洗礼ヨハネの肉身を通して、彼によって完成させようとしたのであった。したがって、洗礼ヨハネはエリヤの肉身の身代わりとなる立場にあったので、使命を中心として見れば、彼はエリヤと同一の人物になるのである」 (『原理講論』205ページ)

②使命的に見れば、洗礼ヨハネの肉身は、エリヤの肉身の身代わり
 「イエスは地上で生活している洗礼ヨハネを指して、エリヤであると言われた。イエスがこのように言われた理由は、エリヤが洗礼ヨハネに再臨して、彼をして、自分が地上で完成されなかった使命まで代理に完成するように協助して、再臨復活の目的達成をさせようとしていたので、使命的に見れば、洗礼ヨハネの肉身は、正に、エリヤの肉身の身代わりともなるからである」 (『原理講論』226ページ)

(2)使命を中心として見れば、再臨主は初臨のイエスと同一人物
①初臨のイエスには原罪がないので、サタンが侵入できる条件がない
 「イエスには原罪がないので、サタンが侵入できる何らの条件もないのである」 (『原理講論』261ページ)。イエスが果たせなかった使命を代わりに果たすため来られる再臨主は、使命を中心として見れば、初臨のイエスと同一人物になります。それゆえ、次のように述べることができます。

②使命的に見れば、再臨主は、無原罪で誕生されたイエスと同一人物

(3)使命的に見れば、再臨主の肉身は、初臨のイエスの肉身の身代わりともなる
①肉身にサタンの侵入を受けて殺害されたイエス
 「ユダヤ民族がイエスに逆らうようになったので、彼らと全人類とを神の前に復帰させるための代贖の条件として、イエスの体をサタンに引き渡され、その肉身はサタンの侵入を受けるようになったのである」 (『原理講論』575ページ)。それゆえ、 「洗礼ヨハネの肉身は、正に、エリヤの肉身の身代わり」となったように、使命的に見れば、再臨主の肉身は、初臨のイエスの肉身の身代わりになります。それゆえ次のように述べることができます。

②使命的に見れば、再臨主の肉身は、(サタンの侵入を受けた)イエスの肉身の身代わり

(4)再臨主は、行かれたように来られるのが復帰の原則
①再臨主は行かれたように来られる
 真のお父様は、来られる再臨主について、次のように語っておられます。
 再臨主は行かれたように来られるのが復帰の原則です。あるものを無くしたら、無くしたところに行って取り戻すようになります。故障を起こしたら、その反対の方向で、故障を起こした順序を経てこそ、故障を起こさなかった場に戻るのです。これが因果法則に外れない鉄則ですから、再臨主も行かれたように来られるということを、知らねばなりません。失ったとおりに取り戻すようになることを、知らねばなりません」 (マルスム選集5-323)

 真のお父様は、再臨主は「行かれたように来られる」と語っておられます。再臨主が来られるときは、初臨のイエスが来られたときのように、同じように来られるものと考えがちですが、真のお父様は行かれたように来られると言われます。

②十字架で行かれた主なので、十字架を通して来られる
 イエス様は再び来られる時に、行かれたように来られます。十字架によって行かれましたから、十字架によって来られるのです」 (同12-227)
 「再び来られる再臨主は、聖書の文字どおりに空中から雲に乗って来られるのではありません。今年(1992年)の10月28日に、信じる者は空中に引き上げられるなどと宣伝する人たちもいますが、そのようなことは起きません。……十字架で行かれた主なので、十字架を通してこそ再び来られるのです」 (『平和經』1477ページ)

二、十字架を負って行かれた主は、十字架を負って来られる
(1)十字架を負って行かれたイエス
①全人類を救うための蕩減条件として、サタンに引き渡されたイエス
 『原理講論』は次のように論じています。
「神は、イエスに反対してサタンの側に行ってしまった、ユダヤ民族をはじめとする全人類を救うためには、その蕩減条件としてイエスをサタンに引き渡さざるを得なかったのである」 (422ページ)

 イエスに反対してサタン側に行った人類を救うため、その「蕩減条件としてイエスをサタンに引き渡さざるを得なかった」という考え方は、キリスト教の論じてきた「贖い」の思想に通じるものがあります。

②全人類の罪を贖罪(代贖)の条件として、イエスの体をサタンに引き渡された
 「ユダヤ民族がイエスに逆らうようになったので、彼らと全人類とを神の前に復帰させるための代贖の条件として、イエスの体をサタンに引き渡され、その肉身はサタンの侵入を受けるようになったのである」 (『原理講論』575ページ)

③イエスは人間の罪を〝贖罪〟するために死んだ
 「イエスが十字架に釘打たれて逝かれるようになったことは、誰のために逝かれたのですか? ……『人間の罪を贖罪するために……』罪を清算するために死んだのです。イエスが死んだことは、サタン(の讒訴圏)を清算するために死んだのです。これを知らなければなりません」 (マルスム選集58-24)

(2)キリスト教におけるイエスの十字架による「贖い」
 「贖いということばの聖書的概念は、ただ単に救出するという一般的な概念ではなく、買い取る、あるいは、身の代金を払って身受けするという概念である」(『新聖書辞典』いのちのことば社、9ページ)
 「贖う(あがなう)ということは、代価を払って買い取ることである。(日本語の〈贖〉が貝ヘンになっていることは、貝が古代の貨幣であったことからして、代価を払うことを意味する)。しかし、さらに問題となるのは、その代価の解釈である。なんのためにいかなる代価をだれが何者にむかって払うかということに従って、贖罪信仰にもいろいろの類型が分かれてくる」(『キリスト教組織神学事典〈増補版〉』教文館、196ページ)

①サタンに払う身代金として、イエスは十字架で亡くなられた
 「選民であるイスラエル民族の無知蒙昧のために、イエスの犠牲が必要になり、仕方なく神はそうされることを許されたのです。そこが十字架の重要なところなのです。神はサタンに払う身代金として、イエスが十字架でなくなられることを許されたのです。それと引き換えに、イエスの復活の時に、神は身体の贖いはできなくとも、魂は要求することができたのです。ですから、神の勝利は十字架にあったのではなく、復活にあったのです。これがキリスト教の救いなのです。……しかしイエス・キリストの身体は犠牲として、また償いとして取り去られてしまいました。御自身の肉体を取られたゆえ、人間の身体についても同様にあきらめざるを得なかったのです」 (『御旨と世界』395~396ページ)

②神は人類の罪のため、罪なきイエスを罪ある者とされた
 「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(コリント人への第二の手紙5・21)
 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。……主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。……彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」(イザヤ書53・4~12)
 「キリストは罪なき者であるのに神によって罪ある者とされ(ヘブル4:15、Iペテロ2:22)、他方人間は罪人であったにも拘わらず義なる者とされた(すなわち義人となり、神に喜ばれる者となった。それによって人は神の審きに耐えるのである)。罪なきイエスが罪を負う者とされたということは、いったいいかなることだろうか。……死によって彼はわれわれの罪をまとい、その罪のために罰せられた(ロマ3:25、5:8、Iコリ15:3、Iペテ2:24参照)。キリストが罪を負うた者とされたことによってのみ、キリスト者は新しい生命を受け得る」(『NTD新約聖書註解7』423ページ)
 「神は〈罪を知らない方〉つまり『義そのものでいます方』を、私たちの代わりに『罪そのもの』とされた。ここに〈私たちの代わりに〉という意味と目的がなければ、神は全く自己矛盾の方になってしまう」(『新聖書注解・新約2』いのちのことば社、399ページ)

 「教会においては、キリストの代価が身代金としてサタンに支払われたと見る考え(教父賠償説)と、神に支払われたとする満足説(充足説)の二つが基本的に認められてきた。西欧の教会は、基本的にアンセルムスの満足説(充足説)の立場を取りつつ、それを補う形で贖罪論を形成してきた。アンセルムスにおいては、神の満足の面が強調されたが、キリストの代価が人類の身代わりであったことは十分に説明されていなかった。この身代わりの面から贖罪論を考察するのが代償説(刑罰代償説)である。すなわち、キリストが私たちの罪を十字架上で負われたので、その結果私たちの罪は赦されるというのである。このことはイザヤの預言の中で語られている。『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。……彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。…は、私たちのすべての咎を彼に負わせた』(イザヤ53:5、6)」(『新キリスト教辞典』いのちのことば社、571ページ)

三、霊と肉に分かれたイエスの体
 イエス様の体が霊と肉に分かれました (『神様王権即位式』183ページ)
 「イエス様は、洗礼ヨハネの使命を果たす路程で、十字架を背負って亡くなられました。それで、息子の使命を果たすことができませんでした。……イエス様は、十字架で息子として死んだのではありません。イエス様が霊と肉が一つになった息子の立場で、神様に勝利をお返しする立場で祭物になっていたなら、再臨する必要はありません。完全に捧げられませんでした。半分しか捧げられませんでした。体は失ってしまい、霊だけ捧げられました。これでは、霊界の天使世界と似たり寄ったりです」 (八大教材教本『天聖經』683ページ)

(1)肉身にサタンの侵入を受け殺害されたイエス
①イエスには原罪がないので、サタンが侵入できる条件はない
 「イエスには原罪がないので、サタンが侵入できる何らの条件もないのである」 (『原理講論』261ページ)

②イエスの肉身はサタンの侵入を受け、ついに殺害された
 「ユダヤ民族がイエスに逆らうようになったので、彼らと全人類とを神の前に復帰させるための代贖の条件として、イエスの体をサタンに引き渡され、その肉身はサタンの侵入を受けるようになったのである」 (同575ページ)
 「ユダヤ人たちがイエスを信じないで、彼を十字架につけたので、彼の肉身はサタンの侵入を受け、ついに殺害されたのである」 (同187ページ)

③イエスの体をサタンが所有
 「神様の長孫であられるイエス様が、この地に来られて血を流され、イエス様の体はサタンが所有し、イエス様の心は霊界に行くようになったのです。それで、再び体を取り戻さなければならないので、再び来られなければならないのです」 (『ファミリー』2000年9月号15ページ)

 「イエスには原罪がないので、サタンが侵入できる何らの条件」もないはずですが、当時のユダヤ教の不信によってイエスは十字架に追いやられ、その「肉身はサタンの侵入を受けるようになった」というのです。
 そして、 「イエスの十字架による救いは、あくまでも霊的な救いのみにとどまり、我々の肉身を通して遺伝されてきた原罪は依然としてそのまま残っているので、イエスはこれらを贖罪し、人間の肉的救いまで完全に成就するために、再臨されなければならないのである。したがって、そのイエスの再臨も、霊体をもってなされるのでは、この目的を達成することができないので、初臨のときと同じく、肉身をもって来られなければならないのである」 (『原理講論』576ページ)

(2)サタン分立の墓中の三日期間
①罪の成立
 「(罪とは神から離れて、サタンと相対基準を結ぶ条件を成立させることをいうが)サタンも、ある対象を立ててそれと相対基準を造成し、授受の関係を結ばなければ、その存在、および活動の力を発揮することができない。ゆえに、いかなる存在でも、サタンが侵入できる条件が成立し、サタンの相対となって、サタンが活動できるようになったときに、そこで罪が成立するのである」 (同310ページ)

 「イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」(ルカによる福音書22・3)とあるように「メシヤのための基台」が崩れ、サタンが活動できるようになった結果、当時のユダヤ民族はイエスを十字架に追いやるようになりました(マタイ27・23)。イエスの肉身はサタンに侵害され、イエスは霊的救いのみを果たすようになったのです。

②サタン分立の墓中の三日期間
 「イエスも霊的な世界的カナン復帰路程を出発されるとき、サタン分立の墓中の三日期間があった」 (『原理講論』328ページ)
 「イエス様は、この地で十字架で亡くなったことだけでも無念なのに、死んで三日間地獄に行っていました。それが試験です。人間には、死が最高の恐怖なのに、イエス様には、地獄に行くことが最高の恐怖だというのです。ではイエス様は、その地獄で恐怖の主人になったのでしょうか、でなければ幸福の主人になったのでしょうか。イエス様は地獄に行って、三日間、苦痛を克服するための試練がありました」 (八大教材教本『天聖經』684ページ)

 こうして、イエスは「サタン分立の墓中の三日期間」を通して「霊的な世界的カナン復帰路程」を出発していかれたのです。

③「陰府(よみ)降下」に関するカルヴァンの見解
 「『陰府にくだり』……それは、われわれが単にキリストの肉体が贖いの価として渡されたもうたことを知るだけでなく、もうひとつの、もっと大きい、もっとすぐれた価―すなわち罪に定められ失われた人間の恐るべき責め苦を、かれがそのたましいにおいて忍びたもうたことを知るためである」(カルヴァン著『キリスト教綱要Ⅱ』333ページ)

(3)ルターとカルヴァンの贖罪観
①ルターの贖罪観
 「キリストは、ご自身の人格に関しては、罪なき方である……。ところがキリストは、みずからわれわれのすべての罪を引き受け、そのために十字架で死なれた。……キリストはいまは、みずからの人格において行為するのではない。いまは、おとめから生まれた神の子ではなくて、罪人である」(『ルター著作集・第2集11ガラテヤ大講解・上』408ページ)
 「『しかし、神のみ子を罪人とか呪いとか呼ぶのは、まったくばかげた、侮辱的なことである』と言う人々がいる。だが、もしキリストが罪人であって呪いであることを否定しようとするならば、さらには、キリストが苦しみを受け、十字架につけられ、死んだことまで否定するがよい」(同409~410ページ)
 「私にせよあなたにせよ、われわれすべてにせよ、どんな罪を犯したとしても、また、犯すとしても、それはあたかもキリストご自身が犯したかのようにキリストのものとなるのである。要するに、われわれの罪がキリストご自身の罪となるか、それともわれわれは永遠に滅びるかのいずれかなのである。……イザヤ書53章(6節)もまた、キリストについて同じように語り、『神はわれわれすべての罪科を彼に負わせた』と言っている」(同410ページ)

 ②カルヴァンの贖罪観
 「ユダヤ総督ポンテオ・ピラトの前におけるキリストの有罪宣告が、まず語られるのである。これはわれわれこそが負うべきであった刑罰が、この義人に課せられたということをわれわれが知るためである。……すなわち、有罪宣告を御自身の上にうつしつぐないを御自身でひき受け、この両方のことでわれわれを開放するような死である。……われわれはかれが有罪人・または犯罪人としての位置を忍びたもうたということを、理解するのである。……どうしてこういうことになったのか、それは、かれが義人、ないし潔白な人の位置でなく、罪人の位置をとりたもうたがためである」(カルヴァン著『キリスト教綱要Ⅱ』325~326ページ)

四、イエスが再び来られなければならない理由
(1)イエスは体を取り戻さなければならないので、再び来られなければならない
 「神様の長孫であられるイエス様が、この地に来られて血を流され、イエス様の体はサタンが所有し、イエス様の心は霊界に行くようになったのです。それで、再び体を取り戻さなければならないので、再び来られなければならないのです」 (『ファミリー』2000年9月号15ページ)

(2)第一次大戦の神側の勝利で、再臨主誕生の基台が造成
①復帰摂理から見た第一次世界大戦の結果
 「第一次世界大戦で天の側が勝利することにより、神の三大祝福を世界的に復帰するための蘇生的な蕩減条件を立てるようになった。……天の側の世界の王として来られる再臨主の誕生される基台が造成されたのである。……第一次世界大戦においては、天の側の勝利によってメシヤ再降臨の基台が造成され、そのときから再臨摂理の蘇生期が始まったのである」 (『原理講論』544~545ページ)

②再臨主を迎えることができる蕩減条件を誰が立てるのか
 「一度壊してしまった石板を、40日40夜の断食の祈りをもって復帰したということは、十字架で亡くなられたイエスも、彼を信ずる信徒たちが『40日サタン分立基台』をもって、彼を迎えることができる蕩減条件を立て得るならば、その基台の上に再臨なさり、救いの摂理を再び行うことができるということを見せてくださった」 (同379ページ)
 「イエスからその再臨期までの2000年期間は、イエスが十字架で亡くなられることによって、サタンに奪われるようになった旧約時代の2000年期間キリスト教信徒たちを中心として、天のものとして再蕩減復帰する時代であったので、この時代を『蕩減復帰摂理延長時代』という」 (同285ページ)

 そして真のお父様は、第二次世界大戦について次のように語っておられます。
 サタンは、『イエス様の体は自分のものなので、これを取り戻すためには、キリスト教自体が血を流して、歴史過程の勝利の覇権を持たなければ立つ場がないのではないか』と言うのです。それを再総清算する戦争が、第二次世界大戦です (『ファミリー』1997年3月号14ページ)

③再臨主は〝本然の赤ん坊の種〟として来られる
 「再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するために来られます。すなわち、創造理想を完成すべき真なる本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するために来られます。彼(再臨主)は、既にイエスの時まで神側が勝利した根本基台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に正しく立たれて、彼が果たせなかった新婦を探し出し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです」 『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』41~42ページ)

五、〝独り子〟を証しする真のお母様
(1)独り子の位置は残された
 「イエス・キリストは亡くなられる状況の中で、『私はまた来る』と言いました。神の独り子のその基台は生きているのです」 (お母様のみ言、2014.6.14)

 「イエス様は十字架上で、お亡くなりになられる状況の中で、『再び来る』と言われました。つまりその独り子の座は残されているのです」 (同、2015.2.21)

 「その独り子としての位置は残されました。『再び来る』という約束をなさいました。それこそが2000年のキリスト教摂理歴史であります」 (同、2015.3.3)

 「その独り子、独り娘が誕生した国であるゆえ、天は韓国を守らなければいけませんでした」 (同、2015.5.23)

 「私はこの場で明かしますが、お父様が独り子であることは間違いありません」 (同、2017.10.25)

 「イエス様は『また来る』と言われました。独り子の位置は残っています (同、2018.10.20)

(2)独り子の基台の上に独り娘が準備される
 「天が4000年ぶりに探し立てた『独り子』の位置は残っています。 (イエス様は) 『再び来る』と言われました。ところで『独り娘』はいるでしょうか、いないでしょうか。神様はアダムとエバを創造されたのです。復帰摂理においても、『独り子』がいれば『独り娘』もいなければなりません」 (同、2014.7.1)

 「独り子は『再び来る』とおっしゃいました。その後2000年のキリスト教摂理歴史を通して独り子は再び顕現されましたその基台の上に天は独り娘を準備され、真の父母の位相を高くされました」(同、2014.8.12)

(3)独り娘が独り子に出会って、真の父母の位置に進み出る
 「この民族を通して、独り子・独り娘が誕生することによって、再臨のメシヤ、救世主、人類の真の父母が誕生するようになったのです」 (同、2016.12.16)

 「イエス様は亡くなられる状況の中で、『再び来る』と言われました。再び来て、『小羊の婚宴』をするというのです。小羊の婚宴とは、男性として来られる独り子が、女性である独り娘に出会って結婚するということです」 (同、2017.6.13)

 私の使命が独り娘であるために、独り娘が成長して独り子の使命を持って来られたお方に出会って、真の父母の位置に進み出ることが創造主、神様の願いでした。全世界的に起きている状況を見る時、これ以上私がためらってはいられませんでした。それで(私は)幼い年齢でしたが、1960年に真の父母の位置に進み出ました」 (同、2019.6.22)

― 以上 ―