文責:教理研究院
独立系のユーチューバー牧師の岩本龍弘牧師は2025年11月24日、X(旧ツイッター)で、金沢大学の仲正昌樹教授の〝統一教会には地獄トークはない〟との主張に対して、それを否定するかのような投稿をしました。岩本牧師は、文鮮明師が〝日本人の会員に対して献金を取り立てるために地獄トークを行っている〟かのように主張しています。しかし、文師の発言全体を見て真意を読み解けば、決して「地獄トーク」や「過酷な献金の取り立て」などではないことが分かります。以下、長文になりますが、その投稿文を引用します。
なお、新たな誤解が生じることを防ぐ目的から、岩本牧師の発言は「茶色の文字」で、家庭連合側の発言などは「青色の文字」で区別して表記します。
「金沢大学の仲正昌樹教授は、統一教会の地獄トークを全面的に否定しているが、光言社から出版された『神様の摂理と日本』という説教集の中で、文鮮明師自身が日本人の会員に対して、収入の十分の三を献金するよう繰り返し強調しながら、次のように語っている。
『生きている人が活動を停止すれば地獄に通じるのです。』(p.146)
ユダヤ教やキリスト教では十分の一献金が普通なのだが、文鮮明師は日本人の会員に対しては十分の三の献金を要求している。しかも地獄に落ちることの恐怖を強調するために、次のように付け加えている。
『恐ろしいことです。今、皆さんの心情圏は、停止して下に下がりつつあります。その恐ろしさを知らなければなりません。それを警告するのです。』(p.146)
さらに言うと、文鮮明師はこの説教の中で、十分の三献金を要求するだけでなく、次のような言い方で、家を売ってお金にすることも要求している。
『普通、一軒の家に一家庭が暮らしているとすれば、二家庭が一つになって一緒に暮らさなければなりません。そして、一軒を売り、そのお金を半分ずつに分けて生活するのです。』(p.144)
地獄トークによって、日本人から過酷な献金の取り立てを行っていたのは、他ならぬ文鮮明師自身だったのだ」
岩本牧師は、以上のように、文師のみ言を引用しながら、批判的に述べています。しかし、これは曲解して述べているものと言わざるを得ません。その問題点について以下、応答します。
1.文師が述べる「十分の三献金」の意味について
岩本牧師は、「文鮮明師は日本人の会員に対しては十分の三の献金を要求」「日本人から過酷な献金の取り立て」をしているなどと述べながら、あたかも日本人だけに十分の三献金が要求されているかのように語っています。しかし、文師のみ言の前後を読めば、それは誤りであることが分かります。文師は十分の三献金に対して、次のように述べています。
「十分の三条は、第一に教会のために、次には国のために、その次には世界のために使うのです。このように教会と国と世界のために使うものが十分の三条です。万民がそのようにすることにより、飢餓状態で死んでいく(世界の)二千万人を救済することができるのです。今後、(先進諸国の)すべての国民が十分の三条をすれば、税金も、緊急な時以外には次第に減っていくはずです。そのようにすれば(万民の)国民生活が良くなるはずです。その次に、世界の問題に入っていくのです」(『神様の摂理と日本』148ページ)
以上のみ言から分かるように、十分の三献金は、日本人に特化して要求しているものではなく、全世界の教会員に対して普遍的に語っているものであることが分かります。
文師は、「9億を超える人たちが、今この時間にも飢えで苦しんでいます。その中で、6秒ごとに一人の子女が栄養失調で命を失っているのです」(『平和經』1143ページ)と語っており、実際に、先進諸国では〝飽食の時代〟を満喫していますが、それは一部の先進諸国だけです。発展途上国では、現在も約7億人が飢餓に苦しんでいる冷酷な現実があります。にもかかわらず、先進諸国において、10億食分にもなる食料を毎日廃棄していると言われています。このような不条理な現実に対し、文師は「飢餓状態で死んでいく(世界の)二千万人を救済」しなければならないと言われているのです。十分の三献金は、「教会と国と世界のために使うものが十分の三条」であると語っているのです。
このみ言から分かるように、文師は「教会と国と世界のため」と語っておられるのであり、しかも、それは日本だけに限るものではなく、先進諸国のすべての国において該当するのです。その献金について、どのような姿勢でするべきかを、文師は次のように述べています。
「天一国の民は、誰もが天のみ前に人類の福祉と平和のための基金の募金活動に参与するようになります。しかし、税金の形式ではなく献金として、収入の十分の三をまず先に国家に捧げて暮らす模範を示さなければなりません。強制ではなく、自発的に喜んで天のみ前に捧げる心情の奉献でなければならないという意味です」(『平和經』1566ページ)
このように、文師は、献金は強制ではなく、自発的に喜んで捧げる「心情(愛の心)の奉献」でなければならないと語っておられます。すなわち、喜んで捧げることが重要であり、そこに心情(心)が備わっていなければならないと言われるのです。
十分の三献金は「心情の奉献」と語っておられ、岩本牧師が誤解して述べる「過酷な献金の取り立て」というものではありません。
2.文師が「地獄トーク」を行っているという主張について
岩本牧師は、「文鮮明師は……地獄に落ちることの恐怖を強調」「地獄トークによって、日本人から過酷な献金の取り立てを行っていたのは、他ならぬ文鮮明師自身だったのだ」などと述べています。岩本牧師が引用しているみ言のその前の部分は次のようになっています。
「(信仰を)革新的に行って、全員教会に来て伝道しなければなりません。何の収入もないのにじっとしているような間抜けなことをしてはいけません。生きている人が活動を停止すれば地獄に通じるのです」(『神様の摂理と日本』146ページ)
岩本牧師は、上記み言の最後の部分だけを引用していますが、これは典型的な〝切り取り〟の手法と言わざるを得ません。また、この表現は伝道をしなければ、即ち神の前に人を導くことをしなければ、自分も人も神の前に復活することは出来ず、魂は堕落圏内に止まり、それは「地獄に通じる」というものであり、「地獄に落ちる」とか「恐怖を強調」したいわゆる「地獄トーク」ではありません。信仰生活において怠惰にならないよう伝道に励む信仰姿勢の教訓を述べるものであり、「過酷な献金の取り立て」とは無縁です。
ところで、聖書にはイエス様も地獄について語っておられるみ言があります。
「もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。地獄では、うじがつきず、火も消えることがない」(マルコ9・47~48)
「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである」(マタイ25・41~43)
このように、イエス様は地獄に関連する内容を語っておられます。しかしながら、イエス様を信じた人たちは「地獄」等の言葉での威迫困惑のゆえに信じたというのではありません。
ペテロの次のような告白があり、イエス様が応答したことが述べられています。
「ペテロが言った、『ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました』。イエスは言われた、『よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである』」(ルカ18・28~30)
上記のような聖書の記述は、イエス様の言動を批判的に捉えようとする人にとって、「恐怖を強調する」というものになってしまいかねません。イエス様の語る「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者」という表現こそは、「過酷な献金の取り立て」と結びつけて批判する人も現れる可能性は大いにあり得るのです。
3.「家を売って献金にすることも要求している」との主張について
また、岩本牧師は、文師が「家を売ってお金にすることも要求している」と述べ、文師や家庭連合は、あたかも家を売ってでも献金の取り立てをするものとしています。ところが、引用されたみ言の後ろの部分を読み進めてみると、次のようになっています。
「普通、一軒の家に一家庭が暮らしているとすれば、二家庭が一つになって一緒に暮らさなければなりません。そして、一軒を売り、そのお金を半分ずつに分けて生活するのです。……一人で開拓するのは大変なので、十人でグループをつくって解決方法を探すのです。……十人の氏族的メシヤがやるのです。各県で編成し、十人の祝福家庭を中心として復興伝道活動を行うのです。自分の生活的な基盤を一人で築こうとすれば大変でしょう? ですから、十人の氏族的メシヤが集まり、一緒にやるのです」(『神様の摂理と日本』144ページ)
岩本牧師は、X(旧ツイッター)で上記の茶色の部分だけを引用しますが、これは典型的な〝切り取り〟の手法と言わざるを得ません。岩本牧師は、自分でそれを〝切り取った〟のか、誰かにその部分だけを指摘されて、結果として切り取りになったのか真相は分かりませんが、続きの部分を読めば、文師の意図することは、氏族メシヤ活動(伝道)を勝利するために、家庭同士が協力し合って生活すると、より効果的であるというものに過ぎません。つまり、氏族メシヤ活動、伝道のために祝福家庭が生活基盤を共にして協力し合うことが効率的であるという一つの方法案を示したものであり、「家を売ってお金にすることも要求している」ということではありません。
4.み言に接する内的姿勢について
み言(聖書のみ言、文師のみ言等)を正確に捉え、理解するためには、どのような内的姿勢で接するのかが重要であると思います。
例えば、イエス様のみ言に感動して回心し、喜んですべてを捧げて信仰生活をするクリスチャンもいますが、反対に、同じみ言を聞いてイエス様に反旗をひるがえす人もいます。
イエス様は「高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである」(マタイ13・45)と語っておられますが、イエス様のみ言に感動し、回心したクリスチャンは、歴史的に上記のように行動してきました。それは、人生の全てを投入できる最高のものと出会ったと判断するからです。
ところが、同じイエス様のみ言を聞いても、次のように判断する人がいることを、聖書は述べています。
ヨハネの福音書6章には「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」(6・51)、「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(6・53)等々イエス様は語られていますが、「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか』」(6・60)とイエス様のみ言を批判したことが記されています。このようにみ言を批判的に受け止めてしまえば、聖書が述べるごとく、「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」(6・66)という行動を取るのです。
それゆえ、イエス様は「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイ18・3)と、どのような内的姿勢であるべきかの教訓を語っておられます。
当時の人々には、イエス様に対して次のように接している人もいました。
「祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、『この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう』」(ヨハネ7・14~15)。「彼らは驚いて言った、『この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。この人は大工の子ではないか。……こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか』。こうして人々はイエスにつまずいた」(マタイ13・54~57)とあります。
その一方で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子をはじめ、多くの弟子たちは「わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」(ルカ18・28)とあります。また、イエス様を信じた「多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって(イエス様)一行に奉仕した」(ルカ8・3)とあります。このように、同じみ言を聞いても、一方では永遠の生命を得たと喜ぶ人もいれば、イエス様のみ言に対して「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」(ヨハネ6・60)と批判する人もいたのです。
イエス様のみ言に対して生命を得る接し方、「幼な子のようになること」が必要であるように、文師のみ言に対しても同じように先入観を持つことなく、心を白紙にして幼な子のように接する必要があると言えるでしょう。








