神の摂理と「独り娘」(文書資料)

講義内容の要点
  • (1)人類歴史の目的は、「エデンの園」を復帰すること
  • (2)メシヤの誕生は地上にエデンの園が復帰されたことを意味する
  • (3)地上に復帰されたエデンの園で、エバの再創造がなされる
  • (4)「堕落する前のアダムと共にいたエバ」によって、霊的堕落のみのときの救いの摂理がなされる
  • (5)夫婦関係では「血統」は繋がらない。血統の連結は父子関係
  • (6)真の母となる女性は、もともと「神の血統」でなければならない
  • (7)一人の「神聖な女性」を準備してきた宗教の歴史について
  • (8)お父様の御言:「聖霊に背いては、赦しを受けられない」
  • (9)お父様の御言にもとづいた、私たちが持つべき信仰姿勢
    • ①お父様の願いは、お母様を絶対中心として一つになること
    • ②真のお母様は「第二教主」である
    • ③真の父母は永遠に一組である

 『原理講論』の「終末論」には、「人類歴史の目的は、エデンの園を復帰するところにある」と論じられています。

 「人類歴史の目的は、生命の木を中心とするエデンの園を復帰するところにある。…人間始祖が堕落したために、神が『生命の木』を中心としてたてようとしたエデンの園は、サタンの手に渡されてしまったのである。ゆえに、アルパで始められた人類罪悪歴史が、オメガで終わるときの堕落人間の願望は、罪悪をもって色染められた着物を清く洗い、復帰されたエデンの園に帰っていき、失った『生命の木』を、再び探し求めていくところにある…。…『生命の木』とは完成したアダム、すなわち、人類の真の父を意味している。…歴史の目的は、『生命の木』として来られるイエスを中心とした、創造本然のエデンの園を復帰するところにあるということを理解することができる」(145~146ページ)

 このように、『原理講論』には、「人類歴史の目的は、生命の木を中心とするエデンの園を復帰するところにある」とあります。生命の木であるメシヤが地上に降臨されるということは、「エデンの園」が復帰されたことを意味します。
 そして、エデンの園の中には、アダムだけでなく、エバもいなければなりません。『原理講論』の「堕落論」には、次のように記されています。

 「神はアダムだけを創造したのではなく、その配偶者としてエバを創造された。したがって、エデンの園の中に創造理想を完成した男性を比喩する木があったとすれば、同様に女性を比喩するもう一つの木が、当然存在してしかるべきで(ある)」(97ページ)

 エデンの園には、アダムだけではなく、エバもいなければなりません。人間始祖アダムとエバが「エデンの園」を追い出された、いわゆる「失楽園」とは、肉的堕落が起こってアダムまで堕落したのちの出来事でした。
 したがって、神の復帰摂理におけるイエス様や真のお父様の誕生は、新しい時代を迎えたことを意味します。なぜなら、無原罪のアダムが地上に遣わされたということは、地上に「エデンの園」が再現された時代を迎えていることになるからです。
 人類歴史の出発点を大きく分けるなら、次の3つになります。一つ目は、①「アダムとエバのどちらも堕落していない時」、二つ目は、②「アダムは堕落していないけれど、エバだけが霊的堕落をした時」、そして三つ目は、③「アダムとエバのどちらも堕落した時」になります。
 アダムとエバがエデンの園から追い出された「失楽園」は、この三つ目のアダムとエバのどちらも堕落した時になります。したがって、エバが霊的堕落をしたとしても、アダムが堕落していない時、まだ二人は「エデンの園」の中にいたのであり、その時に、霊的堕落したエバに対する救いの摂理が行われていました。

 「エバが(霊的)堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである」(『原理講論』111ページ)

 このように、アダムが堕落せずに成長期間を全うし、個性完成したアダムとなっていたら、エバに対する救いの摂理がなされていました。
 その霊的堕落のみの時の救いの摂理は、「エデンの園」の中で展開される摂理であり、それは神の愛の主管圏、すなわち神の血統圏内において行われる摂理です。
 すなわち、イエス様および真のお父様が「無原罪」のメシヤとして誕生されたということは、地上に「エデンの園」が再現されたことを意味します。「主はおのが園に来たる」という聖歌「園の歌」があるように、まさにメシヤは「エデンの園」に来られるお方です。そして、真のお父様は『祝福家庭と理想天国(Ⅱ)』で、次のように語っておられます。

 「メシヤとは何かというと、神の愛の前に初めて生まれた、神の愛の前に立った、初めて神の長男としての愛を受けるそういう立場に立った者がメシヤだ。だから、イエス様もそういうことを言ったんだね。イエス様はひとり子、一人息子である。……神の愛する子供が生まれてきた。しかし、愛する子供一人で何になるか。子供自体は、その相対者を得なければならない。相対者をどこから得るか。天上から得るんじゃない。堕落の結果地上で失ったんだから、地上で再創造しなければならない(『祝福家庭と理想天国(Ⅱ)』871~872ページ、『御旨と世界』852~853ページ)

 無原罪の完成したアダムを迎えたということは、この地上に「エデンの園」が再現されたことを意味しており、そして、地上でエバを取り戻し、そのエバを再創造していかなければならないということです。
 エデンの園で行われる神の復帰摂理とは、「アダムは堕落していないけれど、エバだけが霊的堕落した時」の状況において行われる救いの摂理です。先ほども引用したように『原理講論』に「エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである」(111ページ)とあるように、エバに対する救いの摂理が行われるのです。

 では、霊的堕落のみの時の救いの摂理における「エバ」、すなわち人類の「真の母」となられる女性は、いかなる存在でしょうか、真のお父様は、『祝福家庭と理想天国(1)』で、次のように語っておられます。

 再臨の主が来られる時には、何の宴会が催されると言いましたか。(「婚姻の宴会です」。)婚姻の宴会とは何ですか。婚姻の宴会とは嫁ぎ、めとるという意味です。婚姻の宴会とは、結婚の宴会です。そうですね。(「はい」。)こんな話をすると異端だと大騒ぎをします。(キリスト教徒は)無性にねたましくなるのです。
 婚姻の宴会、すなわち小羊の宴会をしようとするならば、イエス様の新婦が必要です。新婦を探し出さなければならないのです。その新婦とは誰かというと、エバなのです。堕落する前のアダムと共にいたエバなのです。再臨の主は、三人目のアダムです。イエス様は、二人目のアダムであり、そののち来られる主は、三人目のアダムなのです。そして、三人目のアダムが堕落前のアダムの立場で来て、堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して、小羊の宴会をしなければなりません。結婚して人類の父母となるのです。」
(『祝福家庭と理想天国(1)』584~585ページ)

 真のお父様は、「再臨の主が来られ…小羊の宴会をしようとするならば…新婦を探し出さなければならない…その新婦とは…堕落する前のアダムと共にいたエバなのです」と語っておられます。
 ここで述べておられる「堕落する前のアダムと共にいたエバ」というのが、まさに「肉的堕落が起こる前」に「エデンの園」の中に存在していた霊的堕落したエバのことであり、そのエバに対し「霊的堕落のみの時の救いの摂理」が行われるということになります。真のお母様は、1960年のご聖婚以来、苦難の7年路程を歩まれ、大変な苦労の道を通過されますが、それはエバが勝利できなかった「霊的堕落のみの時の救いの摂理」を清算していかれるための歩みでした。
 真のお父様が、「エバを堕落圏から復帰して再創造し、善の娘として立ったという基準を立てなければなりません」(『真の父母の絶対価値と氏族メシヤの道』38ページ)と語っておられた御言は、霊的堕落したエバをその霊的堕落圏から取り戻し、再創造していかれることを意味する御言です。お母様はその歩みを見事に勝利されました。そして、真の父母様は1968年1月1日に「神の日」を宣布されたのです。
 そして、先ほど引用した御言で、真のお父様が「三人目のアダム(再臨主)が堕落前のアダムの立場で来て、堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して、小羊の宴会をしなければなりません。結婚して人類の父母となるのです」と語っておられるように、「堕落前のエバ」、すなわちエデンの園にいるエバを探し出して結婚式を行うのが「小羊の婚姻」です。
 ここで重要なことは、結婚した後において、エバが「堕落前のエバ」になったというのではなく、結婚する前に、すでに「堕落前のエバ」であり、そのエバをアダムが「探し出して」結婚すると語っておられる点です。すなわち、エデンの園にいるエバは、霊的堕落していたとしても、「無原罪」であり、神の血統であるというのです。
 『訪韓修練会御言集』において真のお父様は、「愛には縦的愛と横的愛があるのです。父子関係は縦的愛であり、夫婦関係は横的関係です。縦的愛は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません(『訪韓修練会御言集』12ページ)と語っておられますが、天使長とエバの霊的堕落の問題は、偽りの夫婦関係であり、それは横的愛の関係であって、血統的につながらないのです。
 したがって、霊的堕落の時点では、エバは「戒め」を破ったという霊的堕落の罪を蕩減しなければならない立場ですが、サタンの血統にはまだ、連結されていません。サタンの血統に連結されたのは、エバがアダムをサタンの偽りの息子、すなわち「庶子」に生み変え、その庶子の「母親」の役割(言わば「悪なる母子協助」)を果たすという「縦的愛の関係」を結び、その堕落した息子の妻となることによって、サタンの子女の立場に立ったことによります。
 『平和神經』において真のお父様は、「血統は、父母が子女だけに与え得る特権中の特権です。しかし、堕落によって彼らは、サタンの偽りの血統を受けて、サタンの子女に転落してしまいました」(『平和神經』39ページ)と語っておられますが、霊的堕落のみならず、肉的堕落によってアダムとエバは「サタンの子女」となり、その時、「偽りの親子関係」という縦的愛の関係によってサタンの血統に連結するようになったのです。
 ちなみに、『原理講論』は、原罪について次のように定義しています。

 「原罪というものがあるが、これは人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪をい(う)」(『原理講論』121ページ)

 原罪とは「霊的堕落」と「肉的堕落」の両方の罪をあわせて言う血統的な概念であることを理解しなければなりません。『原理講論』に、「…しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである」(111ページ)とあるように、肉的堕落によって初めて「原罪」が生じ、サタンの血統を継承した人類が生み殖えていくようになった事実を知らなければなりません。
 それゆえ、アダムが堕落せずに完成していたなら、霊的堕落のみの時の救いの摂理が「エデンの園」で行われ、エバはその完成したアダムによって再創造され、人類の「真の父母」となり、人類歴史はサタンの血統に侵害されることなく、罪のない本然の歴史としてスタートしていたのです。
 真のお母様が語られた「血統転換、私は母胎からなのです。皆さんはそれを信じなければいけません」(2014.7.1)という御言は、そのような立場から語っておられたものです。また、先ほどの真のお父様が語られた「愛には縦的愛と横的愛があるのです。父子関係は縦的愛であり、夫婦関係は横的関係です。縦的愛は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません(『訪韓修練会御言集』12ページ)という御言から考えてみると、真のお母様は、たとえ真のお父様と聖婚されたとしても、それは、あくまでも夫婦関係であるために血統的に繋がりません。したがって、真のお母様も、もともと神の血統をもっておられなければ、人類の真の母となることはできないということが分かります。
 やはり、真のお父様が「来られる主は、三人目のアダムなのです。そして、三人目のアダム(再臨主)が堕落前のアダムの立場で来て、堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して、小羊の宴会をしなければなりません。結婚して人類の父母となるのです。」(『祝福家庭と理想天国(1)』584~585ページ)と語っておられるように、真のお母様も、聖婚される前から「神の血統」をもっておられたということです。

 ところで、真のお父様は、人類歴史における宗教の歴史について、『世界家庭(World Family)』2016年5月号に掲載された御言で、次のように語っておられます。少し長い引用文となりますが、引用いたします。

 「今までの宗教の歴史において、宗教は何をしてきたのでしょうか? 宗教は一人の人を探してきたのです。エデンの園で間違って始まったことを解消するためには、良くすることのできる一人の人を探さなければなりませんが、その人とは誰でしょうか? 天使長(注:洗礼ヨハネのこと)と、その次には真の息子(注:完成したアダムのこと)の二人です。この二人を探してきたのです。
 その二人を探してきたのと同時に、女性
(注:真の母となる新婦のこと)を探してきたのです。天使長がサタンとなったのは、エバのゆえでした。アダムが滅んだのも女のゆえでした。世界は女のゆえに滅ぶようになったのです。女のゆえに滅びもするし、女のゆえに興隆もするのです。……今まで神様が探してこられたものは何でしょうか? 真の僕一人を取り戻すためでした。僕がエバを奪っていったので、その僕を取り戻した後には、真の僕をして女性を神様の前に返してさしあげることができる準備をさせなければなりません。……真の女性を神様の前にささげなければなりません。このようになるのです。真の僕が女性をささげるようになると、真の息子がこの女性を迎えるために来なければなりません。そうならなければならないのではないですか。
 これが何かと言うと、キリスト教の再臨思想です。これが再臨主思想であり、救世主思想です。この救世主思想は何かと言うと、真の父母思想です。歴史をこのように解かなければなりません。それでは、歴史がこのようになっているか、なっていないかを見てみましょう。
 今まで宗教が行ってきたことは何ですか? 天使世界では、めとったり嫁いだりすることがありますか、ありませんか? 天使世界は結婚するようになっていますか、いませんか?……今まで(カトリックなどの)宗教は独身生活を強調してきました。結婚しなさいと言いましたか、結婚するなと言いましたか?
(「結婚するなと言いました」)なぜそうなのですか? 真の父母がまだ結婚式をできなかったのに、僕たちが結婚できますか? ですから、今まで高次元の宗教では独身生活をせよと言ったのです。
 仏教の清僧(独身僧)や尼、カトリックの神父、修道女もかわいそうでしょう? 彼らは何をしなければならないのでしょうか? 僕が女性を奪っていったので、女性一人を大切に育てて、主人が来たときにささげなければなりません。……この世界と国と家庭と個人を全て、悪なる天使長、悪なるサタンが管理していたので、この世の中で闘って善なる天使長圏をつくり、国家と教会と氏族と家庭と個人を取り戻して、一人の神聖な女性を、救世主として来られるおかたの前に引き合わせなければなりません。そのおかたは、この地に男として、アダムの代身者として来られるおかたです。
 イエス様が二番目のアダムとして来られたので、再臨される主は三次アダムとして来られるのです。そのおかたが再臨主です。み旨を成すことができなかったので、三次アダムがみ旨を成してこそ、神様のみ旨が成されるのです。ですから、男の中で神様の愛を持って来る男がいるので、彼はこの地上に誰を探しに来るかと言えば、(一人の)女性を探しに来るのです。
 それはどういうことでしょうか? エデンの園で天使が悪なる心を持ってエバを奪っていったことを謝罪して、その罪を赦してもらうために、善なる心で神様の前に『占有できないものを占有したことをお赦しください』と全体をささげてお返しする準備をするためのものが、今までの宗教なのです。」
(『世界家庭(World Family)』2016年5月号、81~83ページ)
 
 このように、「エデンの園で間違って始まったことを解消するために」、エデンの園にいた僕(洗礼ヨハネ)と、一人の神聖な女性、そして完成したアダムを迎えなければならないというのです。
 真のお父様は、「神様の二千年の(キリスト教)歴史は、新婦を求めるための歴史です。イエス様は、真の息子の姿で現れましたが、真の娘の姿がないので、神様のみ旨を成し遂げることができませんでした。ですから、二千年のキリスト教の歴史は、(独り)娘を求めるための歴史です」(007-303、1959.10.11、『真の父母經』69~70ページ)と語っておられますが、二千年の歴史は独り娘を準備するための歴史でした。
 そうやって「エデンの園」の中にいた人物を復帰して「失楽園」前の状態を再現させ、「エデンの園」で間違って始まったことを“元返し”する摂理をしなければならないのです。
 これこそが、エデンの園で行われる「霊的堕落のみの時の救いの摂理」ということになります。真の父母様は、1960年の聖婚式以降の7年路程によって、見事にそれを勝利されました。
 真のお父様は、真のお母様が宗教の歴史の中で準備されていたことについて、次のように語っておられます。
 
 「お母様は、母方の祖母と大母様、お母様自身まで、三代を経なければなりません。そのようにしなければ、母の位置に立てないのです。母方の祖母は聖主教、大母様は腹中教を経てきました。そして、大母様は、実体の主に侍ろうと、故郷の地を離れ、茫々たる荒野で独り暮らしをしながら、お母様を育てたのです」(541-211、2006.9.30、『真の父母經』46ページ)
 
 「お父様は、いい加減に結婚することはできません。三代のエバの役事を経た娘を新婦として迎えなければならないのです。お母様は、そのような役事を経てきました。聖主教、腹中教の代を継いできて、一次エバ(趙元模)、二次エバ(大母様)の祝福を受けてきたのです。大母様を通してそのような役事をしてきたのです。蕩減復帰の原則に従ってそのような過程を経ることにより、来られる主を勝利の版図に立てるべき責任があるのです。イエス様が結婚できなかったのも、このような蕩減復帰の原則に合わなかったからです」(265-153、1994.11.20、『真の父母經』46ページ)
 
 神の復帰摂理において準備された真の母とは、エデンの園の中における「無原罪」のエバであり、神の血統をもたれたおかたです。そして、真の父と真の母のお二人によって重生の役事、すなわち血統転換が行われます。したがって、真の母を否定することは、救いの恩恵からもれることを意味しています。
 真のお父様は、次のように語っておられます。

 「お母様は、世界を代表した女性として、息子、娘を抱きかかえています。お母様に従う女性たちは、お母様の分身になります。お母様を、自分の夫以上に愛さなければなりません。お母様は聖霊です。聖霊に背いては、赦しを受けられないのです。再び生まれる道がありません。赦そうとしても、その根拠がないのです。お母様は、生命を復活させる方です。再び生んで祝福するのです」(233-087、1992.7.30、『真の父母經』47ページ)

 イエス様も、「人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」(マタイによる福音書12章31~32節)と語っておられますが、真のお父様もこれと同じことを語っておられます。
 最近では、真のお母様を否定する人がおりますが、これは非常に心痛く、残念なことと言わなければなりません。真のお父様の警告の言葉に耳を傾け、今からでも悔い改め、真の父母様のもとに帰って来ていただきたいと心から願う次第です。

 最後に、私たちが総合的に留意しておくべきことについて、お伝えいたします。

 

(1)お父様の願いは、お母様を絶対中心として一つになること

 「伝統はただ一つ!真のお父様を中心として! 他の誰かの、どんな話にも影響されてはいけません。先生が教えた御言と先生の原理の御言以外には、どんな話にも従ってはならないのです。今、先生を中心としてお母様を立てました。
 先生が霊界に行ったならば、お母様を絶対中心として、絶対的に一つにならなければなりません。今、お母様が行く道は、お父様が今まで立てた御言と説教集を中心として、行かなければならないのです」
(『祝福』1995年夏季号、68ページ)

 私が死んでも(お母様には)統一教会を導くことができる能力もあるので、お母様が説教する時が来るのです。……そのような時は、(お母様に)絶対服従しなくてはなりません。……一度決心すれば、最後まで自分一代でこの複雑な恨の峠をすべて清算するという決心が、私よりもお母様がもっと強いのです。先生は、今70を超えたので、ごみ箱の近くに行きましたが、お母様は、今ごみ箱を収拾してそれをすべて掃除することができる主人になったので、先生よりもお母様をもっと重要視することができる統一教会の食口になれば福を受けるのです」(『真の御父母様の生涯路程⑩』351~352ページ)

 

(2)真のお母様は「第二教主」

 これからは先生がいなくても、お母様一人でみ旨に何の支障もないというのです。今までは、女性が天地を代表する摂理の代表者として立つことはできなかったのですが、父母の愛と一体的理想を中心として、初めてお母様を中心とする女性全体の解放圏が地上に宣布されたのです。……真の父母の聖婚から30年たって女性解放を宣布したというのです。ですから、先生が一人でいても真の父母様の代身であり、お母様が一人でいても真の父母様の代身です。『レバレンド・ムーンが古希を過ぎて70を越えたので後継者が現れないのか?』そんな言葉はやめなさい。……ですから、先生が第一教主、その次に、お母様は第二教主だということです」(マルスム選集201-126)

 お母様を中心として皆さんが一体になっていかなければならない時が来ました。もう先生がいなくても、お母様が代わりにできる特権を許諾したというのです。お父様がいないときは、お母様のことを思わなければなりません。そのように理解して、先生の代わりにお母様に侍る心をもち、祈祷もそのようにするのです。今までは先生を愛してきましたが、これからはお母様を愛さなければなりません。これからはお母様の時代に入っていくことを理解して、特に女性たちはそのようにしなければなりません。ここにおいて、先生が第一教主であれば、お母様は第二教主であると世界的に宣布し、天地に宣布します」(『真の父母の絶対価値と氏族的メシヤの道』116~117ページ)
 
 「お母様は私の影のようです。付いて回る影のようなので、私は実体をもった主体の教主であり、お母様は対象の教主です。それで、私は第一教主、お母様は第二教主です。何を中心としてですか。愛を中心としてそうだというのです」(同、116ページ)
 
 先生が霊界に行ったとしても、お母様が地上にいれば、霊界と地上界の統一圏ができるので、いつでもお母様がいる地上に来て一緒に暮らすことができるのです。今、統一教会のメンバーの中にそのようなカップルがたくさんいます。一緒に生活しているというのです。……霊界に行ったとしても、地上にいる人と一緒に生活することができるのです」(同、117ページ)

 真のお父様は、聖和後、真のお母様のところに降りてこられ共に生活すると公式的に宣言しておられました。真の子女様のところに降りてこられると語られたのではありません。私たちは、お父様が霊界から降りてこられて生活すると語っておられたお母様を中心に一体化していかなければなりません。

 

(3)真の父母は永遠に一組である

 「真の父母様は一組だけです。今、この時の一度だけだというのです。過去にもいなかったのであり、未来にもいません。真の父母様が肉身をもって実体で存在するのは、この時だけだというのです。永遠の中でたった一度です」(マルスム選集246-84)
 
 「先生は、以前にも存在しなかったのであり、これからも存在しません。永遠にこの時しかいないというのです。真の父母が二組もいることができますか。絶対に一組です。先生が霊界に行けば終わりです。永遠に存在しません。だからとって、この思想がなくなるのでしょうか。そうではありません。先生が教えたあらゆることは、天下の真理として永遠に残るのです」(同、229-161)
 
 「真の父母が二組いることはできません。……人類の父母が一度現れるのが、歴史の願いであり……摂理の願いであるために、その父母が現れる時は、あとにも先にもない時であり、歴史上に一度しかない頂上なのです」(八大教材・教本『天聖經』230ページ)
 
 「真の父母というのは一組しかいないのです。人類の一組しかいない父母だというのです。歴史に初めて登場した、空前絶後の真の父母が顕現した時代が成約時代だというのです」(同、2400ページ)
 
 「真の父母というのは、二組はあり得ません。一組しかいないのです。過去には存在せず、現在に一組だけ存在し、後代にも存在しません。歴史上に一組しかいない父母の名をもつ真の父母が現れたという事実は、歴史上、これ以上に喜べることはない出来事です」(マルスム選集266-251)
 
 このように、真の父母は永遠に一組しかおられません。それゆえ、真のお父様は「後継者…そんな言葉はやめなさい」と語っておられるのです。
 『原理講論』に、「イエス以後においては、イエスと聖霊とが、直接、信徒たちを導かれた」(469ページ)とあるように、二千年のキリスト教は、霊的真の父母であられるイエス様と聖霊が一貫して信徒を導きました。
 未来永劫にわたる天一国においては、空前絶後の真の父母であられる文鮮明先生、韓鶴子夫人が一貫して導いていかれることを、私たちは明確に理解しておかなければなりません。