二、広義昭氏の「中和新聞記事への反論」(その2)を論駁する ― 「二種類の祝福」について


岡本言説を信奉する広義昭氏は、自称「第4イスラエル研究会」のホームページで、「文先生の語られる『祝福』には『本然の祝福』と『条件的祝福』という二種類の祝福がある」と述べた上で、「条件的祝福」では原罪の清算がなされず、「本然の祝福」によって原罪清算がなされると主張します。

彼らは、この「二種類の祝福」について述べるとき、次の御言を引用します。その御言を考察し、広氏の主張の真偽を判定することにしましょう。

(1)「二種類の祝福」についての御言(A)

「36家庭であろうと、何であろうと皆同じです。……(中略1)……皆さんは、祝福を受けた者たちだと思っているのですか。本来の祝福を受けた者達ですか。違うのです。違うのです。……(中略2)……それは、サタン世界の渦中に止まっているのであって、サタン圏を越えた、本来の世界圏に立っていないのです。……(中略3)……私が願う祝福家庭は本然の祝福家庭です。本然でない祝福家庭が、現在の未完成状態にある祝福家庭なのです。これを『条件的祝福家庭』と言うのです。この両者を混同してはいけません。本然の祝福家庭の位置に進むための、条件的祝福を受けた者の道がどれほど険しく、どれほど難しいものであるかを、くれぐれも忘却してはいけません。分かりますか?」(祝福67号/55頁「祝福を受けた者たち」、『100ヶ条の提題』第9条、50頁)

広氏が掲載した上述の御言には、いくつかの中略がありますが、「それは、サタン世界の渦中に止まっている」の前にある(中略)では、どのような御言が「削除」されているのでしょうか。広氏は、中略によって前後の三つの文脈を連結していますが、この中略させた御言を読むと、私たちの祝福は「本来の祝福」ではなく、「サタン世界の渦中に止まっている」(原罪がある)と読めてしまいます。

文先生(真のお父様)は、本当にそのように語っておられるのでしょうか?このような広氏の主張する見解に立てば、他の御言との整合性がなくなってしまいます。例えば『平和神経』には、祝福結婚(条件的祝福)によって原罪が清算されるとありますが、その御言と対立し、御言自体の整合性がなくなるのです。

もしかすると、(中略)を使うことによって、御言の意味を改竄させている可能性を考えなければなりません。岡本言説では、御言を自己の見解と一致させるために、御言の引用に際し、「曲解」や「削除」や「注釈」の挿入などをするからです。その問題点については、すでに『続・誤りを正す』の43頁、55頁などで指摘しています。

『100ヶ条の提題』で引用し、今回の反論のために持ち出してきたこの御言の引用も、改竄の典型である可能性があります。

次に掲載する御言(B)が、広氏が(中略2)によって削除した部分の御言です。

「皆さんは、祝福を受けた者達だと思っているのですか。本来の祝福を受けた者達ですか。違うのです。違うのです。カイン圏の長子権復帰さえなければ私は苦労しません。お母様にも苦労させないし、私の息子・娘にも苦労させません。カインの長子権を復帰するために、先生の家庭が悲惨になってしまったのです。

 このような話をなぜするかというと、時が来たからです。本然の祝福を受けた者達の願いは何ですか。歴史の背後で絡み合っているものを解き、根の痕跡を塞いでしまうのです。自分の過去の習慣性から来る意識までも忘れることのできる位置を探すのはいつでしょうか。過去の意識を持っていては、かの国へ行ってから全部再生工場に入れられ、保留期間に置かれてしまうのです。そのため、私も今までに苦労したすべてのことを忘れようとしているのです。

 死んだ後、本然の道を歩むべき祝福を受けた者達が、過去の意識を持ったままで本然の道を行くことができないのです。過去の意識が残っていれば、いまだサタン世界の因縁が切れていないことになります。それは、サタン世界の渦中に止まっているのであって、サタン圏を越えた、本来の世界圏に立っていないのです」(祝福67号、56~57頁)

広氏が、中略によって削除した部分の御言(特に、このような話を……以下)を読むと、文先生は「過去の意識が残っていれば」、「それは、サタン世界の渦中に止まっている」と語っておられるのであって、「条件的祝福」では「原罪清算がなされていない」と語っているのではないことが分かります。この御言(B)は、祝福家庭が「自分の過去の習慣性から来る意識までも忘れることのできる位置を探すのはいつでしょうか」と問題を提起し、まだ完成基準に達していないと覚醒を促しておられるのです。

 

 

(2)「本然の祝福」と「条件的祝福」の位置の違いについて

文先生(真のお父様)は、「祝福というのは完成基準における祝福じゃないよ」(『祝福家庭と理想天国(Ⅱ)」30頁)と言われ、条件的祝福とは「完成基準を残して祝福した基準」(同、29頁)であると述べておられます。

「成長期間の秩序的三段階」の原理の観点から見ると、図1で示したように、「本然の祝福」(本来の祝福)というのは「完成基準における祝福」です。しかし、御言によれば、私たちの祝福は「完成基準の祝福」(「本然の祝福」)ではなく、長成期完成級で受ける祝福(「条件的祝福」)なのです。

それで、文先生は「皆さんは、祝福を受けた者たちと思っているのですか。本来の祝福を受けた者たちですか。違うのです。違うのです」と述べておられるのです。この二種類の「祝福の位置」の違いについて原理的に正しく認識すれば、御言の解釈における御言自体の対立は解消します。

私たちが受けた祝福の位置に関して、文先生は「食口たちが祝福を受けるのは、1960年に先生が聖婚した基準に該当するものです」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』798頁)と言われ、「1960年が、いったいどの基準であったか?堕落したアダム、エバの立場、長成期完成級の基準である」(『祝福家庭と理想天国(Ⅱ)』28頁)と語っておられます。

そして、その祝福とは単なる祝福ではなく、「皆さんが受ける祝福の基準は、イエス様が2000年間願ってきたことを、実体で成し遂げた立場です」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』795頁)と歴史的に高く評価しておられます。

また、文先生は「条件的祝福の位置」について、「堕落は長成期完成基準以下であり、祝福は長成期完成基準以上です。それゆえ、祝福はサタンと関係ありません」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』795頁)と明確に述べておられます。「祝福はサタンと関係ありません」と言われるのは、サタンが支配しているのは「長成期完成基準以下」(死亡線以下)であるために、その基準以上である祝福(条件的祝福)は「サタンと関係がない」という意味です。それで「条件的祝福の位置」は「サタンと関係がない」ので原罪は清算されているのです。しかし、それは完成基準の位置で受ける「本然の祝福」ではありません。まだ成長期間の「完成期7年」が残っているからです。ゆえに「未完成状態にある祝福家庭」なのです。この残された「完成期7年」とは、次の項で引用した御言にあるように、完成基準を目指す「家庭路程」です。

以上のように、「二種類の祝福」の位置を原理的に正しく認識すれば、問題の御言(A)を他の御言との関連性において、論理的に整合的に、矛盾なく理解することができます。

 

(3)「完成期7年は家庭路程」

文先生は「完成期7年は家庭路程である」として、次のように語っておられます。

「皆さんは祝福を受けましたが、息子・娘がなぜ必要ですか。長成期完成級から完成期完成級までの7年期間は、皆さんの息子・娘を立てておかなくては上がっていけないというのです。本来、堕落しなかったならば、アダムが神主管圏内から完成期完成級まで行くことができました。それで、堕落しなかった立場に立ったアダムとエバと同じ息子・娘を立てなくては、行くことができないのです。……堕落した父母の立場ではなく、堕落しなかった父母の立場に立ち、堕落しなかった息子・娘を生んで完成期完成級まで上がっていかなければなりません」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』956~957頁)。

この「完成期7年の家庭路程」に関して、文先生は御言(A)の中で、「本然の祝福家庭の位置(完成基準)に進むための、『条件的祝福』を受けた者の道がどれほど険しく、どれほど難しいものであるかを、くれぐれも忘却してはいけません。分かりますか?」(祝福67号、70頁)と訓戒しておられるのです。

しかし、私たちは前述の「堕落しなかった父母の立場に立ち、堕落しなかった息子・娘を生んで」、「祝福はサタンと関係がありません」と語られている「完成期の家庭路程」の御言を心に銘記しておかなければなりません。

以上のこれらの御言を整合的に解釈すれば、「条件的祝福家庭」は原罪を清算しており、父母の立場で無原罪の息子・娘を生んで、「完成期完成級」までの険しく難しい道を上がって行くということになります。

ところで、岡本言説は『95+13ヶ条の提題』第14条で、「個人完成しないで時ならぬ時に男女関係を結んだことが堕落ではないか?祝福家庭は個人完成しないまま家庭を出発したが、原理的に問題があるのでは?」と「原理の道」(本然の道)と「復帰の道」の相違を認識せずに、文先生が「完成期7年」は「家庭路程」であると語られている前述の御言を理解していません(『続・誤りを正す』61頁を参照)。

それでいて、自分たちは「御言を解く鍵」を発見し、「御言の中にある原理」(「原理本体論」)を解いたと高言しているのです(『100ヶ条の提題』9頁、『続・誤りを正す』53頁を参照)。

 

(4)「原罪清算は長成期完成級の位置」

岡本言説は、「本然の祝福」で原罪清算をすると主張します。しかし、原罪清算はアダムとエバが堕落した位置(長成期完成級)で成されるのです。すなわち、死亡線(長成期完成級)でメシヤを迎えて、条件的祝福によって原罪を清算し、完成期に上がるのです。

図1で示したように、「本然の祝福」の位置(完成基準)で原罪清算するのではありません。

文先生は「天使長とエバが結婚することによって、原罪が植えられたでしょう。ですから刈り取るときも、結婚によって刈り取らなければなりません」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』915頁)と語っておられます。
このように、死亡線において「結婚」を誤って堕落したため、死亡線で「結婚」によって蕩減復帰するのです。岡本言説を信奉する広氏は、「第4イスラエル研究会ではこのような未完成の『条件的祝福家庭』は“原罪が清算されていない”祝福家庭であり、『本然の祝福』を受けてはじめて原罪が清算される」と「二種類の祝福の位置」の相違を正しく認識しないまま、「第4アダム」による「本然の祝福」で「原罪清算」するという、著しく誤った言説を主張しています。これでは、御言を整合的に解釈することはできず、御言や教学を云々する資格はありません。

原罪を清算されるメシヤとは、文先生ご夫妻(真の父母)であって、「第4アダム」ではありません。文先生は「血統の主人は真の父母しかいません。二つはないのです」(「中和新聞」09年11月20日号)、「先生が接ぎ木してやるのだから、先生を通して完成基準に上がる道ができるのです」、「真の父母と一体となっていけば、無難にその峠は通過します。真の父母を離れた場合には、行く道がありません。原理的にそうなっているのです。分かりましたか?」(『訪韓修練会御言葉集』74~75頁)と語っておられます。

岡本・広氏らは、「文先生を通して完成基準に上がる道」を否定し、「第4アダム」を中心とした「八人家族の形態」で完成期に上がると力説します。しかしながら、「真の父母を離れた場合には、行く道がありません。原理的にそうなっています」(前掲書、75頁)というのが御言の示す基準なのであり、しかも八人家族の形態とは、「死亡線を越えた三組の祝福家庭」なのではなく、「信仰の父母」2人に、「自分が伝道した三人の息子・娘」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』1004頁)の男3人と女3人を合わせた「八人の形態」のことを言うのです。祝福家庭の位置は死亡線を越えた庶子圏です。

御言に「今日、歴史的路程において、最も重要なこととは何かというと、選民圏が生じたということです。この時代になり、世界的途上において、蘇生、長成、完成の三段階基盤と連結させようというのです。イスラエル民族は蘇生級、キリスト教は長成級、そして統一教会は完成級です。イスラエル圏を中心としたものが旧約時代ならば、キリスト教は新約時代であり、統一教会は成約時代です」(『天聖経』「真の家庭と家庭盟誓」2633頁)とあるように、縦的八段階において、統一教会は無原理圏に存在しているのではありません。

 

(5)「未来」ではなく、過去形です

岡本言説は、文先生の「条件的祝福」は「第三イスラエル」に入籍する「式」に過ぎないと言い、「条件的祝福」では原罪清算がなされないと主張します。しかし文先生は「私が主導してきた祝福運動は、単純な結婚儀式ではなく、原罪を清算し、本然の真の血統によって天に接ぎ木する神聖な行事なのです」(『平和神経』351頁)と語っておられます。

ところが、岡本言説を信奉する広氏は「第4イスラエル研究会」のホ-ムページで、この御言の解釈について、「二種類の祝福」という観点から次のように反論します。

広氏は、上述の御言は「『本然の祝福』ということであり、それは、現在の統一教会の条件的祝福家庭のことではなく、これから成さなければならないものとして残されている」と述べ、原罪の清算は「未来」の「本然の祝福」で成されるとし、「単純な祝福儀式に参加することによって得られる祝福ではなく、『本然の真の理想家庭』に至る本然の祝福のことをいわれている」と主張しています。

しかし、御言を注視してください。この御言は「未来」の「本然の祝福」ではなく、「私が主導してきた祝福運動は」と「過去形」になっています。したがって、原罪清算する祝福は、文先生(真の父母様)によってなされてきた統一教会の「条件的祝福」のことです。また「私が」(文先生)とあり、「第4アダム」による「本然の祝福」ではありません。

岡本言説による広氏は、反論に窮すると、「正確に御言の意味を理解していくためには、その前後の文脈から総合的に判断して」などと、「総合的に判断して」とか「御言の中にある原理」と述べて、具体的な御言を引用せず、自己の主観的判断基準を用いています。

「過去形」を「未来」だと解釈するのは、「屁理屈」「強弁」であると言われても仕方がありません。しかも、文先生が「単純な結婚儀式ではなく」と強調されておられるのに、岡本氏と同様に「単純な祝福儀式」と述べ、「真の父母様」の祝福を侮蔑しているのです。