文責:教理研究院
注、真の父母様のみ言や『原理講論』は「青い字」で、サンク
チュアリ教会側の主張は「茶色の字」で区別しています。
サンクチュアリ教会の中村仁史氏(元・光言社の翻訳担当)は、2020年1月26日の礼拝「天運と聖霊の宿る『8大教材教本』〜『統一原理』から見た独生女論の問題点〜」で、独自の「罪観」に基づいて〝虚偽〟をかたり、真のお母様批判をしています。
今回は、中村仁史氏の〝虚偽の言説〟のうち、①「原罪とは子孫から見た人間始祖の罪」という偏った罪観の誤り、②「霊的堕落と肉的堕落は2つで1つの罪ではなく、2つの罪」という誤り、③「(お母様は)お父様に絶対信仰、絶対愛、絶対服従し、(お母様の)原罪が清算される」という誤りを中心に、その〝虚偽〟を明らかにします。
(一)中村仁史氏の「原罪」に対する誤った観点
①「原罪とは子孫から見た人間始祖の罪」という偏った罪観の誤り
中村仁史氏は、2020年1月26日のサンクチュアリ教会の礼拝で、原罪に対し次のように述べています。
「原罪というのは、アダムとエバの子孫である私たちからアダムとエバ、人間始祖の罪を見たときに原罪と言っているんです。言い換えて言うと、その霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪というのは、アダムとエバ自身にとっては何罪ですか? 自犯罪ですよ。自犯罪です。もし、同じ罪を私の先祖が犯したら、これは何罪ですか? これは遺伝罪でしょう? 私がやったら自犯罪ですよ。だから、何が重要かっていうのは、原罪の概念は人間始祖の罪というところが重要で、その内容がこれ(「霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」)だったんですよって言っているんですよ、はい。ここがポイントです。今、言ったことですね、もう一度言いますけど。原罪とは子孫から見た人間始祖の罪を言っているんです。その内容が、血統的な罪だったというね。だから、アダムとエバにとってみたら自犯罪ですから、あれは。原罪という、原罪があるわけじゃなくて、それは分類ですからね。見る立場によって、罪がどこで発生したかを示している言葉なんですよ」(1:12:59〜1:14:30をディクテーション)
中村仁史氏は、原罪に対し「原罪というのは、アダムとエバの子孫である私たちからアダムとエバ、人間始祖の罪を見たときに原罪と言っている」などと主張します。この原罪に対する彼の捉え方は非常に偏ったものであり、誤りです。
『原理講論』は、「原罪」について次のように述べています。
「罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう。その罪を分類してみれば、第一に原罪というものがあるが、これは人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪をいい、この原罪は、すべての罪の根となるのである」(121ページ)
『原理講論』は、原罪に対し「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪をい(う)」と定義しています。
ところが、中村仁史氏は「人間始祖が犯した……血統的な罪」という言葉に囚われ過ぎているためか、原罪は「アダムとエバ自身にとっては……自犯罪です」と繰り返し述べ、力説します。中村仁史氏は、アダムとエバに〝子孫〟が生まれる前は、彼らの罪を「原罪」と呼ばなかったかのように主張します。
しかしながら、『原理講論』は次のように述べています。
「堕落直後、まだ原罪だけがあり、他の善行も悪行も行わなかったアダムとエバは、神とも、またサタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった」(272ページ)
このように、『原理講論』は、アダムとエバについて「堕落直後、まだ原罪だけがあり」と述べ、アダムとエバ自身が堕落直後に「原罪」をもったことを明確にしています。真のお父様も、次のように語っておられます。
「堕落直後、いまだ原罪だけがあり、他のいかなる善行も悪行もしていなかったアダムとエバは、神様にも相対することができ、サタンにも相対することができる中間位置に立つようになったのです」(『平和經』305ページ)
アダムとエバが犯した罪、すなわち「原罪」とは「子孫から見た人間始祖の罪」であるという中村仁史氏の主張は、『原理講論』やお父様のみ言とかけ離れた、極めて偏った捉え方であると言えます。子孫を生み殖やす前の「堕落直後」に、すでに彼らは原罪をもっていたのです。
『原理講論』で定義されているように、原罪とは「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪をいい、この原罪は、すべての罪の根となる」罪を指すのです。
前述したように、アダム・エバには堕落直後、すでに「原罪」があるのです。そして、人類はこの「アダム以来の血統的原罪は清算することができず、……原罪のある子女を生む」(『原理講論』187ページ)ようになったのです。それゆえ、「アダムから遺伝されてきた原罪を、今もなお(人類は)取り除くことができないままに、これをまた、そのまま子孫へと遺伝している」(同、96ページ)というのです。
したがって、「原罪」とは、中村仁史氏が述べるような、ただ単に「子孫から見た人間始祖の罪」という次元のものではなく、「アダム以来の血統的原罪」であり、今もなお、その罪を清算することができず「そのまま子孫へと遺伝している」罪なのです。
②〝サタンの罪状〟を隠そうとするかのような中村仁史氏の言説
『原理講論』は「罪」について、次のように分類しています。
「原罪を、罪の根というならば、遺伝的罪は罪の幹、連帯罪は罪の枝、自犯罪は罪の葉に該当するのである。しかし、すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる。それゆえに、原罪を清算しない限りは、他の罪を根本的に清算することはできない。しかしながら、隠されているこの罪の根はいかなる人間も知ることができないもので、ただ人間の根として、また、真の父母として降臨されるイエスのみがこれを知り、清算することができるのである」(121〜122ページ)
『原理講論』は、「すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる」と述べています。すなわち「アダム以来の血統的原罪」が清算されずに、その「根に該当する原罪」から、他の「すべての罪」が生じているというのです。
ところが、中村仁史氏は、「何が重要かっていうのは、原罪の概念は人間始祖の罪というところが重要で、その内容がこれ(「霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」)だったんですよって言っているんですよ、はい。ここがポイントです」と強調し、「原罪という、原罪があるわけじゃなくて、それは分類です……罪がどこで発生したかを示している言葉」であると主張します。
しかしながら、この中村仁史氏の主張は、原罪が「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」という、最も肝心な〝サタンの罪状〟を隠そうとするような言説であると言わざるをえません。
『原理講論』は「罪の根は……蛇に表示された天使と不倫なる血縁関係を結んだところにあった」(104ページ)と〝罪の根〟を解き明かし、その上で「霊的堕落」と「肉的堕落」について論述しています(106~111ページ)。そして、その結論として「罪」について述べているのです(121ページ)。したがって、原罪とは『原理講論』が述べるごとく、まさに「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪をい(う)」と定義された部分こそ、より重要なポイントとなるのです。すなわち、この「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」とは「天使と不倫なる血縁関係を結んだ」ことなのです。
中村仁史氏が述べるように、その罪が〝どこで発生したのか〟も大切なことかもしれませんが、そのこと以上に、人間始祖アダムとエバが〝どのような罪を犯したのか〟という「霊的堕落」と「肉的堕落」による血統的な罪の問題こそ、さらに重要なことです。
真のお父様は、次のように語っておられます。
「私が糾明した原罪と堕落の曲折は、人間の最初の家庭で起こった天使長との不倫の事件でした。『統一原理』におけるサタンは、観念的存在や仮想の存在ではなく、霊的実体です。神様の愛の理想を破壊し、神様の血統をサタンを中心とした血統に変えた元凶です。イエス様も、ヨハネによる福音書第8章で、人類の父が悪魔であると明確に語られました。神様が、御自分の外的体であるアダムとエバを通して実現しようとされた愛の理想を剥奪した愛の姦夫、それがすなわち悪魔サタンです」(八大教材教本『天聖經』1695ページ)
「どこで天国と地獄が分かれるか調べてみましょう。空中ですか。どこでしょうか。正に皆様の生殖器です! 深刻なことです。これが天地をひっくり返しました。この事実を誰が否定できますか。レバレンド・ムーンが発表した『原理』の本の堕落論に説明がなされています。疑問に思えば神様に尋ねてごらんなさい。皆様としては夢にも想像できない内容と理論をもって、体系立てておいたレバレンド・ムーンの『原理』の本に誰しも反対することはできないのです」(『宇宙の根本』30~31ページ)
すべての罪は、人間始祖アダムとエバが犯した「原罪」から生じるため、この「原罪を清算しない限りは、他の罪を根本的に清算することはできない」のです。
それにもかかわらず、中村仁史氏は「原罪という、原罪があるわけじゃなくて、それは分類です……罪がどこで発生したかを示している言葉」であると述べ、「原罪」が存在している事実を否定しようとします。これは、真のお父様の語られた「私が糾明した原罪と堕落の曲折は、人間の最初の家庭で起こった天使長との不倫の事件でした」という〝サタンの罪状〟を隠蔽し、「原罪」の本質に対する理解を阻害し、統一原理の最も重要な部分を骨抜きにしようとする言説と言わざるを得ません。
中村仁史氏が主張する「原罪という、原罪があるわけじゃなくて、」というのは誤りです。「原罪」という罪は、明確に存在します。そして、他のすべての罪は、その「原罪から生ずる」のです。そのため「原罪」を清算しなければ、それは子々孫々に遺伝し続けるのです。
また、『原理講論』は「原罪を、罪の根……遺伝的罪は罪の幹、連帯罪は罪の枝、自犯罪は罪の葉」と分類していますが、「原罪」「遺伝的罪」「連帯罪」「自犯罪」などの罪は、単に「見る立場によって罪がどこで発生したかを示している言葉」ということだけではありません。それらの概念は、「原罪」を罪の根とするなら、すべての罪を〝一本の木〟に例えられることを説明しているのです。
このように、サンクチュアリ教会に追従する中村仁史氏の「原罪」に関する理解は独自的なものであり、『原理講論』の内容と完全にズレた〝虚偽の言説〟に他なりません。このような信仰の基軸たる『原理講論』の内容、および真のお父様のみ言とズレた中村仁史氏の説教映像を平然とインターネットに流すサンクチュアリ教会もまた、『原理講論』の内容と真のお父様のみ言を軽視していることは明らかであり、み言の本質を骨抜きにしようとする〝サタンの業〟に加担する行為と言っても過言ではありません。
(二)「霊的堕落と肉的堕落は2つで1つの罪ではなく、2つの罪」という誤り
中村仁史氏は「肉的堕落と霊的堕落」について、次のように解釈します。
「原罪があるかないか……という話は、人間始祖アダムとエバの罪、つまり霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪が、両方とも完全に清算されているかいないかの話なんです。……どちらも同じ堕落行為ですよ。どちらも同じ罪だということですよ。だから、霊的堕落と肉的堕落は2つで1つの罪ではなくて、2つの罪なんですよ。アダムは肉的堕落だけだから1つだけ。だから、肉的堕落を清算すれば人間始祖としての罪がないから原罪がなくなります。でも、エバは2つしているでしょう。霊的堕落と肉的堕落をしていますよ」(1:14:38〜1:15:50をディクテーション)
中村仁史氏は「霊的堕落と肉的堕落は2つで1つの罪ではなくて、2つの罪」であると主張します。しかしながら、『原理講論』は、「原罪」を「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」と明確に定義しており、それを1つの罪として説明しています。決して「原罪」が「2つの罪」として存在しているのではありません。
真のお父様は「原罪」について、次のように語っておられます。
「人間始祖の原罪とは、アダムとエバが神様の戒めを破り、不倫な淫乱の罪を犯すことによって、悪魔と血縁関係を結んで堕落した偽りの父母となり、人類に偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を引き継がせたことです」(『平和經』1037ページ)
真のお父様は、「人間始祖の原罪とは、アダムとエバが……堕落した偽りの父母となり、人類に偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を引き継がせたこと」であると語っておられます。すなわち、アダムとエバが「霊的堕落と肉的堕落」によって「偽りの父母」となり、「偽りの血統を引き継がせたこと」が「人間始祖の原罪」であるというのです。
また、『原理講論』は、人間が「サタンの血統」を受け継いだことについて、次のように述べています。
「人間始祖は、サタンの誘惑の言葉に引きずられていったことにより、神に対する心情を失うようになった。このようにして人間は、内的な霊的堕落と外的な肉的堕落によりサタンの血統を受け継いだのである」(557ページ)
『原理講論』は、アダムとエバが「内的な霊的堕落と外的な肉的堕落によりサタンの血統を受け継いだ」と述べています。霊的堕落と肉的堕落とは、内・外で「原罪」という〝一つの罪〟なのです。
また、『原理講論』は、次のようにも述べています。
「エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである」(111ページ)
エバが霊的堕落をしたとしても、アダムが堕落しなかったなら、「エバに対する復帰摂理は、ごく容易であった」のです。しかし、アダムまで堕落したので、「サタンの血統」が、子孫に遺伝していきました。もし、アダムが堕落しなかったなら、「人間始祖の原罪」は生じていなかったのです。アダムとエバが「内的な霊的堕落と外的な肉的堕落によりサタンの血統を受け継いだ」ため、「原罪」が子孫へと遺伝していったのです。
『原理講論』は「原罪の遺伝」について、次のように述べています。
「イエスを熱心に信ずる父母であるとしても、また再び贖罪を受けなければならない罪悪の子女を生まなければならなくなったのである。このような事実から見るとき、いかに信仰の篤い信徒といえども、アダムから遺伝されてきた原罪を、今もなお取り除くことができないままに、これをまた、そのまま子孫へと遺伝しているという事実を、我々は知っているのである」(96ページ)
『原理講論』に「アダムから遺伝されてきた原罪を、……そのまま子孫へと遺伝している」と論述されているように、人間始祖が犯した罪である「原罪」とは「アダムから遺伝されてきた」ものなのです。すなわち、エバが霊的堕落した時点では、まだそれは「原罪」となっておらず、「子孫へと遺伝」することもありません。
このように、「原罪」とは「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」であるにもかかわらず、中村仁史氏は「原罪」を「2つで1つの罪ではなくて、2つの罪」であると述べています。彼の説明は、『原理講論』と異なる〝虚偽の主張〟であり、誤りです。
(三)中村仁史氏の「重生論」に対する誤った観点
①「(お母様は)お父様に絶対信仰、絶対愛、絶対服従し、(お母様の)原罪が清算される」という誤り
中村仁史氏は、真のお母様には〝原罪清算〟が必要であるとし、次のように主張しています。
「(お母様は)霊的堕落の罪を清算しましたかと。それを清算するために、(1960年に)真の母が立って、実体のお父様との関係で、絶対信仰、絶対愛、絶対服従することが真の母の立場でそれをやったから(お母様の)原罪が清算されるわけでしょう。霊的罪が清算されるのではないですか?」(1:18:58〜1:19:17をディクテーション)
中村仁史氏は、「(1960年に)真の母が立って、実体のお父様との関係で、絶対信仰、絶対愛、絶対服従することが真の母の立場でそれをやったから(お母様の)原罪が清算されるわけでしょう」と主張しています。しかしながら、これは『原理講論』や真のお父様のみ言に根拠のない〝虚偽の主張〟です。
『原理講論』は、「原罪の清算」について、次のように述べています。
「聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という。ところが、人間は霊肉共に堕落したので、なお、肉的重生を受けることによって、原罪を清算しなければならないのである。イエスは、人間の肉的重生による肉的救いのため、必然的に、再臨されるようになるのである」(266ページ)
人間始祖アダムとエバが「霊肉共に堕落した」ため、原罪が生じました。2000年前、イエス様と聖霊は「霊的な真の父母」として立ち、堕落人間を「霊的重生」させる霊的救いをされました。ところが、イエス様と聖霊による「霊的重生」だけでは、堕落人間の「原罪を清算」することはできません。堕落人間は「肉的重生を受けることによって、原罪を清算」できるのです。それゆえ、メシヤは堕落人間の「肉的重生による肉的救い」のために再臨されるというのです。
『原理講論』は、メシヤが「真の父母」として来られる理由について、次のように述べています。
「堕落人間がサタンを分立して、堕落以前の本然の人間として復帰するには、原罪を取り除かなければならない。ところで、この原罪は、人間が、その真の父母として来られるメシヤによって重生されるのでなければ、取り除くことはできないのである」(271ページ)
「メシヤは人類の真の父母として来られなければならない。彼が人類の真の父母として来られなければならない理由は、堕落した父母から生まれた人類を重生させ、その原罪を贖ってくださらなければならないからである」(277ページ)
『原理講論』は、堕落人間が「真の父母として来られるメシヤによって重生されるのでなければ、(原罪を)取り除くことはできない」「真の父母として来られなければならない理由は……原罪を贖ってくださらなければならないからである」と述べています。すなわち、再臨のメシヤは「真の父母」として来られ、堕落人間を「重生」して「原罪を清算」されるのです。
『原理講論』は「重生」による「原罪清算」について、次のように述べています。
「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。……しかし、イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。……ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らをして原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである」(267〜268ページ)
堕落人間は、「真の父母」によって「霊肉共に重生」することで「原罪を清算」することができます。それゆえ、堕落人間の願いは「真の父母」に出会うことなのです。
再臨のメシヤが「霊肉共に真の父母」になるには、「神を中心とする実体的な三位一体」を成さなければなりません。1960年に真のお父様と真のお母様は聖婚され、地上に初めて「真の父母」が顕現しました。この聖婚を通して、真の父母様は「神を中心とする実体的な三位一体」を成されたのです。
その土台の上に、真の父母様は「肉的救い」を完成され、数多くの祝福結婚式をしていかれました。すなわち、真の父母様による祝福が「堕落人間を霊肉共に重生させ」、原罪を清算することなのです。
真のお父様は、「重生」について次のように語っておられます。
「神様が私たち人類を救おうとされるとき、堕落圏以下ではいくら救おうとしてみたところで救援できないのです。それで、神様は、堕落していないアダムとエバ以上の真の父母をこの地上に再び送り、その父母を通して人類が再び生まれる路程を経るようにして、サタンと永遠に関係がなくなり、サタンが讒訴しようにも讒訴できないようにされ、神様だけが主管し、神様だけが干渉し得るようにされるというのです。そのような位置で人類が再び生まれることなくしては、原罪をもった人間が、原罪のない位置には帰れません」(八大教材教本『天聖經』2178~2179ページ)
真のお父様は「神様が私たち人類を救援しようとされるとき、堕落圏以下では……救援できない」と語っておられます。そのため、神様は「堕落していないアダムとエバ以上の真の父母をこの地上に再び送り、その父母を通して人類が再び生まれる路程を経る」ようにされるというのです。
このように、再臨のメシヤは「堕落していないアダムとエバ以上の真の父母」として来られます。それは「人間始祖堕落表示線」(『原理講論』176ページ)を越えた位置、すなわち「原罪のない位置」に「真の父母(再臨主、聖霊実体)」は来られるのです。そして、「原罪をもった人間」は、その「真の父母」を通して「再び生まれる路程を経る」ことによって「原罪のない位置」(長成期完成級を越えた位置)に帰るようになるのです。
中村仁史氏は「(お母様は)お父様に絶対信仰、絶対愛、絶対服従で(お母様の)原罪が清算される」と述べていますが、このような主張は『原理講論』の内容や真のお父様のみ言と一致しません。
真のお父様お一人で、堕落人間を「霊肉共に重生」させることはできません。それは「真の父母として来られるメシヤによって重生され」なければならないためです。真のお父様と真のお母様のお二人によって「霊肉共に重生」がなされるのです。もし、真のお父様がお一人で「霊肉共に重生」することが可能であれば、2000年前にイエス様お一人だけで堕落人間を「霊肉共に重生」させ、原罪を清算することができたはずです。そうであれば、メシヤが再び来る必要などありません。しかし、イエス様お一人では堕落人間を「霊肉共に重生」させられず、原罪清算することはできません。それゆえ、クリスチャンはイエス様の死後、復活されたイエス様と聖霊によって「霊的救い」にのみ与るようになったのです。依然として「原罪」は子孫に遺伝しているのです。「原罪の清算」は、霊肉共の実体の「真の父母」によってのみなされるのです。
中村仁史氏の主張は、『原理講論』の「重生」に関する内容と食い違っており、真のお父様のみ言にも根拠がありません。これは、真のお母様を貶(おとし)めるための〝虚偽の主張〟です。
(四)真のお母様は天の「独り娘」であられる
真のお父様は、イエス様が再臨する目的について、次のように語っておられます。
「イエス・キリストは、『私は神様のひとり子だ。神様は私の父だ』と言いました。ひとり子というものは、神様の初愛をそっくりそのまま受けたということです。神様のひとり子はいたのですが、ひとり娘がいません。ひとり娘に出会うことができなかったので、神様の初愛をすべて受けるひとり娘に出会うために、イエス様は再臨するのです。再臨主が来て『小羊の婚宴』、すなわち婚姻をしなければなりません。神様の初愛をそっくりそのまま受けた男性と、神様の初愛をそっくりそのまま受けた女性が、家庭をつくらなければならないのです。その位置が、堕落していないアダムとエバの位置です」(『真の父母經』35ページ)
真のお父様は「神様の初愛をすべて受けるひとり娘に出会うために、イエス様は再臨する」と語っておられます。再臨主は「神様の初愛をそっくりそのまま受けた女性」である天の「ひとり娘」と出会って、「小羊の婚宴」をされるというのです。
また、真のお父様は、再臨主が探し出される「新婦」について、次のように語っておられます。
「再臨の主が来られるときには何の宴会が催されると言いましたか。(「婚姻の宴会です」)。……婚姻の宴会とは結婚の宴会です。そうですね。(「はい」)。こんな話をすると異端だと大騒ぎをします。(キリスト教徒は)無性にねたましくなるのです。婚姻の宴会、すなわち小羊の宴会をしようとするならば、イエス様の新婦が必要です。新婦を探し出さなければならないのです。その新婦とは誰かというとエバなのです。堕落する前のアダムと共にいたエバなのです。再臨の主は三人目のアダムです。イエス様は二人目のアダムであり、その後来られる主は三人目のアダムなのです。そして、三人目のアダム(再臨主)が堕落前のアダムの立場で来て、堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して、小羊の宴会をしなければなりません。結婚して人類の父母となるのです」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』584~585ページ)
真のお父様は、「三人目のアダム(再臨主)が堕落前のアダムの立場で来て、堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して、小羊の宴会をしなければなりません。結婚して人類の父母となるのです」と語られました。
このように、再臨主は「新婦」すなわち「堕落する前のアダムと共にいたエバ」を探し出し、「結婚して人類の父母」となるのです。
真のお父様は、真のお母様について、次のように語っておられます。
「統一教会の文先生を、何と言いますか。(「真の父母様」)。真の父と言うでしょう? ここにいる韓鶴子氏は?(「真のお母様」)。真の母だと言うでしょう?(「はい」)。真の父だと言うでしょう?(「はい」)。いくら見ても目も二つ、鼻も同じなのに、何が違いますか? 根が違うのです。根が。皆さんは、サタン世界の堕落した父母を通した堕落の根を生まれ持ちましたが、統一教会の文某と、ここにいる文鶴子、文鶴子(文学者)でしょう? 世界に文学者(注、韓国語で文鶴子と発音が同じ)があまりに大勢いてはいけないので、韓鶴子、たった一人の(ハン)鶴子…。鶴子様は根が違うというのです。神様を根として初めて、歴史上に真なる愛の論理を中心とした統一論理を持って現れた主人公だというのです」(マルスム選集148-40〜41)
真のお父様は、真のお母様について「根が違うのです」と語られました。堕落人間の場合は「サタン世界の堕落した父母を通した堕落の根」を生まれ持ちましたが、真のお母様は「神様を根として……現れた主人公」であると言われるのです。
また、真のお父様は、「メシヤとしての真のオリーブの木」について、次のように語っておられます。
「世の中に一つの真のオリーブの木の標本を送ろうというのが、メシヤ思想です。しかし、真のオリーブの木であるメシヤが一人で来てはいけません。……メシヤが一人で来ては、真のオリーブの木になれないのです。メシヤとしての真のオリーブの木と、メシヤの相対となる真のオリーブの木を中心として、これが一つになってこそ、真のオリーブの木として役割を果たすのです」(『永遠に唯一なる真の父母』68~69ページ)
「天の真のオリーブとして来られる方は、皆さんを再び生んでくださる真の父母です。生命は、必ず父母を通して受けるのが天理だからです。真の父母は、天の真の愛、真の生命、真の血統の根をもってこの地に顕現されます。サタンの偽りの愛を根として生まれた人類を、きれいに根元から切ってしまい、真の愛の芽を接ぎ木する使命を果たすために来られる方が、正に真の父母です。このように、私たち人類が求めるべき真のオリーブの根は、神様の真の愛の根です。その根は真の父母からのみ出発し得るのです」(『真の父母經』29ページ)
真のお父様は、「メシヤが一人で来ては、真のオリーブの木になれない」と語っておられます。すなわち、「メシヤとしての真のオリーブの木と、メシヤの相対となる真のオリーブの木を中心として、これが一つになってこそ、真のオリーブの木として役割を果たす」と言われるのです。
このように、真のお父様と真のお母様のお二人は「真のオリーブの木」として「真の愛、真の生命、真の血統の根をもってこの地に顕現」されたのです。再臨主である真のお父様は天の「ひとり子」として来られ、天の「ひとり娘」である真のお母様を探し出し、聖婚して「霊肉共に真の父母」となられたのです。
以上、見たように、サンクチュアリ教会に追従する中村仁史氏の主張は、真のお父様のみ言や『原理講論』の内容とことごとく食い違っています。
このような信仰の基軸たる『原理講論』の内容と真のお父様のみ言とズレた中村仁史氏の説教映像を平然とインターネットで配信することを容認するサンクチュアリ教会もまた、『原理講論』の内容と真のお父様のみ言を軽視ないし理解していないのは明らかです。これは、み言の本質を骨抜きにしようとする〝サタンの業〟に加担する行為と言わざるを得ません。
私たちは、サンクチュアリ教会の誤った言説や、独自の「罪観」に基づいて〝虚偽〟をかたる中村仁史氏の悪意ある言説に騙されてはなりません。