(1)神山威氏の言説と同類の「お母様の無原罪性」に対する批判
人類の「真の母」となられる女性は、生まれながらにして「神の血統」でなければなりません。本部(教会成長研究院)は、真のお母様が生まれた時から「神の血統」をもっておられたことについて明らかにしました。
真のお父様は、「愛には縦的愛と横的愛があるのです。父子関係は縦的愛であり、夫婦関係は横的関係です。縦的愛は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません」(『訪韓修練会御言集』12ページ)と語っておられますが、この御言から考えてみると、真のお母様は、たとえ真のお父様と聖婚されたとしても、それは“夫婦関係”であるためにその血統は繋がりません。したがって、真のお母様も、もともと神の血統をもっておられなければ人類の「真の母」となることはできません。
真のお父様が、「来られる主は、三人目のアダムなのです。そして、三人目のアダム(再臨主)が堕落前のアダムの立場で来て、堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して、小羊の宴会をしなければなりません。結婚して人類の父母となるのです」(『祝福家庭と理想天国(1)』584~585ページ)と語っておられるように、真のお母様も聖婚される前に、肉的堕落による失楽園(肉的堕落圏へ落ちる)が起こる以前の「エデンの園」の圏内にいたエバの立場として、「神の血統」をもっておられるのです。
ところが、男性だけが「神の血統」を持っていると“男尊女卑”的に考える人がいます。彼らは、この“男尊女卑”的な考え方に基づき、真のお母様が語られる「独り娘(独生女)」に対して批判しますが、それと同類の立場に立った人物に、神山威氏がいました。
神山氏は、2014年9月26日の福岡・久留米で講演を行い、そこで、男性が有するY染色体だけが神様に由来するものであり、X染色体はそうではないかのように論じ、まるで女性は「神の血統」をもっていないかのように語っていました。このような主張は「女性蔑視」であり、非科学的珍論と言えるものです。
この神山氏が説く“女性蔑視”とも言える珍論に対し、「では、X染色体はどこから来たのですか? 女性は神様と関係ないのですか?」と突っ込みたくなります。Y染色体もX染色体も、共に神様に由来するものです。
『原理講論』に、「神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体」(46ページ)とあるように、男性の性稟も、女性の性稟も、ともに神様に由来するものです。男性のY染色体だけが神様由来であり、X染色体はそうでないかのように論じた神山氏の言説は、女性差別の思想であり、原理的に誤りです。
(2)真の愛、真の生命、真の血統について
「論語読みの論語知らず」とよく言われますが、私たちも「原理講論読みの原理知らず」となってはいけません。真のお父様は1992年に「女性解放」を宣布されました。真のお父様の思想とその行動は、「真の女性解放」をもたらすものです。私たちも真のお父様に似て、そうあらねばなりません。
長い人類歴史において、女性は常に疎外され、虐げられ、苦難の道を余儀なくされてきました。しかし、今や人類の「真の父母」が現れることによって、真の女性解放が成される時代が到来しています。私たちは、先天時代の思想である「男尊女卑」「女性蔑視」的な考え方から一刻も早く脱却しなければなりません。
ところで、真の愛、真の生命、真の血統について論じるとき、男性だけが「神の血統」を持っていると考える「男尊女卑」的な考え方に執着する人がいます。彼らは、真の愛、真の生命、真の血統は、真のお父様だけが持っており、真のお母様(女性)は持っていないと考える傾向性を持ちます。彼らが説く、女性は「神の血統」をもっていないという思想は、誤りです。なかには、「女の子であれば、神の血統を持ちません」と平然と言ってのける人さえいます。しかし、女性も神の血統をもっているのです。真の愛、真の生命、真の血統は、男性一人だけでは持ち得ないことを知るべきです。
愛、生命、血統は、すべて相対関係をもって生じ、現れます。前述したように、『原理講論』に、「神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体」(46ページ)とあるように、神様は男性(プラス)と女性(マイナス)の二性性相の中和的主体であられることを、まず理解しておかなければなりません。だからこそ、存在するすべてのものは陽性・陰性の二性性相になっているのです。真のお父様は、「愛」について次のように語っておられます。
「愛というものは、一人では探し出すことができません。愛は一人ではもつことができません。愛は、必ず相対を通して現れて成されるようになっているのであって、一人では神様でも成し遂げることができないというのです」(八大教材・教本『天聖經』1590ページ)
「神様は真の愛の根源であられますが、どんなに全能な神様であられるとしても、一人では決して愛の喜びを感じることができません。神様は愛の対象が必要であり、その対象から自発的な愛が帰ってくることを願っていらっしゃいます。その対象としての最高の被造物が、正に私たち人間です。そのような理由で人間の生命には目的があるのです」(同、1414ページ)
真の愛だけでなく、すべての存在は、単独(一人)で生存し、繁殖し、作用することはできません。それゆえ、すべてのものは二性性相になって存在しているのです。『原理講論』は、「すべての存在が二性性相になっている理由」(63ページ)について論じていますが、それは、宇宙の根源であられ、自存される神様が二性性相の中和的主体であり、本陽性と本陰性をもたれた絶対「性」のおかたであることに由来するものです。
この絶対「性」について、真のお父様は次のように語っておられます。
「絶対『性』とは、一人で成し遂げられる言葉ではありません。神様が男性格主体であるだけでは、絶対ではありません。相対的な何かがなければならないのです」(天一国経典『真の父母經』568ページ)
神様が「男性格主体」として存在するだけでは、絶対ではありません。神様には、プラス(男性)だけでなく、マイナス(女性)もあるのです。そこに必ず相対的なものが必要です。そして、生命が存在する前に、愛がありますが、生命もまた相対的因縁がなければ存在しないことについて、お父様は次のように語っておられます。
「生命は必ず相対的因縁を通じなくては生まれません。相対的因縁を通じることなくして、生命は生まれないのです。生命のある前に、相対的因縁がなければならないというのです。それでは、その相対的因縁とはどのような因縁でしょうか。愛の因縁です。相対的な愛の因縁を通じてこそ生命が生まれるというのです。したがって、生命のある前に愛がなければなりません。皆さんが生命を持つにも、そういう相対的な因縁があったのです。その相対的因縁とは何かといえば、父母の愛です。その父母の因縁をずっと逆上れば、アダムとエバまで上がっていきます」(『訓教經(下)』456ページ)
真の愛は、単独ではなく、必ず相対関係を通して生じます。それと同様に、真の生命も同じであるというのです。そのことを、しっかり踏まえた上で『平和神經』に書かれた「血統の重要性」を読めば、血統の意味をより深く、より正しく理解することができます。真のお父様は、『平和神經』で次のように語っておられます。
「アダムとエバの堕落以来、長い歴史を通して神様の胸に最も痛む恨として残されてきたものが何であるか、御存じでしょうか。それは、天の血統を失ってしまい、兄弟圏と所有権まで失ってしまった事件です。生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです」(『平和神經』28ページ)
「血統は、父母が子女だけに与え得る特権中の特権です。しかし、堕落によって彼らは、サタンの偽りの血統を受けて、サタンの子女に転落してしまいました」(同、39ページ)
愛は“相対的因縁”をもって生じ、生命も“相対的因縁”をもって存在するのです。真のお父様は、それらの相対的因縁をもって存在している「生命」と「愛」に基づきながら、「生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません」と語っておられます。
そして、血統についても「父母が子女だけに与え得る特権中の特権」だと語っておられます。血統とは「父」と「母」の因縁をもって現れるものです。「父母が子女だけに与え得る」はずの血統を、どのようにすれば「父」だけで生じさせ、所有し続けていくことができるのでしょうか。「父一人」だけで血統を生じさせ、永遠に所有し続けることは不可能です。
『原理講論』は、「父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。……真の父と共に、真の母がいなければならない」(264~265ページ)と論じていますが、「父」と「母」の二人によって、初めて子女を生むことができるのであり、その父母と子女の“親子関係”によって連結されるものが「血統」です。真のお父様は次のように語っておられます。
「生命を見ましたか? 生命に触ってみましたか? 生命体は見えるけど、生命は分かりません。触ってみることはできません。血統もそうです。血統は夫婦が愛するその密室、奥の部屋で結ばれるのです。そして、精子と卵子が出合って生命体として結合するとき、血統が連結されるのです」(「ファミリー」1995年3月号22ページ)
このように、血統は「父」と「母」の二人によってその精子と卵子が出合い、そこに新たな生命体が生じるとき、その“親子関係”によって連結されることを知らなければなりません。「父」一人だけでは、また「精子」だけではだめなのです。そこには、必ず「母」がいなければならないし、また「卵子」がなければなりません。
(3)人間始祖のアダムは「神の独り子」、エバは「神の独り娘」
真のお父様は、人間始祖のアダムとエバに対して、彼らはそれぞれ「神の独り子」「神の独り娘」であったと、次のように語っておられます。
「エデンの園のアダムは、神様の独り子です。エバは、神様の独り娘です。彼らが成長し、春の日になって花が咲くとき、二人が互いに春の歌を歌いながら、『あなたは私のお兄さんではないですか』、『あなたは私の妹ではないですか』と言えば、神様はどのようにするでしょうか。明るく咲いた花が香りを漂わせるようになれば、神様が(二人を)結んでくださったでしょう。神様が結婚式をしてあげることによって成し遂げようとしていた創造の最高の理想が、アダムとエバを中心として成し遂げられるのです。彼らが独り子と独り娘としてよく育ち、思春期まで行こうとすれば、期間が必要なのです」(天一国経典『真の父母經』31ページ)
このように、エデンの園にいるアダムは「神の独り子」であり、エバは「神の独り娘」でした。アダムとエバが堕落せずに成長期間を全うしたなら、彼らは個性完成し「神様の結婚式」を行って、「神の血統」を繁殖していました。
この場合、アダムもエバも、それぞれが神の血統をもつ「神の独り子」「神の独り娘」であったという事実を知らなければなりません。彼らは結婚し、やがては「夫婦が愛するその密室、奥の部屋で……精子と卵子が出合って生命体として結合するとき、(神の)血統が連結」するようになっていたのです。こうして、神の血統は、アダム(精子)とエバ(卵子)の両者によって連結して生じ、拡大していくのです。
まさしく「生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統」であり、かつ「血統は、父母が子女だけに与え得る特権中の特権」であるというのです。
ところが、「神の血統はアダムだけが持っている」と思い込んでいる“女性蔑視”的な傾向をもったサンクチュアリ教会側の人物は、「エバはアダムから造られた……アダムから造られたので、アダムから生まれたので、エバはアダムの血統となった。(それゆえ)アダムとエバは一つの血族になる」などと愚かなことを述べます。
ここでいう「エバはアダムから造られた」というのは、「相対理想絶対圏」のことを語っているのであって、アダムがエバを生んだのではありません。それは、アダムにとって絶対になくてはならない「相対」としてエバが創造されたことを表現する言葉です。そのことを、聖書は「神は人(アダム)から取ったあばら骨でひとりの女(エバ)を造り」(創世記2章22節)と象徴的に記しています。聖書に書かれているように、アダムもエバも、共に神様が創造した人間であって、決してアダムがエバを生んだのではありません。どうやったら、男が子供(エバ)を生むことができるというのでしょうか?
ところが、この人物は、アダムがエバを生んだかのように強弁します。おそらく、この人物は、「神の血統」はアダムだけがもっており、その血統をエバが受け継ぐことで、エバも「神の血統」になり、それで一つの血統になるとでも言いたいのでしょう。これは、女性差別の思想です。
もともとアダムもエバも、それぞれが神様によって創造された「神の血統」をもつ独り子、独り娘であったという事実を知らなければなりません。
「アダムから生まれたので、エバはアダムの血統となった」という“非科学的珍論”を平然と言ってのけるサンクチュアリ教会側のこの人物は、「生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません」「血統は、父母が子女だけに与え得る特権中の特権」という『平和神經』の御言が分かっておらず、また、『原理講論』に記された「父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか」(264ページ)という意味も踏まえないままで語っているのです。
どのようにすれば、アダム一人で子供を生み、そのアダムの血統をエバに相続させることができるというのでしょうか? これは、御言に基づかず、聖書にも書かれていない「非科学的珍論」です。
もともとアダムもエバも、それぞれが「神の血統」をもって創造されていたのであり、アダムがエバを生んだのではありません。彼らが結婚し、その二人から神様の一つの血統が生じて繁殖し、やがて氏族、民族、国家、世界、天宙へ拡大し「人類一家族世界」が実現するようになっていたのです。
それにもかかわらず、「神の血統」は男性だけが持っており、「アダムから生まれたので、エバはアダムの血統となった」という非科学的珍論を述べるサンクチュアリ教会側の人物は、「エデンの園」にいたエバの時と同様に、真のお母様も、もともと神の血統をもってお生まれになっているという本部の見解(教会成長研究院の2つの動画の内容)に対して、次のように批判します。
「文氏お父様と韓氏お母様が、それぞれ独自に無原罪の独り子なら、お父様とお母様によって生み返された私たち堕落人間は、皆等しくお父様と同じ血統になります。だが、お母様ただ一人だけが、お父様の血統とは別の血統となってしまうことになります。……(教会成長研究院の人は)お母様を一つの血族から追放する極悪人だというのです」
サンクチュアリ教会側の人物は、「アダムから生まれたので、エバはアダムの血統となった」という非科学的珍論を振りかざした挙げ句に、本部の見解をまとめた人物らを「お母様を一つの血族から追放する極悪人だ」と断罪する始末です。自分が“珍論”を述べていることすら気づいていません。
だれもが、父親の血統と、母親の血統を受け継いで生まれてきていますが、その場合、母親だけが「一つの血統」から追放されるということはあり得ません。
なぜなら、エデンの園において、アダムもエバも、共にそれぞれが神様によって創造され、もともと神の血統をもつ「独り子」「独り娘」だったのです。その二人が結婚して、やがて「夫婦が愛するその密室、奥の部屋で……精子と卵子が出合って生命体として結合するとき、(神の)血統が連結される」ことで、神の一つの血統が生じて繁殖していくようになっていました。そうやって繁殖した場合、果たして、エバだけが「一つの血族から追放」される存在となってしまうのでしょうか? これは“奇妙な論理”です。
血統は、もともとアダムとエバの二人の生命体の結合による、その相対的要因によって生まれてくるものです。そして、エデンの園では、完成したアダムとエバという、たった一組の真の父母から始まった“一つの血統”だけが永遠に続いていくのです。
どうやら、“男尊女卑”“女性蔑視”的な思想に立ち、男性しか神の血統を持たないと考えるこの人物は、自分が語る“奇妙な論理”の愚かさにも気付いていないようです。このような人物は、「原理講論読みの原理知らず」と言われても仕方ないでしょう。
なぜなら、「父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である」(『原理講論』264~265ページ)という意味を、本当の意味で理解しているとは言いがたいからです。
血統の種は、男性の精子だけが持つと考えていた過去の先天時代の“男尊女卑”的な思想から早く脱却しなければなりません。確かに、「卵子」が発見されていなかった古い時代においては、精子をもった男性だけが「種」をもっており、その精子だけで子女が身籠もるかのように考えていました。
しかし、19世紀になって「卵子」が発見されたのです。ローマ教皇庁立大学のカーリ・E・ビョレセン教授は、この卵子の発見ついて次のように述べています。
「カール・エルンスト・リター・フォン・ベーアによる哺乳類の卵子の発見(1827年)により、男性中心主義的に女性を理解しようとするキリスト論の前提は崩れる。ここで父と母との機能が同等のものであるとしてみられる(ようになった)」(『マリアとは誰だったのか』新教出版社、122ページ)。
このように「卵子の発見」は、女性の復権にも、また、神学界にも大きな影響を与えたのです。真のお父様は、「精子と卵子が出合って生命体として結合するとき、(神の)血統が連結される」と明確に語っておられ、血統について語られるときに「精子と卵子」の両方を述べておられます。そこに、「両性の本質的平等」という原理的な神学思想を見ることができます。
真のお父様が語られるように、精子と卵子が合わさってこそ、新たな生命体が生じ、その“親子関係”によって血統が連結されるのです。私たちは、「血統は、父母が子女だけに与え得る特権中の特権」という御言を忘れてはなりません。
私たちは、彼らのような非科学的で“女性蔑視”の非原理的思想をはびこらせることなく、真のお父様が願われる「真の女性解放」の時代を到来させていくようにすべきです。