真理とは、「実体み言」である天地人真の父母様 ―――天一国時代におけるみ言の理解と解釈について

文責:教理研究院

                  注、真の父母様のみ言や『原理講論』『統一思想要綱』
などは「青い文字」で区別しています。

  今回は「〝真理〟とは何か」について真のお父様のみ言から考察してみることにする。独り子(文鮮明師)が語られるみ言と、独り娘(韓鶴子総裁)が語られるみ言は、いずれも神から出てきているみ言であり、矛盾はない。しかしながら、矛盾しているのではないかと考える人もいることから、以下、この問題について論じてみることにする。

 一、真理とは何か?
(1)文字表記そのものが、真理ではない
 「真理」とは何かと問うとき、私たちは文字表記そのものが真理であると考える傾向性をもっている。しかし、そのように考えることは浅薄であると言わざるを得ない。『原理講論』は真理について次のように論じている。

 「神霊と真理とは唯一であり、また永遠不変のものであるけれども、無知の状態から、次第に復帰されていく人間に、それを教えるための範囲、あるいは、それを表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ない……。……人間の心霊と知能の程度が高まるに従って、モーセの時代には律法を、イエスの時代には福音を下さったのである。その際、イエスは、そのみ言を真理と言わないで、彼自身がすなわち、道であり、真理であり、命であると言われたのであったその訳は、イエスのみ言はどこまでも真理それ自身を表現する一つの方法であるにすぎず、そのみ言を受ける対象によって、その範囲と程度と方法とを異にせざるを得なかったからである。このような意味からして、聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって、真理それ自体ではないということを、我々は知っていなければならない」 (『原理講論』169ページ)

 『原理講論』は、み言とは真理を表現する一つの方法であるにすぎず、 「真理それ自体ではない」と論じている。また、真のお父様は「真理とは何か?」について次のように語っておられる。

 「皆さん、真理とは何でしょうか。真理の根本は何でしょうか。自分以上の真理はありません。天国の真理は一人の男性一人の女性以外にはないのです。何の話か分かりますか。全世界の男性を代表する真なる男性がいれば、その真なる男性の四肢五体が真理なのです。真理は文字ではありません真なる女性が真理なのです。そして真なる真理の父とは、真なる愛をもった人です。また真なる真理の夫婦という真の愛をもった真理体が一つになる時、真なる真理の殿堂になるのです」 (『ファミリー』1989年1月号38ページ)

 真のお父様は、真理とは「真なる男性がいれば、その真なる男性の四肢五体」であり、また「真なる女性」のことをいうと語っておられ、 「真理は文字ではありません」と断言しておられる。すなわち、完成したアダムである「真なる男性」 、完成したエバである「真なる女性」こそが〝真理〟であると言われている。さらに「真なる真理の殿堂」とは「真なる真理の夫婦という……真理体」のことであり、それは真の父母様を指している概念である。
 真のお父様は、次のようにも語っておられる。

 「真とは何でしょうか? それは変わりますか、変わりませんか? (「変わりません」)。何が真ですか? (「『原理講論』です」)。『原理講論』は文字で書いた御言です。何が真理ですか? ……真というのは、標準でありモデルであって、その標準は、変わらないすべての統一的な内容を備えていなければならないのです。……ある人は、右手は真でその右手一つだけあるというとき、その人は、真なる人になりますか? これが問題になるのです。本当の真なる人にはなることはできないのです。
 家の場合、完全なものを持ってきてつけて完成した後に完全な家だということができるのです。同様の理論です。……あなたたちは、完全な人格者になりましたか?」 (『祝福家庭』1998年冬季号10~11ページ)

 以上のことから、「真理とは何か?」と問うとき、『原理講論』やみ言はあくまで真理を文字で表現したものに過ぎず、真理それ自体ではないという事実を知らなければならない。
 イエス様ご自身も「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)と語っておられるように、真のお父様は「真理とは何か?」について、それは個性完成した男性(完成アダム)、個性完成した女性(完成エバ)の四肢五体、すなわち「個性完成した実体の人間」を指して〝真理〟と語っておられるのである。

(2)真理とは、実体の天地人真の父母様のこと
 真のお父様は「先生が生涯全体の結実として宣布したみ言、それが『天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会』です」 (『トゥデイズ・ワールドジャパン』2011年天暦1月号11ページ、2011年2月3日)と語っておられる。また、2010年7月8日、韓国・天正宮博物館前の広場で開催した最初の「実体み言宣布大会」で次のように語っておられる。

 「み言が先でしょうか、実体が先でしょうか。今日の宗教では、実体に関することは確信をもつことができず、律法を重要視するので、実体と律法が一体になるということは、本当に難しいのです。統一教会では、み言が先ではありません実体があって、その実体が行った事実をみ言で証しするので、内外が一致し得る内容を知ることができるというのです」 (『真の父母の絶対価値と氏族的メシヤの道』33ページ、2010年7月8日)

 また、次のようにも語っておられる。

 「天地人真の父母が定着しました。その次には、実体み言宣布です。真理の実体、定着した実体が語るその言葉が、宇宙を解放させることのできる言葉です。それが実体み言宣布です。男性なら男性、女性なら女性が、自分の利益を得ようと企てる、そのような思想ではありません。ですから、天地人真の父母が定着したとはどういうことかというと、実体が定着するということです。それで実体み言宣布なのです (前掲書32ページ、2011年11月27日)

 真のお父様は「み言が先ではありません。実体があって、その実体が行った事実をみ言で証しする」と語っておられる。それは「真理の実体」であるメシヤ、真の父母様がまずおられて、その真の父母様が勝利された事実をもって〝み言〟が語られているため、〝実体〟と〝み言〟の一致、すなわち内外が一致し得ると言われているのである。
 そして、 「天地人真の父母が定着しました」と語っておられる。それは、実体が定着するということであり、真のお父様の勝利とともに、真のお母様の勝利なくして「定着」することは絶対にあり得ないことである。
 以上のことからして、真理とは「真理の実体」である勝利された天地人真の父母様ご自身、すなわち実体の文鮮明・韓鶴子総裁ご夫妻を言うのであり、 「定着した実体が語るその言葉(み言)が、宇宙を解放させることのできる言葉」であり、それが「実体み言」ということである。

二、「最終一体」となられた天地人真の父母様
(1)堕落以前の立場で、一体圏を成就された父母様
 真のお父様は、2010年6月19日(天暦5月8日)と同年6月26日(天暦5月15日)、米国・ラスベガスで真のお母様との「最終一体」を宣言された。その12日後の同年7月8日、前述したように、真の父母様は韓国・天正宮博物館前の広場で「天地人真の父母定着実体み言宣布大会」を開催された。
 翌年5月26日、韓国・仁川で「天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会」が開催され、「皆様、今日、私たちが生きているこの時代は、歴史的な大天宙的革命期です。歴史を変え、霊界と地上界を一つにして、神様が太初から願ってこられた理想天国をこの地上に創建しなければならない大天宙的革命期です。これ以上、延期したり、延長する時間はありません。天は既に、2013年1月13日を『基元節』として宣布しました。実体的天一国の始発であり、起源となる日が正にその日なのです(韓日対訳『天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会』39~41ページ)と宣布しておられる。

 さらに、真のお父様は世界巡回をされ、実体み言宣布天宙大会を開催。2012年天暦1月1日(陽暦1月23日)の「真の神の日」には、年頭標語「天地人真の父母勝利解放完成時代」を発表された。
 その後、真のお父様は、2012年3月に真のお母様を日本に遣わされ「天地人真の父母様勝利解放完成時代宣布大会」を開催。その大会を韓国・巨文島で見守られながら大会に同参された。その勝利権の上で第53回「真の父母の日」(陽暦3月22日)、真のお父様は「神様と人類の責任が完結される天の国の憲法が何かといえば、『天地人真の父母定着』です。それさえ成れば、全てが終わるのです(『トゥデイズ・ワールドジャパン』2012年5月号43ページ)と語っておられた。その予告どおり、真のお父様は2012年4月14日、米国・ラスベガスの天和宮で「天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会を最終完成・完結することを、お父様の前に奉献します」という〝特別宣布式〟をされた(同、2012年6月号19ページ)。
 その宣布式で、真のお父様は「真の父母様になることができる文鮮明、韓鶴子という二人の人が、堕落が存在しないエデンの園にあって、『善悪の果を食べたら、死ぬであろう』と言われた、それ以前の位置に返っていき……一体圏を成して、天の勝利の覇権的主権と天国を完成した、この全てを喜びとして歓迎いたします」 (同、2012年6月号18ページ)と宣言しておられる。
 このように、真の父母様は堕落以前の立場において、一体圏を成就しておられるのである。

(2)「天地人真の父母定着完了」を成就された真の父母様
 〝特別宣布式〟から7日後の2012年4月21日、韓国・清心平和ワールドセンターで、真のお父様は「天地人真の父母様特別集会」を開催され、次のように語っておられる。

 「『天地人真の父母定着完了』が、この本(講演文)の題名です。天地人が真の父母となって定着する教材・教本だというのです。……あなたがたも批評をせず、『この言葉どおりに一度生きてみたい』と考える人が、福を受けて生きることができるのです。……創造主の資格をもって、最後に万王の王と父母の先祖の中の先祖となりうる勝利の覇権の栄光の宝座に座る人は、億千万代においてただ一つの夫婦であって、二つはいません夫婦が二つですか、一つですか。万国の王たち、偽者たちがなぜこんなに多いのですか。万王の王はお一方です(「KMS中和新聞」2012年4月27日号)

 この特別集会で、真のお父様は「栄光の宝座に座る人は、億千万代においてただ一つの夫婦であって、二つはいません。……万王の王はお一方です」と語られ、天一国の「万王の王」がお一方であることを明らかにされた。しかも「億千万代においてただ一つの夫婦と述べられ、それは文鮮明・韓鶴子総裁ご夫妻であることを天宙に宣布された。
 このように、真のお父様は天地人真の父母定着を発表され〝天地人真の父母定着完了〟を成し遂げておられるのである。

三、神は、「天の父母様」である
(1)神はご自身の中に陽性・陰性をもっておられる
 さて、『原理講論』は神について次のように論じている。

 「存在するものはいかなるものでも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在するという事実が明らかにされた。それゆえに、森羅万象の第一原因としていまし給う神も、また、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在せざるを得ないということは、当然の結論だといわなければならない。……我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性女性と称するのである」 (46~47ページ)

  神は唯一であられながら、陽性・陰性(男性・女性)の相対的関係をもって存在しておられる。それゆえ『原理講論』は、神について「父母なる神」 (61ページ)、 「人間の父母としていまし給う神」 (92ページ)、 「天の父母なる神」 (235ページ)、 「神は、霊的な父母として、人間を実体の子女として創造された」(429ページ)、 「神は子女を失った父母の心情をもって悲しまれながら悪逆無道の彼らを救おうとして、罪悪世界をさまよわれた」 (591ページ)等々と述べている。これらを見れば、神はキリスト教で呼んできた〝天のお父様〟ではなく、〝天の父母様〟と呼ぶのがふさわしいと言えるのである。
 真のお父様は『平和神經』に収録された「霊界報告書」の表題に、 「神様は人類の父母」と明記しておられるし、「天基元年」を宣布された2010年の「真の神の日」の祈祷においては、神に対し「天の父母様」と呼びかけて祈っておられる。
 このことは、従来のキリスト教の神観に対し、新たな視点を与えている。キリスト教では、父(神)と子(キリスト)と聖霊というとき、三者のすべてが男性である。すなわちキリスト教では、聖霊も男性だと考えている。もしそうであるなら、神はすべての存在の〝第一原因〟であるにもかかわらず、いったい女性の〝性〟はどこから来たのか? という疑問が生じてこざるをえないのである。
 実は、ヘブライ語で聖霊(ルァハ)というとき、その言葉は女性形であった。
 「使徒言行録(使徒行伝)2章の聖霊降臨の記述は……この出来事(聖霊降臨)を旧約の預言者の言葉の成就と解釈した。それによると……預言者ヨエル(の言葉)を引用しながら、明らかに旧約の世界に帰っている。……ルカは使徒言行録(使徒行伝)をギリシャ語で叙述しているので、プネウマという言葉を使用しているが、預言者ヨエルのヘブライ語原典ではルァハである。……ルァハが旧約では女性形だということははっきりしている」(E・モルトマン=ヴェンデル編『聖霊は女性ではないのか』新教出版社23~25ページ)

 旧約聖書におけるヘブライ語のルァハは女性形であったが、新約聖書のギリシャ語に翻訳されるとき、それが中性名詞のプネウマ(風)に置き換えられた。さらに、四つの福音書の中で最後に編纂されたヨハネによる福音書では、聖霊を指す「助け主」(14章16節)が、ギリシャ語のホ・パラクレイトスで、男性冠詞を付して呼ばれるようになった。
 しかし、創世記には「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(1章27節)とある。この創世記の記述は、『原理講論』の「神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称する」と説く統一原理に通じるものがある。
 実は、ユダヤ教の教えには「独身の拒否」がある。ユダヤ教では次のように考えている。

 「性は神が望んだ人間のあり方の不可避的な一側面だということである。それ故独身の人間は不完全とみなされる、彼らは人間の最高の身分に達していない。……聖書に定められた祭司には結婚をし子孫を得る義務がある。……トーラーの研究のため独身のままでいるかもしれないがその場合、神は『男性的』であるという思想はいずれにせよ全く通用しなかった。特に神秘家にとって神性は同時にまた『女性的』でもある。聖書には神の母性愛について語っている(イザヤ書49・15)。援助、哀れみというヘブライ語の「rachamim」、すなわち最もよく述べられる神のひとつの特性は、rechem(母胎)に由来する」(『諸宗教の倫理学・性の倫理』九州大学出版会10ページ)

 このように、神の中に父性(男性)と母性(女性)とが内包されている。すなわち、ユダヤ教でも神は男性であるが、その中に〝父性〟と〝母性〟をもつ存在であると捉えている。したがって、神が顕現されるときは〝父性〟の姿をもって現れるだけでなく、〝母性〟の姿をもっても顕現され得るのである。ユダヤ教のラビは次のように述べている。

 「さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、『このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい…』(出エジプト記19・3~)
 ここでは神はモーセに対して、最初ヤコブの家にこれを告げ、それからイスラエルの子供たちにこれを告げよといっている(日本語訳では「人々」となっているが、これは「子供」の誤訳)。この場合、ヤコブの家と子供たちというのは、結局同じことである。モーセに対して神が十戒の構想をユダヤ人に告げよといったとき、最初は非常に甘いやわらかい調子でいい、二番目は非常に強い言葉でいった。ラビは、これから大きな教訓を得た。すなわち、十戒の基本的な構想は、最初に女性に与えられ、つぎに男性に与えられた。なぜなら、女性は最初の教育者である。すなわち子供を教えるのは女性である。……ヤコブの家というのは、ヘブライ語では非常にやわらかい、女性的な感じで発音される」(ラビ・M・トケイヤー著『ユダヤ発想の驚異』129ページ)

 このように、神は威厳をもつ荒々しい父性(男性)の姿をもって顕現されるときがあれば、一方では柔らかくやさしい母性(女性)の姿をもっても顕現される。すなわち、神が現れるとき男性的であり、かつ女性的でもあるのである。

(2)神は、実体の「真の父」と「真の母」の姿で顕現
 ところで、真のお父様は「平和メッセージ」で次のように語っておられる。

 「アダムとエバが……完成した上で、結婚して子女を生んで家庭を築いたならば、アダムとエバは外的で横的な実体の真の父母になり、神様は内的で縦的な実体の真の父母になったことでしょう。……神様は、真の愛を中心としてアダムとエバに臨在されることにより、人類の真の父母、実体の父母としておられ、アダムとエバが地上の生涯を終えて霊界に行けば、そこでもアダムとエバの形状で、彼らの体を使って真の父母の姿で顕現されるようになるのです」 (『平和神經』54~55ページ)

 このように、人類の真の父母となった「アダムとエバが地上の生涯を終えて霊界に行けば」 、神様は「そこ(霊界)でもアダムとエバの形状で、彼らの体を使って真の父母の姿で顕現される」と語っておられる。2003年の二度目の聖婚式(同年2月6日)以降、真のお父様は、神について「今、 (霊界に)行ってみれば……文総裁夫婦の顔が現れて、きらびやかな光で見える」(『ファミリー』2003年5月号27ページ)と語っておられる。すなわち、神は、真のお父様のお姿を通してだけでなく、真のお母様のお姿をもっても現れるというのである。これが、二度目の聖婚式以降、真のお父様が語っておられるお母様のお立場である。すなわち、神は実体をもたれた真の父母様、すなわち「真の父」と「真の母」のお二人の姿をもって顕現されるのである。
 そして、お二人こそが「真理の実体」であることを知らなければならない。

四、真理のみ言は、「真の父」と「真の母」から出てくる
(1)今は、真のお母様がみ言を語られる時代
 真のお父様が地上におられたとき、真のお父様を通してみ言が語られてきた。しかし、真のお父様が聖和された後、真のお母様が説教をされるときがくることを、お父様は前もって語っておられた。

 「私が死んでも(真のお母様には)統一教会を導くことができる能力もあるので、お母様が説教する時が来るのです」 (『真の御父母様の生涯路程⑩』351ページ)

 このように、真理のみ言は、今まで真のお父様を通して語られたが、お父様が聖和された今日においては、お母様を通してみ言が語られているのである。すなわち、真理のみ言は「真の父」からだけでなく、「真の母」からも出てくるのである。
 ここにおいて、私たちが留意しておかなければならないことがある。それは、すべての存在と現象の原因は神の中にあり、その結果として、被造世界の事象が存在している事実についてである。
 『原理講論』に「神は絶対者でありながら、相対的な二性性相の中和的存在」 (77ページ)とある。すなわち、神は絶対者でありながら相対的な存在でもある。本来なら一つになれないかのような二つの異なる〝絶対〟と〝相対〟という要素(概念)が、神の中に内包されており、それらが統一されているのである。そもそも〝絶対〟と〝相対〟という概念自体が相容れないはずのものである。にもかかわらず、第一原因である神の中に両者が同居し、統一されている。
 神の相対的なものとして、性相と形状および陽性と陰性がある。それぞれ両者は二つの要素からなっている。しかしながら、統一思想は性相と形状について次のように論じている。

 「統一思想は性相と形状が本質的に異質ではないと見る。……性相は心的要素からなっているが、そこにはエネルギー的要素もあるのであり、ただ心的要素のほうがエネルギー的要素より多いだけである。また形状はエネルギー的要素からなっているが、そこには心的要素もある。エネルギー的要素のほうが心的要素よりも多いだけである。……両者共に共通に心的要素とエネルギー的要素をもっているのである」 (『統一思想要綱(頭翼思想)』33ページ)

 このように、性相と形状は性・形の二つの要素であるが、神の中に両者が同居し統一されている。さらに、その性相と形状は、それぞれ陽性と陰性とから成り立っている。
 『原理講論』は「神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である」 (46ページ)と論じている。この性相と形状の属性である陽性と陰性もまた、明るい・暗い、熱い・冷たい、固い・柔らかい、高い・低い、大きい・小さい、凸部・凹部……等々、それぞれ極と極の違う要素(性質)から成り立っている。それゆえ、被造世界のすべての事物は陽性・陰性の相対的関係をもって存在しているのである。
 前述したように、神が顕現されるとき男性的に現れることもあれば、女性的に現れることもある。神のみ言が語られるときも、神は男性的に語られることがあれば、女性的に語られることもあるのである。み言は唯一なる神から出てくるため、そこに矛盾はないが、その表現の仕方においては異なる表現が用いられることもあり得るのである。

(2)独り子(男性)のみ言と、独り娘(女性)のみ言について
 復帰摂理の中で、神のみ言が最初に授けられたとき、それは〝二枚の石板〟として現れている。すなわち、モーセの十戒のみ言は〝二枚の石板〟に記されたのであった。

 「み言によって創造されたアダムとエバは、完成したならば、み言の『完成実体』となるはずであった。……み言を記録した二つの石板は、復帰したアダムとエバとの象徴体であって、将来、み言の実体として来られるイエスと聖霊とを象徴した (『原理講論』372ページ)

 二枚の石板は、将来の「実体み言」であられる天地人真の父母様、すなわち「真の父」(独り子)と「真の母」(独り娘)のお二人を表しており、両者から神のみ言が語られることを示している。
 その場合、前述したように神が顕現されるときに男性的に現れることもあれば、女性的に現れることもあるように、み言が語られるときも男性的に語られることがあれば、女性的に語られることもある。表現の仕方が異なるのである。ただし、唯一なる神から出てくるためにそこに矛盾はない。しかし、その表現の仕方において、異なる表現が用いられることもあり得るということである。

 例えば、聖書の最初の書である創世記の1章~2章4節aと、2章4節b~2章25節とでは、天地創造の順序が異なっている。神名さえも、エロヒムとヤハウェという明らかな違いがある。創世記1章~2章4節aでは、天地創造は6日間でなされ、6日目にアダムとエバが創造され、7日目に神は休まれたと記している。この1章の表現は壮大であり、神は姿を見せず、言葉だけを用いて天地創造を行っている。
 一方、創世記2章4節b以降では、神は土のちりで人(アダム)を造り、彼のためにエデンの園を設けられた。神はアダムにふさわしい助け手を得ようと、さまざまな動物を造ったが、ふさわしい助け手が見つからず、アダムのあばら骨から最後にエバを造っている。その表現は素朴であり、神は人間と親しく会話をし、エデンの園の中を歩まれる神の足音まで聞こえている(3章8節)。
 このように、聖書の冒頭部分で、神は姿を見せずに壮大なスケールで顕現したかと思えば、近しく園を訪ね、日の涼しい風の吹くころ園の中を歩かれる素朴な姿をもって登場されたりもしている。このように、異なった姿で神が顕現しているのである。これらの二つの創造物語は、矛盾するかのように感じられるものであるが、いずれも神の啓示であり、真理である。このように、神は異なった表現で、男性的かつ女性的に語られ、現れたりもしているのである。

 真のお父様は、男性と女性との違いについて、次のように語っておられる。

 「男性と女性は、そもそも合うようにはなっていないのです。愛しながら合うようになっているのであって……それが原則なのです。見てみなさい。(男性と女性は)顔をみても違うし、身体をみても違うし、食べるのをみても違います。……みんな違います。それを男性と女性が合うと考えるのがいけません。……合うのはむずかしいのです。愛することによって合うのです。……それが神の創造の傑作です。完全に合わないようになっているのが、完全にひとつになるようになるのは、愛することによってです。……そうでしょう。夫婦になるには、愛がなければなりません。愛した夫婦で通じるのです」 (『祝福』1976年秋季号、32ページ)

 私たちは、独り子(男性)のみ言、および独り娘(女性)のみ言と対するとき、それらに真摯に接し、相和合させて捉えていかなければならない。すなわち、最初のほうで論じたように、言葉(み言)それ自体が真理なのではない。どこまでも「最終一体」となられた真の父母様こそが真理なのである。したがって、言葉の揚げ足取りをするかのように、その語られたみ言を批判的に捉えようとしてはならないのである。私たちは、表面的な言葉に囚われ過ぎてはならず、その本質的な意味を「原理」に照らし合わせて酌み取る努力をしていかなければならない。
 真のお父様は「天地人真の父母定着完了」を天宙に宣布するとき、「あなたがたも批評をせず、『この言葉どおりに一度生きてみたい』と考える人が、福を受けて生きることができる」(「KMS中和新聞」2012年4月27日号)と語っておられる。私たちは、このお父様の忠告に従って、両者の真理である「実体み言」に侍って生きようとする謙虚さをもつ必要があるのである。
 私たちは、2000年前にイエス様が語られたみ言につまずいたユダヤ教指導者のようであってはならない。彼らは、イエス様のみ言の本質を見ず、言葉尻ばかりを捕らえようとしたのであった。

 「人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした」(マルコによる福音書12章13節)
 「律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと……機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした」(ルカによる福音書20章19~20節)

 彼らのように言葉尻を捕らえ、批評ばかりするなら、永遠の命に至ることはできないであろう。

(3)独り子のみ言と、独り娘のみ言とは矛盾しない
  ――み言に接するとき〝言葉じり〟に囚われてはならない
 前述したように、神のみ言は独り子を通して男性的に語られたりもするが、女性的に語られたりもする。真のお父様は、神による〝男性〟と〝女性〟の創造について、次のように語っておられる。

 「神様は男性でしょうか、女性でしょうか? 男性に似たでしょうか、女性に似たでしょうか? ……人と似ているのです。それでは、人に似たのならば、それにも相対がいるでしょうか? 絶対に必要なのが相対なのです。相対がいなければ、生まれてくる必要もありません。考えてみてください。『男性』と言うとき、男性が生まれる前に女性を認めなければ、男性は生まれることができません。このような話は初めて聞きますね。男性を創造した主人がいるというとき、女性という存在を前提条件として定めておいてから、男性を造らざるをえません。正しい話ですか? (「正しいです。」)(『ファミリー』2004年4月号26~27ページ)

 真のお父様は、まず女性を〝前提条件〟として定めておいてから、神は男性を創造されたと語っておられる。その一方で、次のようにも語っておられる。

 「神様は、アダムに似せてエバを造りました。アダムの相対になることができるように、アダムを造られた原則、その青写真に基づいて造ったのです。聖書を見ると、男性のあばら骨を取って女性を造ったと記録されています。それは、骨子をまねて造ったということです。ですから、完成したアダムは、この地で失ってしまったものを取り戻すことができるひとり子です」 (『真の父母經』32ページ)

 このように、真のお父様は、一方では女性を前提条件として定めてから男性を創造し、他方では、アダム(男性)に似せてエバ(女性)が造られたのだと語っておられる。一見矛盾するみ言のようであるが、どちらのみ言も真理である。ただ、独り子を中心に見つめてみ言を語っておられるのか、あるいは独り娘を中心に見つめてみ言を語っておられるのかという違いがあるに過ぎない。
 ところで、真のお母様は2014年10月27日、天正宮博物館で次のように語られた。

 「大母様も私を出産した時、天が『あなたは乳母である』と命じたと言います。……そのため私は(大母様を)肉身の父母だと思いませんでした。愛おしくてもそう思いませんでした。……あなたのお父さんは神様だと。……私がこの場まで来るまでは天の保護圏にあったのです。私を教育した人は誰もいません。独り子、独り娘は同等なのです。独り子が独り娘を教育したとは言えません。どのような意味かわかりますか? ですから私が決めたのです」

 このように、真のお母様は「独り子、独り娘は同等なのです。独り子が独り娘を教育したとは言えません」と語っておられる。しかしながら、真のお父様は、次のように語っておられる。

 「純真無垢な女性を、すべての女性たちの上に立てようとするのですから、先生が一人で教育しなければなりません。……それで、『先生を双子の兄のように考えなさい。そして、父のように考えなさい』と(お母様を)教育しました」 (『真の父母の絶対価値と氏族的メシヤの道』57~58ページ、1994年3月20日)

 両者のみ言は矛盾しているかのように感じられるが、矛盾はないのである。独り子と独り娘は、もともと神の中にある陽性(男性)と陰性(女性)から出てきたものである。両者は、神から出てきた〝同等の価値〟をもつ存在であるが、どちらがより主体で、より対象であるかと問うときには、主体である陽性(男性)が陰性(女性)を教育したという主張には一理あると言える。
 しかしながら、前述したお父様のみ言に「男性と女性は、そもそも合うようにはなっていないのです。愛しながら合うようになっている……それが原則なのです。……愛することによって合うのです。……それが神の創造の傑作です。完全に合わないようになっているのが、完全にひとつになるようになるのは、愛することによってです」とあるように、男性と女性は、真理(理論理屈)や主体・対象という考え方によって一つになるというものではなく、愛し合うことによってのみ一つになるのである。したがって、対象である陰性(女性)から見るときに、真の愛で陽性(男性)と一つになるのであって、それは〝教育〟によるものではないと言えるのである。

 真のお母様は、常に「感謝します(감사합니다)」「愛します(사랑합니다)」という心をもって生活をされ、お父様に生涯侍ってこられた。そのような愛の心情、感謝の心情をもつことで独り子と完全に一つになり、「最終一体」を成し遂げておられるのである。そのような観点からみるとき「独り子、独り娘は同等なのです。独り子が独り娘を教育したとは言えません。……ですから私が決めたのです」と言われることも真理である。
 また、お父様のお母様に対する教育はことこまかく事情や意味、やり方を説明する教育ではなく、悟らせて成長させる教育であり、お母様はお父様の願いを悟られ、自ら行動して勝利され、真の母としての位置に進まれたのであって、 「ですから私が決めたのです」と語っておられるのである。

(4)み言を「原理」に基づいて解釈しなければならない
 み言は、神と完全一体となった天地人真の父母様から出ているために、そこに本質的矛盾はない。もし、矛盾あるいは多様性があると考えるなら、それはみ言の理解不足からきているものに他ならない。私たちはみ言を理解するとき、「原理」(統一理論 )をベースにして解釈することで、その本質的な意味を酌み取って、両者のみ言を和合統一させて理解しなければならない。そうしなければ、家庭連合にも分派・分裂が生じることになりかねない。『原理講論』は、次のように論じている。

 「聖書はそれ自体が真理なのではなく……その真理の重要な部分が、ほとんど象徴と比喩によって表現されている。したがって、それを解釈する方法においても、人により各々差異があるので、その差異によって多くの教派が派生してくるのである。ゆえに、教派分裂の第一原因は人間にあるのではなく、聖書自体にあるので、その分裂と闘争は継続して拡大されるほかはない。したがって、新しい真理(「原理」)が出現して象徴と比喩で表現されている聖書の根本内容を、だれもが公認し得るように解明しない限り、教派分裂とその闘争の道を防ぐことはできない」 (170ページ)

 このように、新しい真理である「原理」に基づいて聖書のみ言を解釈するとき、教派が分裂していく道を回避することができるのである。
 それと同じように、家庭連合においても「原理」(統一理論 )に基づいてあらゆるみ言(独り子のみ言、独り娘のみ言)の本質的意味を酌み取り、和合統一して解釈することで、み言に多様性が残らないようにしていかなければならない。もしみ言に多様性が残るなら、家庭連合にも分派・分裂が生じることになる。そして、従来のキリスト教と同じように、「み言を解釈する方法においても、人により各々差異があるので、その差異によって多くの教派が派生してくる……教派分裂の第一原因は人間にあるのではなく、み言それ自体にある」と言われないようにしなければならないのである。
 それゆえ、真のお父様は原理の本(『原理講論』)を中心として、み言を勉強しなければならないと、次のように忠告しておられる。

 生命を育ててあげる内容はみ言です21日修練を受け、40日修練を受けたからといって、統一教会の教会員であると考えたら大きな誤りです。原理の本を中心として勉強しなければなりません自分が感じたことを、原理の本とともに胸にしまっておくようにすれば、いつでも自分の証をすることができます。原理の本で恩恵を受けたことを伝えるのです」 (天一国経典『天聖經』259ページ)

― 以上 ―

 (注:真のお父様は、「統一原理」「勝共理論」「統一思想」の三つをもって統一理論と言われた。お父様は、この統一理論に基づいてこそ、み言が理解できると語っておられる。)