「再臨のメシヤは、独り娘に出会う前に家庭を持ってはいけなかった」というみ言について

文責:教理研究院

     注、真の父母様のみ言や『原理講論』などは
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 2024年2月22日(天暦1月13日)の第一期トップガン出征式において、真のお母様が「再臨メシヤの責任をなさなければならない方は、独り娘に出会う前に自由に家庭を持ってはいけません」と語られました。このみ言に対し、真のお父様の自叙伝の「ひたすら祈りに精進し続けるうちに、結婚する時が来たことを直感しました。神の道を行くと決めた以上、すべての歩みは神の支配下にあります。祈りを通して時を知れば、従わざるを得ませんでした」(97ページ)というみ言と、矛盾しているのではないでしょうか。これをどのように理解すればよいのでしょうか?という〝問い合わせ〟が複数ありました。
 これに対して、どのように捉えるべきなのか、以下、教理研究院の見解を述べておきたいと思います。
 結論から言えば、真のお母様のみ言は真理であり、かつ、真のお父様のみ言も真理であるということです。『世界家庭』2024年4月号「解説」を追加掲載しました

一、真のお母様だけが〝独り娘〟
 まず、真のお母様だけが、独り娘であるということを確認しておきたいと思います。真のお父様は1960年以前の結婚について、それを「聖婚」とは言われず、人類の「真の父母」が立ったとも宣言しておられません。1960年の真のお母様との聖婚で、初めて「真の父母」を宣言され、人類の血統転換である「祝福式」を始められました。この事実は、1960年以前の方との結婚が、人類の真の父母が立ったわけではなく、そのため祝福式は行われず、独り娘ではなかったことを意味しています。
 1960年の「聖婚式」で、真のお父様はそれを「小羊の婚宴」と呼ばれ、初めて人類の真の父母が立ったことを宣言されました。その聖婚によって、人類の血統転換である祝福式を即座に始められました。すなわち、1960年の「聖婚式」によって、人類歴史上、初めて真の父母が現れ、血統転換がなされるようになったのです。この事実は、韓鶴子・真のお母様だけが〝独り娘〟であることを意味しています。真のお父様は、1960年にやっと〝独り娘〟を探し出されたのです。
 真のお父様は、次のように語っておられます。
 「お母様になる人は、……その第一の条件は、どのような血筋に生まれついたかということです。サタン世界から讒訴され得る血統の因縁をもって生まれたのか、そうでなければそれを乗り越えることができる血統的内縁をもって生まれたのかということが重要です」(『真の御父母様の生涯路程⑩』22~23ページ)
 そして、真のお母様について次のように語っておられます。
 「堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して小羊の宴会をしなければなりません」(『祝福家庭と理想天国(I)』584ページ)
 「新郎であられる主がこの地上で探される新婦は、堕落圏内で探す新婦ではありません堕落していない純粋な血統をもって生まれた方を探すのです」(同、909ページ)
 鶴子様は根が違うというのです。神様を根として初めて、歴史上に……現れた主人公だというのです」(マルスム選集148-41)
 真のお父様は、真のお母様に対し「堕落していないエバ」「堕落していない純粋な血統をもって生まれた方」「神様を根として初めて……現れた」等々と語っておられます。

二、天の父母様の理想と〝独り子〟の顕現
 ところで、真のお母様は、天の父母様の創造理想について、次のように話されます。
 〝神は天の父母様であり、それに似た実体としてアダムとエバが創造されました。人間始祖には成長期間があり、完成の位置まで進まなければなりません。しかし彼らは堕落することで独り子と独り娘ではなくなりました。創造主・天の父母様は、始まりと終わり(アルパとオメガ)が同じです。天の父母様は、必ず目的を果たさなければなりません。それで、救援摂理歴史が始まりました。
 堕落によって失った独り子と独り娘を取り戻さなければならないのが復帰摂理です。本来、アダム・エバが堕落せず、天の父母様を中心に「聖婚式」を挙げるのが天の御計画でした。そのため、失った神の血統を復帰して、神は独り子と独り娘を地上に迎える摂理をされました。マリヤは、絶対信仰でタマルの胎中聖別の勝利圏を相続し、独り子・イエス様を誕生させました〟(み言の要約)

 そして、人類歴史の終末期には独り娘が現れて、天の父母様の夢である「聖婚式」がなされなければなりません。〝エデンの園〟(創世記)で果たせなかった「聖婚式」、すなわちアルパ(始まり)の出来事を、終末期(再臨のメシヤの時)に、オメガ(終わり)の出来事として、神の願いである「聖婚式」が行われるというのが、ヨハネの黙示録19章の「小羊の婚宴」です。それでこそアルパで始まった天の父母様のご計画を、オメガで締めくくり、始まりと終わりを一致させることができます。
 このような観点から見たとき、真のお母様のみ言「再臨メシヤの責任をなさなければならない方は、独り娘に出会う前に自由に家庭を持ってはいけません」と語られるのは、創造原理的な観点からのみ言なのです。つまり、唯一の独り子と唯一の独り娘が、天の父母様を中心に「聖婚式」を挙げるのが、〝エデンの園〟での理想であるため、終末期に、それを完結させる「聖婚式」は、独り子の使命を持って来られる方と独り娘の「小羊の婚宴」でなければならないということです。それでこそアルパとオメガが一致します。そのような意味において、真のお母様が語られるみ言は真理です。

三、神の復帰摂理で展開された〝摂理の両面性〟
 ところで、真のお父様が自叙伝で語っておられる内容も、真理であることを理解しなければなりません。真のお母様のみ言と真のお父様のみ言は矛盾するものではなく、神の摂理から見ると一致しているのです。
 たとえば、神の復帰摂理におけるモーセ路程に対して、『原理講論』は「モーセは、自分の同胞が、エジプト人によって虐待されるのを目撃し、火のように燃えあがる同胞愛を抑えることができず、そのエジプト人を打ち殺してしまった」(357ページ)と論じています。このことについて、真のお父様は〝本当ならモーセはエジプト人を殺してはいけなかった〟として、次のように語っておられます。
 「モーセに血気がなく、知恵深かったならば、エジプト人を殺しただろうかというのです。モーセがじっとしていたならばエジプトの主権を受け継ぎ……カインの国を復帰した基盤で、イスラエル復帰が自動的に展開されるのです。しかし、モーセが血気をもって人を殺すことによって、これが途絶されたという事実を知らなければなりません」(『宗族的メシヤ』光言社、110ページ)
 すなわち、モーセのエジプト人の殺害は、本来、第一義的に、神が願われていたことではなかったと、真のお父様は語っておられるのです。

 次に、創世記27章のヤコブと母リベカが、エサウと父イサクをだまして祝福を奪ったことについて、『原理講論』は「長子の嗣業を復帰しなければならない使命をもって胎内から選ばれたヤコブは、次子の立場から、知恵を用いて、パンとレンズ豆のあつものを与えて、エサウから長子の嗣業を奪ったのであるが、ヤコブは長子の嗣業を重んじてそれを復帰しようとしたので、神はイサクに彼を祝福させた」(332ページ)と論じ、これが神の摂理であったとします。
 しかし、この復帰摂理の内容も、第一義的な神の願いではなかったとして、李耀翰牧師は次のように語っています。

 「リベカはエサウを本当に気の毒に思わなくてはいけない。ヤコブは自分の主管圏でよく言うことを聞くから、もうそんなに愛する必要はない……それよりも、よく聞かない者を愛する。……(父イサクをだまさずに)エサウを愛していたら、ヤコブの路程が……悲惨にならなかったのです。21年間、ラバンのもとであのような苦労をさせるのが決まった路程ではなかったのです」(『祝福』1984年秋季号、35ページ)

 ヤコブが〝長子の嗣業〟を復帰するためには、本来なら〝真の愛〟による自然屈伏によってなされるべきであったというのが神の願いでした。しかし、人間の責任分担が果たされないために、神の復帰摂理はさまざまな紆余曲折を経て展開されるのです。その場合、イサク家庭の中で〝真の愛〟による自然屈伏の道もあれば、21年の〝ハラン苦役〟を経て蕩減条件を立てて復帰する道もあり、どちらも真理であると言えます。

四、問い合わせに対する教理研究院の見解
 以上のことから、寄せられた質問に対して次のように考えることができます。
 〝エデンの園〟(創世記)で果たせなかった「聖婚式」、すなわちアルパ(始まり)の出来事を、終末期(再臨のメシヤの時)に、オメガ(終わり)の出来事として、神の創造理想である「聖婚式」が行われるというのが、ヨハネの黙示録19章の「小羊の婚宴」です。このような観点から見たとき、真のお母様が「再臨メシヤの責任をなさなければならない方は、独り娘に出会う前に自由に家庭を持ってはいけません」と語られるみ言は、終末期において、独り子の使命を持って来られた方が唯一の独り娘と出会い、天の父母様を中心に「聖婚式」を挙げるというのが、本来の神の願いであるという意味です。それが「小羊の婚宴」でなければならなかったというのであり、創造原理的な観点から見た摂理観です。それでこそアルパとオメガが一致します。そのような意味から、真のお母様が語られるみ言は真理です。
 一方、真のお父様の自叙伝にある「ひたすら祈りに精進し続けるうちに、結婚する時が来たことを直感しました。神の道を行くと決めた以上、すべての歩みは神の支配下にあります。祈りを通して時を知れば、従わざるを得ませんでした」(97ページ)も真理なのです。すなわち、エデンの園のアダムとエバが責任を果たせず、ヤコブの時のレアとラケルが責任を果たせず、さらにイエス様の時のマリヤとエリサベツが使命を果たせず、再臨主の時にキリスト教が使命を果たせない中で、真のお父様が自叙伝で語られる〝神の摂理〟が展開されたと言えるのです。
 したがって、真のお母様のみ言は真理であり、かつ、真のお父様のみ言も真理であるということです。

以上