文責:教理研究院
注、真の父母様のみ言や『原理講論』は「青い字」で、サンクチュアリ教会側の主張は「茶色の字」で区別しています。
サンクチュアリ教会の中村仁史氏(元・光言社の翻訳担当)は、2020年2月23日のサンクチュアリ教会の中村氏が担当する2度目の礼拝「真のお父様の神観と、家庭連合の神観の違い」で、誤った「独生女」観に基づいて、真のお母様批判を展開しています。
今回は、中村仁史氏の〝虚偽の言説〟のうち、①「僕の娘が神様の娘として入籍した」と批判する誤り、②「新婦は、血統転換の過程を経ていません」のみ言をもってお母様批判をする誤りなどを中心に、それらの〝虚偽〟を明らかにします。
(1)「僕の娘が神様の娘として入籍した」と批判する誤り
中村仁史氏は、1971年5月24日の真のお父様のみ言を、次のように翻訳します。
「その母親(洪順愛氏)は僕の立場で自分の娘を大切に育てなければならないのです。母親が僕なら、娘は何になりますか。僕の娘です。そうして、正にその僕の娘が神様の娘として入籍する相続式をしなければならないのです。その式をして初めて、新郎として来られた主の前に新婦が策定されたと、新しい時代の前に宣布式をすることができるのです」(マルスム選集44-303、これは中村仁史氏の翻訳)
この中村仁史氏の翻訳は、正確なものではなく〝改ざん〟されています。部分的に省略し、み言の前後を削除するなどして意味合いを変えています。そのように改ざんする目的は、真のお母様が天の独り娘として誕生されたことを否定するためです。このみ言は、『真の御父母様の生涯路程⑩』の73ページに取り上げられていますが、中村仁史氏が翻訳する際に削除し、意味合いを変えている部分を以下、青い文字で示します。
「それでは、ここで(再臨主の)相対は女性ですが、女性を中心として見るとき、どのような女性でしょうか? 女性の中で〝新婦〟となることができる女性なのです。女性の中においても、母親の女性がいて、娘の女性がいます。それはレアとラケル(の関係)を象徴しています。これは、来られる新郎(再臨主)の本意ではありませんが、天理原則によってそのような役事が展開されるというのです。
ところで、その母親(レア)は僕の立場で、自分の娘のような人(ラケル)を大切に育てなければならないのです。母親(レア)が僕なら、娘は何になりますか? 僕の娘(ラケル)になります。そうして、まさしくその僕の娘を神様の娘として入籍する相続式を行わなければなりません。その式を行うことによって、初めて新郎として来られた主の前に新婦が策定されたとして、新しい時代の前に宣布式をすることができるのです。その時代は、統一教会で言えば1960年度に相当します。わかりますか?
話が出たので言いますが、ここにいるお母様を中心として、そのように役事しました。皆さんが知らない中で、そのような役事を行ったのです。洪順愛氏というお母様の母親がいます。母と娘はいつも心が一致しているので、ひそひそと話ししても、(二人で)共にひそひそと話します。孝行娘同士、一度間違ってしまうと、二人とも皆滅びるようになるのです。しかし、母(レア)と娘(ラケル)が一つになった時には滅びません。そのようなことを今までしてきているのです」(マルスム選集44-309~310)
上記が、より正確な翻訳になります。中村仁史氏が引用したみ言で、真のお父様は「女性の中で(再臨主の)〝新婦〟となることができる女性」が策定されることについて語られ、それは「母親の女性」と「娘のような女性」が「レアとラケル」のような関係で〝天理原則〟による役事が展開されてこそ、その「娘を神様の娘として入籍する相続式」が行われると語っておられます。これは、母親が「僕」の立場、すなわち〝乳母〟として、その娘(ラケル)を大切に育て、再臨主の〝新婦〟を準備するということを語っておられるものです。
ところが、中村仁史氏は「僕の娘を」を「僕の娘が」と助詞を変えることによって意味を改ざんし「僕の娘が神様の娘として入籍する相続式」であると述べ、いかにも真のお母様が聖婚によって「僕」から「神様の娘」に転換されたかのように読ませようとしているのです。彼は助詞を意図的に変える〝狡猾な手段〟を使って、真のお母様をおとしめようとします。
そして、中村仁史氏は意味合いを変えたみ言を用いて、次のように批判します。
「僕の娘なんですよ、真の母は。そこから復帰して、神様の娘に入籍しないといけないんです」(映像44分32秒〜44分41秒をディクテーション)
前述したように、中村仁史氏は「僕の娘を」を「僕の娘が」と助詞を変えることで、聖婚前の真のお母様は「僕」であるように読ませようとしますが、このみ言の意味は「母親(レア)は僕の立場で、自分の娘のような人(ラケル)を大切に育て」ることで、再臨主の〝新婦〟が準備されるという天理原則の役事を語っておられるのです。その〝新婦〟が準備されたのが「統一教会で言えば、1960年度に相当します」と語っておられます。
真のお父様は、女性を中心とした「レアとラケル」の路程が歴史的に残っているとして、次のように語っておられます。
「堕落したサタン世界に奪われて、そこで子どもを生んで暮らす女性を取り戻さなければなりません。それを取り戻すまでは、純粋な娘を取り戻す道がありません。このようになっているのです。ですから、マリヤはレアの代身であり、イエス様の〝新婦〟はラケルの代身にならなければならないのです。母親がレアの立場で、ラケル(新婦)を探してあげなければならないのです。このようなことが歴史路程に残っているというのです」(マルスム選集58-65)
真のお父様は、「母親がレアの立場で、ラケル(新婦)を探してあげなければならない」と語っておられます。まさしく中村仁史氏が取り上げたみ言は、このレアとラケルの役事について述べているものです。すなわち、母親の「洪順愛氏」は、僕という「レア」の立場であり、「ラケル」の立場としての「お母様」と一体となり、再臨主の「新婦」である「純粋な娘を取り戻す」という歴史的路程を歩んだということです。その「純粋な娘」と独り子が1960年に聖婚式をしたのです。
中村仁史氏は、改ざんしたみ言を用いて「(お母様は)そこ(僕の娘)から復帰して神様の娘に入籍しないといけない」と主張しますが、これは〝虚偽の主張〟です。真のお母様は、聖婚によって「神様の娘に入籍」したのではありません。
真のお父様は、「マリヤを通してイエス様は天の王子として誕生されたのです。神様は自分の息子を〝僕の体〟を借りて生まれるようにしたのです。……マリヤは神様の前に僕と同じ立場であるのです。だから、僕の体を借りて生まれた息子ですが、イエス様は神様の息子である」(マルスム選集36-255)と語っておられます。このみ言と同じように、イエス様が「神様の息子」として生まれたように、神様は「洪順愛氏」という「僕の体」を借りて、天の王女である〝独り娘〟を誕生させられたというのです。
(2)「新婦は、血統転換の過程を経ていません」のみ言をもってお母様批判をする誤り
①小羊の婚宴には独り娘がいなければならないが、イエス様の時には独り娘がいなかった
中村仁史氏は1986年2月9日の真のお父様のみ言を、次のように引用します。
「マリヤの腹中から生まれたイエス様は、サタン世界の血統を転換させた上で生まれました。そうではないですか。血統を転換させた位置に来たのですが、イエス様の相対になる新婦は、血統転換の過程を経ていません。ですから、それが複雑だというのです。ここには、必ず平面的(横的)に母が娘になり、娘が母になる、ひっくり変えることが起きなければなりません。天地開闢が起きるというのです。女性の世界で母が娘になり、娘が母にならなければならないのです」(マルスム選集140-150、中村仁史氏の引用は茶色の文字で表記)
中村仁史氏の翻訳は、正確ではありません。このみ言は『祝福67号』1990年冬季号に掲載されており、それを踏まえて、マルスム選集のみ言を正確に翻訳すれば次のようになります。
「マリヤの腹中から生まれたイエス様は、サタン世界の血統を転換させたのです。そうではありませんか? 血統を転換させた位置に来たのですが、イエス様の相対になることのできる新婦は、血統転換の役事の過程を経ていなかったのです。何の話か分かりますか? ですから、それが複雑なのです。ここには、必ず平面的に母が娘になり、娘が母になるという〝入れ替え〟がなされなくてはならないのです。天地開闢が繰り広げられるのです。女性の世界において、母が娘になり、娘が母にならなくてはならないのです」(マルスム選集140-150、青い文字は、より正確に翻訳した箇所)
このみ言は、2000年前にイエス様は血統転換した位置、すなわち独り子として生まれたのに対し、イエス様の相対となる新婦は「血統転換の役事の過程を経ていなかった」ことについて語っておられるものです。
本来なら、独り子は独り娘と出会って「小羊の婚宴」を挙げなければなりません。ところが、そのような独り娘が2000年前にはいなかったというのです。真のお父様は、「小羊の婚宴」について次のように語っておられます。
「ひとり子が出てきたのに、ひとり子が一人で暮らしたなら大変です。ひとり娘がいなければなりません。それで、ひとり娘を探して、神様を中心として、ひとり子とひとり娘が互いに好む場で結婚しなければならないのです。……それが『小羊の婚宴』です」(八大教材教本『天聖經』176~177ページ)
このように、独り子は、独り娘に出会って「互いに好む場で結婚しなければならない」にもかかわらず、イエス様にはそのような女性がいなかったというのです。そのため、真のお父様は次のように語っておられます。
「イエス様の結婚は簡単にできなかったのです。どのような結婚をしなくてはならないのか。妻になる人も、堕落した世界の根から生まれた女性しかいないのです」(『祝福67号』1990年冬季号45ページ)
このみ言は、何を意味しているのでしょうか? イエス様は、独り娘と出会って結婚しなければならないにもかかわらず、「堕落した世界の根から生まれた女性しかいない」ため、イエス様は「簡単に(結婚が)できなかった」と言われているのです。すなわち、真のお父様は、イエス様の結婚は〝不可能だった〟というのではなく、「簡単にできなかった」と言われているのです。その理由は、イエス様の時には独り娘が現れていなかったためです。
②堕落した世界の根から生まれた女性が、神様の娘になるための〝天地開闢の役事〟
中村仁史氏が引用したみ言は、イエス様が結婚するにあたって、その新婦(独り娘)を準備するために必要な「血統転換の役事の過程」を経させるために、「母が娘になり、娘が母になるという〝入れ替え〟がなされ……天地開闢が繰り広げられ」なければならないことを語っておられるみ言なのです。
イエス様は、新婦(独り娘)を準備して結婚するため、母マリヤに対し次のように訴えたというのです。
「イエス様は新しい年を迎えて、17歳で結婚についてマリヤに話したのです。17歳のときに結婚で行くべき道を説明し、10年後の27歳で説明したのです。また、3年後に3回説明してだめなので、涙を浮かべてイエス様は出家をしたのです。だれがイエス様の相対にならなければならないのでしょうか? それが洗礼ヨハネの妹です」(『ファミリー』1997年3月号31ページ、参照『祝福家庭と理想天国(I)』38〜39ページ)
このみ言と同じ内容を、真のお母様も語っておられます(参照『世界家庭』2016年11月号6ページ、同12月号4ページ)。イエス様が、この洗礼ヨハネの妹と結婚するには、母マリヤの協助およびヨセフ、ザカリヤ家庭における〝天地開闢の役事〟がなされなければならないのです。この〝天地開闢の役事〟とは、独り子・イエス様の相対としての独り娘を準備するためのものです。
「それは一人ではできません。神様とアダム(イエス様)が完全に一つになってから、これに協助せずしてはできないのです。そこに誰が協助するのかというと、マリヤが協助しなくてはならなかったのです。お母さん(エリサベツ)が娘になり、娘(洗礼ヨハネの妹)がお母さんにならなければなりませんでした。……(ところが)そのようになれなかったというのです」(『祝福67号』1990年冬季号46ページ)
「マリヤが責任を果たせず、ヨセフが責任を果たせなかったので、ザカリヤの家庭が責任を果たせなかったのです。洗礼ヨハネの家庭とヨセフの家庭が仲良く組んだなら、簡単に事は済んだのです。ヨセフはイエス様をお父さんとして迎え、ザカリヤは洗礼ヨハネをお父さんとして迎えれば良いのであり、ザカリヤの家庭に生まれた娘(洗礼ヨハネの妹)をお母さんとして迎えれば良かったのです。……それができていたなら、イエス様は間違いなく結婚したというのです。二代が協助しなければなりませんでした。この二代がカイン・アベルの関係にありました。この二代が転換しなくては、お母様(新婦)を迎える道がなかったのです」(同、48ページ)
これは、イエス様は血統転換の過程を経て〝独り子〟として生まれているのに、その相対となる女性(独り娘)は生まれておらず、「妻になる人も、堕落した世界の根から生まれた女性しかいない」状況だったからなのです。そのため、血統転換の役事の過程を経たという条件を立てるため、マリヤおよびザカリヤ家庭の親子二代が〝天地開闢の役事〟を通過することで、洗礼ヨハネの妹も〝血統転換の役事の過程を経て生まれた〟という条件を立てなければならなかったのです。それゆえ、「イエス様の結婚は簡単にできなかった」というのです。
「マリヤがイエス様の妻を復帰してあげなければなりません。復帰するには、マリヤ一人ではできません。創造主がアダムを中心としてエバを造る時も、天使長が協助したので、復帰歴史完成のために、『後のアダム』を型としてエバを造る時も、天使長が協助しなければなりません。……そして、イエス様と復帰されたエバが一つにならなければなりません。天使と天使長の立場である僕たちが、アダムの立場であるイエス様を中心として、エバの立場である娘を創造したとすれば、その娘は堕落していない神様の娘ではないですか。マリヤとヨセフが、その神様の娘とイエス様を祝福してあげなければなりません。ここで、神様の娘と神様の息子が一つになるのです」(八大教材教本『天聖經』2147ページ)
もし、このとき〝天地開闢の役事〟が成されていたなら、「その娘は堕落していない神様の娘」となるため、「イエス様は間違いなく結婚した」というのです。しかし、2000年前、独り娘はいなかったのです。
③復帰摂理歴史は「本然の父母の血統的基準に接近するための運動」
真のお父様は、復帰摂理歴史について、次のように語っておられます。
「カインとアベルを、エサウとヤコブが生まれた時に入れ替えようとしました。そこにはいつも母子協助が必要なのです。エバがアベルを擁護したのです。次にエサウとヤコブ時代には、リベカがヤコブの側になり、うそをついて助けたのです。ところが、神様が祝福をしてくださったのはなぜかという問題については、誰も知らないのです。そしてヤコブの時に双子として生まれて入れ替わったのです。それでも駄目だったので、ペレヅとゼラを中心としてタマルの腹中から出るときに争い、入れ替わって次子が長子を押し退けて出てくるということが起こったのです。これはすべて、本然の父母の血統的基準に接近するための運動であったという事実を知らなければなりません」(八大教材教本『天聖經』1142~1143ページ)
このみ言で語っておられるように、神様の復帰摂理歴史は「本然の父母の血統的基準に接近するための運動であった」というのです。アダム家庭のカイン・アベルの摂理は失敗に終わりましたが、真のお父様は、エサウとヤコブの時には40歳で勝利したと語っておられます。しかし、その勝利圏は40歳以降の基準を復帰したに過ぎないため、それ以前の〝胎中から40歳まで〟の基準を勝利する必要があるのです。
タマルの時に「胎中聖別」がなされたがゆえに、その「胎中聖別」の勝利圏によって、神の血統を持ったメシヤがこの地上に誕生することができるようになったのです。すなわち、タマルの勝利圏を相続した母マリヤが、絶対信仰をもってザカリヤ家庭の協助を受けながら、イエス様を独り子として誕生させたというのです。
この独り子を誕生させるための神様の復帰摂理歴史は、「本然の父母の血統的基準に接近するための運動であった」というのです。
しかしながら、前述したみ言にあるように、本来、独り子が現れたならば独り娘がいなければならないにもかかわらず、イエス様の時には独り娘がいなかったと言われるのです。そのために「本然の父母の血統的基準に接近するための運動」として、母マリヤおよびヨセフとザカリヤ家庭が協助することで〝天地開闢の役事〟がなされ、独り娘が準備されなければならなかったというのです。
「本来、イエス様はメシヤとして地上に来て、弟子たちと万民を祝福され、罪のない天国を築かなければなりませんでした。ところが、不信されて新婦を迎えられなかったので、真の父母になれず、その使命を完遂することができませんでした。それゆえ、(イエス様は)再臨することを約束されました。……再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するために来られます。すなわち、創造理想を完成すべき真なる本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するために来られます。彼は、既にイエスの時まで神側が勝利した根本基台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に正しく立たれて、彼が果たせなかった新婦(独り娘)を探し出し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです。それゆえ、真の父母は血統を伝授する新しい結婚行事を通じ、全人類をして、神様の真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木して、真の人として救援し、さらには真なる家庭を成して地上天国を建設なさるのです」(『祝福家庭と理想天国(I)』41〜42ページ)
再臨主は「真なる本然の赤ん坊の種として来て……既にイエスの時まで神側が勝利した根本基台の上に臨在され……イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に正しく立たれて、彼が果たせなかった新婦(独り娘)を探し出し、真の父母になられ、万民を救ってくださる」というのです。
しかしながら、2000年前のイエス様は、独り娘が誕生していなかったため「新婦(独り娘)を探し出し、真の父母」となることができなかったように、再臨主においても「新婦(独り娘)を探し出し、真の父母」になることは簡単なことではなかったのです。
真のお父様は、次のように語っておられます。
「小羊の宴会をしようとするならば、イエス様の新婦が必要です。新婦を探し出さなければならないのです。その新婦とは誰かというとエバなのです。堕落する前のアダムと共にいたエバなのです。再臨の主は三人目のアダムです。……三人目のアダムが堕落前のアダムの立場で来て、堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して、小羊の宴会をしなければなりません」(『祝福家庭と理想天国(I)』584〜585ページ)
ところが、真のお父様は、戦後のキリスト教は神様のみ旨を知らず、再臨主を支える基台にならなかったことを、次のように語っておられます。
「私がこの道を出発するようになる時、韓国の有名な牧師たちにみな会ってみました。熟したか、熟していないか、みな調べてみたのです。……地下教会を探査し、有名だという神霊的な人々にすべて会ってみました。しかし彼らも神様のみ旨を知らずにいたというのです。神様のみ旨の方向を知らずにいたのです。既に二十代の前に、あらゆる有名な復興師たちを訪ねてみました。……その結果、『お前たちは天の秘密を知らない……』……鶏龍山やあらゆる所の人々を訪問したのです。優れているという者たち、何人かは全くの無知で、『鄭道令になる』と言っていたのです」(『真の御父母様の生涯路程①』279〜280ページ)
このように、戦後、時は満ちていたのに、韓国のキリスト教の信仰は熟しておらず、神様のみ旨の方向を知らずにおり、再臨主と一つになることができなかったというのです。
④「旧約エバ、新約エバ、成約エバが出発できる基盤をつくるため」の神の摂理
それゆえ、再臨主は、イエス様の路程の蕩減復帰をするために、天が準備した独り娘を探し出すための〝苦難の道〟を通過せざるを得ませんでした。『原理講論』は、歴史的勝利者になる路程として、次のように論じています。
「『私』という個性体はどこまでも復帰摂理歴史の所産である。 ……それゆえに『私』は歴史の目的の中に立たなければならないし、 ……復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、『私』自身を中心として、横的に立てなければならない。 ……このような歴史的勝利者となるためには、 ……復帰摂理の完成者として来られる再臨主を通して、それらのことに関するすべてを知り、 ……彼と共に、復帰摂理歴史の縦的な蕩減条件を横的に立て得た立場に立たなければならない」(287~288ページ)
真のお父様は、次のように語っておられます。
「先生は何かと言えば、旧約の完成、新約の完成、成約の出発です。そうして旧約エバ、新約エバ、成約エバが出発できる基盤をつくるために、聖進のお母さんと結婚式を挙げたのです。そのため、そこにはいくらかの危険と負担を抱えて、出発せざるを得なかったということを知らなければなりません」(『真の御父母様の生涯路程②』57ページ)
再臨主の責任は、天の準備した独り娘を探し出すことです(参照『人類の涙をぬぐう平和の母』110ぺージ)。そのための路程を天の願いに従って歩むためには、歴史的蕩減問題を残していてはいけません。すなわち、『原理講論』に論じられているごとく、再臨主は「縦的な蕩減条件を横的に立て得た立場」に立たなければなりません。アダム家庭では、エバが責任を果たせずに歴史的蕩減問題を残しています(旧約エバの蕩減問題)。そして、イエス家庭においても、母マリヤが責任を果たせず、独り娘を準備できないまま、蕩減問題を残しています(新約エバの蕩減問題)。この旧約エバ、新約エバの蕩減問題が残ったままにしていれば、サタンがそれを讒訴するため、それをさせないよう、「成約エバが出発できる基盤をつくる」ための〝環境圏〟を準備しなければなりません。それが、再臨主の責任と使命なのです。
つまり、天の準備した独り娘の路程を勝利的に歩むための〝環境圏〟を準備するために、再臨主は、あえて「危険と負担を抱えて、出発せざるを得なかった」というのです。それは、復帰摂理歴史の縦的な蕩減条件の問題を残さないように清算するため「危険と負担を抱えて、出発せざるを得なかった」というのが、再臨主の責任としての路程であったということです。『原理講論』に、再臨主の苦難の道は「再臨のときも初臨のときと同じく、彼の道をまっすぐにするために洗礼ヨハネの使命を担ってくるはずの先駆者たちが、その使命を全うし得ないときには、再臨主御自身が、再び洗礼ヨハネの立場で、第三次世界的カナン復帰摂理のための『信仰基台』を実体的に造成しなければならないので、苦難の道を歩まれなければならない」(427~428ページ)とあるごとくです。
さて、独り子の場合、2000年前にイエス様が〝独り子〟として生まれたという〝勝利の基準〟が残っているため、再臨主は「本然の赤ん坊の種として来て」「イエスの時まで神側が勝利した根本基台の上に臨在され」「旧約の完成、新約の完成、成約の出発」をすることができます。しかし、独り娘の場合は2000年前に現れていないため、再臨時代において「旧約エバ、新約エバ、成約エバが出発できる基盤をつくる」ところから始めなければならないというのです。
結果的に、戦後、キリスト教の支え(メシヤのための基台)がなかったため、第1の方は倒れることとなりました。
『真の御父母様の生涯路程』には、次のように記されています。
「大韓民国と既成教会が一つとなって、聖進のお母さんを前に立てて反対しました。私がこのような世界的使命を担った、ということを知りませんでした。自分の母親と組んで、『主が人として来るというのは、偽キリストだ』と言ったのです。……摂理のみ旨の中で、先生はキリスト教を代表した一人の女性に会いましたが、その女性が洗礼ヨハネ以上に先生を信奉し、蕩減復帰摂理時代の新婦の使命を果たすべきであるのに、できなかったのです」(『真の御父母様の生涯路程②』68ページ)
さらに、次のようにも語っておられます。
「崔氏が問題です。それから崔ソンモという人がいます。……崔ソンモさえ(神のみ旨と)一つになっていれば、統一教会は迫害を受けることもなく、世界的な宗教になったはずです。梨花女子大事件も起こりはしないし、延世大事件も起こらなかったのです。聖進の母親の叔父が崔ソンモです。1955年の事件を誰が起こしたかというと、崔ソンモが起こしたのです。崔氏が先生を監獄に投げ込んだのです。内務部長官と手を組んで、統一教会をなくしてしまおうとしたのです」(『真の御父母様の生涯路程③』105ページ)
このようなみ言を見たとき、韓国キリスト教と第1の方の親族らが、再臨主の基台となることができず、イエス様のとき〝親子二代〟が協助できなかったのと同じように、再臨時代もキリスト教や崔氏一族が協助するどころか、「大韓民国と既成教会が一つとなって……自分の母親と組んで」まで、再臨主に反対する結果となったのです。そのため、再臨主もイエス様と同様に〝苦難の路程〟を歩んでいかざるを得ませんでした。
では、果たして、そのときの結婚は「小羊の婚宴」だったのでしょうか? そうではなかったのです。「小羊の婚宴」とは何かというと、真のお父様は次のように語っておられます。
「イエス様を真の父母の位置に登場させるのが、『小羊の婚宴』です」(八大教材教本『天聖經』111ページ)
「再臨の時代におきまして、真の父母を決定するのが小羊の婚姻である」(『文鮮明先生の日本語による御言集No.1』77ページ)
「『小羊の婚宴』の日は、六千年前に失った真の父母を迎えて祝宴を開く日です」(『真の父母經』71ページ)
第1の方は「真の父母」になれず、その結婚も「小羊の婚宴」ではなかった事実を見たとき、第1の方は独り娘ではなかったことがハッキリするのです。
では、その第1の方はどのような立場だったのかと言えば、ちょうどイエス様の時の洗礼ヨハネの妹と同様な立場として現れた女性であったと見ることができます。それゆえ、真のお父様は、「聖進のお母さんと結婚式を挙げたのです。そのため、そこにはいくらかの危険と負担を抱えて、出発せざるを得なかった」と語っておられるのです。しかしながら、「旧約エバ、新約エバ、成約エバが出発できる基盤をつくる」ところから始めなければならないために、あえてそのような道を行かざるを得なかったということです。すなわちその方は「旧約エバ」を意味しており、独り娘ではなかったのです。
「統一教会がなぜ、全世界的に反対を受けたのですか。監獄になぜ、行かなければならなかったのですか。(キリスト教が全くの無知で)聖進の母親が反対することによって、準備していたすべての(神霊的な)団体が犠牲を被ったのです。腹中教もそうなり、既成教会もみんなそうなってしまったのです。ゆえに、民主世界がすべて引っ掛かって行ったのです」(『真の御父母様の生涯路程③』150ページ)
この不信の問題をそのまま放置してしまえば、「既成教会も……民主世界がすべて引っ掛かって行った」と語っておられるように、2000年間準備されてきたキリスト教の救いもなければ、さらに崔氏一族の救いもなくなってしまうというのです。それゆえ、真のお父様は次のように語っておられます。
「崔氏一族がそうしたために、崔氏を中心とした役事をするのです。因果の法度というものは本当に恐ろしいものです。……その余波によって世界的な問題が起こったのです。しかしその家門を滅ぼしてはいけません。……彼らを解放してあげるべき責任を果たしてこそ、大韓民国救援の道を行くことができるのです。救援摂理はそのように複雑なものなのです。日本を開拓したのは崔奉春なのです。崔氏をまず前面に立てたのです。……また、崔元福がいます。名前が元福です。原理的になっているのです。(聖進の母親が)失敗したから、『元福』が収拾するというのです。……(韓国教会の)復興会をするときも、劉協会長を立たせずに、ヤマガラのような崔チャンニムを全面に立たせたのです」(同、151〜152ページ)
このような摂理的事情のゆえに、崔元福氏は、「独り娘」である無原罪誕生の〝真のお母様を支える基台〟として立てられたというのが〝事の真相〟なのです。それはキリスト教の救援のためであり、さらには崔氏一族を滅ぼさないようにするためなのです。
⑤真の父母様の「7年路程」は、〝原罪のない〟完成期における路程
にもかかわらず、中村仁史氏は、独自の歪んだ「独生女」観によって、次のように述べています。
「本然の女性エバの立場と堕落したエバの立場の2人の女性がいるんです。本然の女性というのは、その娘の立場で、堕落したエバとは母の立場だから、こちらが主体になっちゃってますよね。だから、これをひっくり返す役事をしなければならないと。これをひっくり返して、霊的堕落の罪を清算しないといけないんだということです。これが1960年以降、あったんですけど、それが何かご存知ですか? 誰と誰の間で行われたかご存知の方も多いと思いますけど、崔元福先生と韓鶴子オモニの間で、母と娘がひっくり返るという役事をしたんです。これが、まず霊的堕落に対する罪を清算することです」(映像49分17秒〜50分12秒をディクテーション)
中村仁史氏は、1960年以降、「崔元福先生と韓鶴子オモニの間で、母と娘がひっくり返るという役事」を行い「霊的堕落の罪を清算」したと述べますが、これは真のお父様のみ言に全く根拠のない〝虚偽の主張〟です。
すでに教理研究院は、反論文「独自の『神観』に基づいて〝虚偽〟をかたる中村仁史氏」で、真の父母様が聖婚された1960年から始まる「7年路程」とは、「長成期完成級の堕落圏を越えた〝原罪のない〟『完成期』における『7年間の期間』」であることを明らかにしました。1960年以降の7年路程が「霊的堕落の罪を清算」するという中村仁史氏の主張は〝虚偽の言説〟です。また、真のお母様が「原罪を持って生まれた」というみ言はどこにも存在しません。
むしろ、真のお父様は「(1960年以降の)7年路程は……堕落していないアダムとエバがいかなければならない道でした」(『真の母の七年路程と日本』43〜44ページ)と語っておられます。すなわち、真の父母とは〝堕落していないアダムとエバ〟なのです。
(なお、反論文の詳細はこちらをご覧くださいhttps://trueparents.jp/?page_id=5981)
ところで、真のお父様は、真のお母様が「神様を根として初めて、歴史上に……現れた主人公」であるとして、次のように語っておられます。
「皆さん(堕落人間)は、サタン世界の堕落した父母を通して堕落の根を生まれ持ちましたが、統一教会の文某と、ここにいる文鶴子、……鶴子様は根が違うというのです。神様を根として初めて、歴史上に真なる愛の論理を中心とした統一論理を持って現れた主人公だというのです」(マルスム選集148-41)
真のお父様は「皆さん(堕落人間)は、サタン世界の堕落した父母を通して堕落の根を生まれ持ちました」と強調された上で、真のお母様は「根が違うというのです。神様を根として初めて、歴史上に……現れた主人公」だと語っておられます。すなわち、真のお母様は6000年を経て現れた、初臨の天の独り娘である事実を明確にしておられるのです。真のお母様は、無原罪誕生の天の独り娘です。
ところが、中村仁史氏は「イエス様の相対になることのできる新婦は、血統転換の役事の過程を経ていなかった」と語られたイエス様の新婦となる女性に関するみ言を用いて、再臨主が「小羊の婚宴」を挙げた新婦(独り娘)までもがそうであるかのように〝虚偽の主張〟をしているのです。
結局のところ、第1の方、第2の方の存在、およびその登場の歴史的背景は、再臨主が、「神様を根として」無原罪で生まれた初臨の独り娘と出会って「小羊の婚宴」を挙げるための〝神の復帰歴史的な基台〟となった女性であったと言えるのです。
中村仁史氏の主張は、真のお父様のみ言に根拠のない〝虚偽の言説〟です。私たちは、このような〝虚偽の言説〟に惑わされないよう注意しなければなりません。真のお母様の語られる「独り娘」のみ言は、絶対的真理です。