(1)彼らの言う「話し合い」や「公開討論」は、単なるパフォーマンス?
岡本言説を信奉する広義昭氏は、自称「第4イスラエル研究会」のホームページで、私たち(森・可知・竹内)が「話し合い」を拒否したと述べています。
私たちは、「祝福二世相談室」のホームページ閉鎖に伴い、彼らが自ら削除してしまった「反論文」をもう一度掲載し直して、お互いの論戦内容を明確にさせた上で、大いに対話を続けていきましょうと述べただけなのに、なぜ大げさに「拒否した」と言うのでしょうか?その真意はなんでしょうか?
周知のように、統一教会の教義を批判した彼らの2冊の書籍(『100ヶ条の提題』と『救済論の問題点』)に対し、私たちは「中和新聞」に論駁文を掲載し、さらにそれを小冊子(『続・誤りを正す』)にまとめることで、正式に彼らの論戦に応答しました。
これに対し、岡本氏らは、すべてに反論することができずに途中で放棄し、今まで掲載していた「彼らの反論文」を、「祝福二世相談室」のホームページを閉鎖すると同時に、削除してしまったのです。それは削除というよりも隠蔽です。
その上で、今度は私たち(森・可知・竹内)に対して「話し合い」や「公開討論」を申し込んできました。そうすることで、それまでの「書籍や紙面での論争」をうやむやにしようとしているのです。これは、うやむやにするためのパフォーマンスであり、それが真相です(「閉鎖」は敗北なので、現在、「祝福二世相談室」を再び立ち上げようとしてはいますが、それも中途半端のままで、さらには「第4イスラエル研究会」のホームページまでも閉鎖しようとしており、極めて卑怯です)。
しかし、すでに出版された書籍(『100ヶ条の提題』、『救済論の問題点』)は「閉鎖」し「隠滅」することはできません。双方の書籍を第三者が理論的に研究すれば、どちらが御言を正しく理解し、真理を語っているかが明白になります。
それなのに、広氏らは「紙面であれば感情的にならず理性的な議論ができるのでしょうか?」と言います。そして、私たち(森・可知・竹内)が岡本氏らを憎悪し、何が何でも反論しなければならないと、感情的になり、冷静な神学論争をしないで、「禹グループのレッテルを貼り」、「誹謗中傷を繰り返えしてきただけである」というのです。
この論調は、誰が読んでも「こんな人たちと『話し合い』や『討論』はできない」と言っているようなものです。にもかかわらず、なぜ、あえて「話し合い」や「公開討論」をしようというのでしょうか?
その意図するものは、彼らが「公開の場で討論をし、録音・撮影しながら議論する方が有意義で価値がある」と言い出してきたことで明らかになります。彼らは、話し合いを録画すると言っていますが、録画は大いに結構です。しかし、その録画を基にして、自分たちに「有利な映像」に編集し直し、その編集した動画を「第4イスラエル研究会」のホームページに掲載しようとする計略と言わざるを得ません。その真意は「公開討論」というパフォーマンスによって、統一教会との論戦から逃れようとしているのです。
「話し合い」以前に、お互いの主張と反論の内容を、徹底的に論戦させて、より明確化させておくことが先決です。
なぜなら、霊的集団の論戦は、文鮮明先生(真のお父様)が「統一教会の原理を中心として自分の教理を加えて、内容を全部自分たちがつくったかのように言っても、それは全部奪われるのです」(「KMS中和新聞」09年11月20日号)と語っておられるように、メシヤ以外の人間による『原理講論』の諸概念に対する勝手な批判や修正に、照準を合わせているからです。
したがって、レバレンド・ムーンの「原理の本」(『原理講論』)を批判し、修正しようとする霊的集団との論戦には、妥協はありません。
(2)「悪質な御言の改竄」
岡本氏らは、自己の見解に一致させるために、御言を、曲解・削除・注釈・中略などによって改竄しようとします(『続・誤りを正す』43頁、53頁、55頁参照)。これらは極めて悪質です。また「御言の中にある原理」「御言の総合的な判断」から見てと述べて、具体的な御言を引用しないまま、自己の主観的な判断基準を用います。
それでいて、文先生の御言を解く鍵があると言い、その鍵を発見したと高言しています。このようにメシヤの御言以外に「鍵」が必要であると言って、自己の解釈基準を絶対化し、同時に、御言に対する解釈権を独占しようとします。以上のように、その言説は実に巧妙です。
(3)「巧みな論争術」
広義昭氏は、『誤りを正す』と『続・誤りを正す』の2冊の本には、「妄想、欺瞞、冒涜、狂った、曲解、強弁、言語道断、空論、妄言、無知、悪質などの言葉を使った極めて感情的な憎しみを込めた批判が繰り返されている」と述べます。
そして、広氏は、具体的に『誤りを正す』と『続・誤りを正す』の箇所を列挙していますが、具体的に原典にあたって、その前後の文章を読んでみれば、誰が見ても明らかなように、岡本氏らの言説の方が強弁であり、欺瞞であり、曲解であり、悪質であることが分かるようになります。一読してみると分かりますが、実に言葉巧みです。
ところで、「感情的」とか「人格攻撃する」と批判するのは、論争の常套手段です。賢明な人は、こういう言葉には影響されません。
(4)「原理の本」と「御言」に敵対する岡本言説
①岡本言説は「御言は絶対的基準である」と言いながらも、「古い時代の原理講論」(『100ヶ条の提題』432頁)に「しがみつくな」と述べ、レバレンド・ムーンの「原理の本」を批判します。「原理本体論」は『原理講論』の批判や否定ではなく、肯定です。
②文先生は「レバレンド・ムーンが発表した原理の本の堕落論に……だれしも反対することはできません」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』57頁)と言われているのに、岡本氏らは『原理講論』の原罪概念(淫行)を否定し、「原罪の本質は自己中心の動機としての堕落性本性」(『救済論の問題点』120頁)と述べ、「堕落論においても、完璧なものであると信じることは危険であり、むしろ盲目的行為である」(岡本編『成約原理解説』1巻57頁)といって、『原理講論』の堕落論を批判します。
③岡本氏らの説く「動機・性質原罪論」は、「神様に罪の責任を負わせ、人間を罪のとがから解放しようとする」責任転嫁の見解です(『続・誤りを正す』36頁参照)。
④「サタンの血統は、どの部分から連結されたのでしょうか……生殖器です」(『天聖経』「宇宙の根本」1858頁)と御言にあるのに、岡本氏らは、サタンの血統連結は「横的な男女の関係が血統を決定するのではなく、縦的な父子の性相的な心の関係が血統を決定する」(『95+13ヶ条の提題』75頁)と述べ、生殖器の誤用問題を隠蔽します。
⑤「長成期完成級から完成期完成級までの7年期間は……堕落しなかった父母の立場に立ち、堕落しなかった息子・娘を生んで完成期完成級まで上がっていかなければなりません」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』956~957頁)と御言にあるのに、岡本氏らは「『条件的祝福』基準で、夫婦生活をしてもよいのでしょうか?」(『100ヶ条の提題』14条60頁)と御言に反することを述べます。それでいて、「御言を解明するための『鍵』を見つけ出した……神の黄金の杖に導かれて、『原理本論』に辿り着いた」(同上、9頁)と高言するのです。
⑥「先生が接ぎ木してやるのだから、先生を通して完成基準に上がる道ができるのです……真の父母と一体になっていけば、無難にその峠は通過します。真の父母を離れた場合には、行く道がありません。原理的にそうなっているのです」(『訪韓修練会御言集』74頁)と御言にあるのに、八人家族の形態をつくり、「第4アダム」によって祝福されて原罪清算して完成期に上がり、実子になると述べ、一般信徒たちを欺きます。
「真の父母」は、二つもありません。「真の父母」を離れた場合には行く道がないのです。彼らの末路は悲惨であると言わざるを得ません。